-3- 遭遇
-1-
あれからおおよそ数日が経過した後、僕らは石碑群の地から旅立つことになった。
話し合いの結果、結局全員で塔へと向かうことで意見が一致したのである。しかしそれは願いが叶うという九十九の言葉を信じたというよりも精神的負担に対しての懸念によるところが大きい。
あれから色々と試したが、九十九の言う不死身性についてはほとんどが事実であることが確認された。流石に外傷によって死なないかどうかについては危険性もあり確かめられてはいないが、疲労や食欲については納得するしかない結果となった。
しかも明らかな異常が起きているはずなのにその異常を本人が自覚できないという、気味の悪い感覚のせいで、自分達の体が実際は危険な状態なのか、それとも普通なのか、それすらも分からなくなってしまっている。
その結果、急に限界が来るのではないかと段々焦燥感や不安感が高まり、じっとしているよりも目的を持って行動した方がマシという、九十九の言っていた通りの結論に帰結したのである。
それでもすぐに塔を目指すことに決まったわけではない。始めは当然反対意見もあったのだが、ある深刻な問題が起きて賛成一致となったのである。その問題というのを一言で表すなら“退屈”であった。
僕らは不死性の検証も兼ねて一週間程度石碑群の地で過ごした。始めは特に問題もなくまだ元気でいられたが、最初の数日ですでにすることも無くなり、徐々に会話も少なくなっていった。九十九以外に石碑を通じて現れた人間はおらず、変化のない状況でただ待っているだけとなった僕らは、時間の流れが遅々と感じられ、“退屈”を誤魔化す術をなくしてしまったのである。
退屈、というとまるでお気楽な学生の愚痴のように聞こえるが、この世界においては精神をすり減らす原因にもなり得る極めて大きな問題だった。人は何もすることが無くとも思考は回る。というより、することが無いからこそ思考が回る。そして人は考え過ぎると大抵が良いことにはならない生き物だった。
しばらくすると九十九の忠告や壊れた人形のように奇行を繰り返す彼らのことが脳裏を過るようになり、より一層の不安を抱くようになるという悪循環。このままでは彼らと同じ廃人になってしまうという強い危機感を得たことで、最初は塔へ向かうことに強く反対していた代市や圓も徐々に意見を変えるようになったというのが事の顛末であった。
ちなみに石碑群の地を出発する段になっても、あれ以来九十九が現れることはなかった。結局僕の名前を知っていた理由を尋ねる機会はやってこないまま、幾分悶々とした気分で出発することとなってしまった。今では多少強引にでも引き留めておけばと思うくらいには後悔している。もちろん退屈凌ぎという意味で。
石碑群の地を出発してしばらく。
僕らはできるだけ会話しながら歩を進めた。
「にしても変な気分だな。今や不死身の怪物だぜ、俺達」
「そんな変わった気はしないのにね」
「まあこんな所で餓死するよりはマシだと思うしかないか。櫃岡はどう思う?」
「うるせえ。話しかけんな。鬱陶しい」
「口悪いな相変わらず。でもこれで結構女子人気あるから嫌になるよな~」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだよ。しかも入学してからすでに何度か告白されてるらしくてな。全く意外な―――」
「おい、谷風。そのうるせえ口、二度と開けなくしてやろうか」
「ちょぉ!離……うごご」
「ほ、ホントにあれでモテるの?一年の女子の感性歪んでない?」
「知りません。僕、記憶ないので」
「花野井には聞いてない。善ざ―――」
「分かりません。私、友達少ないので」
「……あ、そう」
一週間にも及ぶ時間を共に過ごすことで僕らはそれなりにコミュニケーションを取れるような関係を築けていた、と思う。あの櫃岡ですら最近はまともな返事をすることも……偶にはある。
そんな風に僕ら生徒組は思いの外快活に荒野を進んでいたが、しかし一人だけ口数が減っている人もいた。僕は顔色の悪いその人に声を掛ける。
「代市先生……いくら疲れないとは言っても一度休んだ方が良いですよ。この世界って夜になるわけではないみたいですし、自分達で決めないといつまで経っても休むことができませんから」
「……花野井君」
九十九と別れてすぐ、この世界には太陽が存在しないことに気が付いた。太陽の位置で時間が分かるのではないかと空を見上げたことがそれに気付いた切っ掛けだった。空のどこを探しても太陽はない。それなのに荒野は真っ昼間のように明るいという矛盾。寧ろすぐにそのことに気付かなかったことの方が不思議なほど規模の大きな異常ではあるのだが、当たり前にあると思っていると案外気が付かないものである。
「ごめんなさいね。私がしっかりしなくちゃいけないのに」
「そんな……代市先生が気負う必要はないですよ」
僅かに笑みを見せる代市だが、まだ笑みを見せられる程度には余裕があることが分かり、少し安堵する。しかし無理をしていることは明確で、そしてそれが分かったところでどうにかできる術を僕は持ってはいなかった。
「あ、また人がいる」
すると隣を歩く莉杏が人影を見つけたらしい。
ただ、驚くような反応をする人は誰もいない。というのもここまで来る間にすでに数人の人間とは擦れ違っているからだ。最初は九十九のような理性ある人間がいるのだと期待して声を掛けたが、
「どうせ今までと同じイカれた奴だろ。面倒だから無視だ。無視」
櫃岡が言うように石碑群の地で見た廃人と同じ状態の人しかいなかった。廃人となった人いうのは一見普通の態度だったとしても基本的には会話が通じない。偶に通じているような反応をする人もいるが、実際には自分の中で完結しているため、会話にはならない。もしかすると何か知っているのかもしれないが、聞き出すことは不可能だと数日の検証で悟った。
「……ううん。多分違う」
「確かに、なんかこっちに走って来てないか?」
遠くに見える人影は複数。その全てがこちらに向かってきているように見える。表情は見えないが微かに何かを叫んでいる声が聞こえてきた。それによってそれまでの緩んだ空気に緊張が走る。検証して分かった廃人の傾向として、廃人の行動は複数人で行動しないというのがある。必ずと言っていいほど一人でいる。他者を必要としなくなった存在。つまりあれは廃人ではない可能性が高い。
「そこの人~!助けてぇ~!」
ある程度距離が近づいてきてこちらからも状況が確認できるようになってきた。先頭を走る女性はウェーブのかかった輝くような金色の髪を振り乱し、半泣きでこちらへと助けを求めている。その後ろを追いかけるように走る男達はまだ距離はあるもののもう少しすればその女性に追いついてしまいそうだった。
おそらくは女性の身に危険が迫っている状況なのだろうが、如何せん別の部分に目が行ってしまい緊張感が無くなっていくのを感じる。
「な、何あれ。山が揺れてる」
女性であるはずの莉杏ですら目を剥いて驚いている。
どことは言わないが金髪の女性の二つの双塔が右に左に上に下にと暴れ回り、動く度にどうしても視線が引き寄せられる。まさかあれが願いを叶える塔だとでもいうのか。
「お、お願い助けて!追われてるんです!」
「おい」
金髪の女性は櫃岡の背中に回り込み、身代わりにするように後ろに隠れた。
まさか逃げてくる女性を暴漢から守るなんて展開を身近で経験することになるとは。法律もないような世界の治安が悪いだろうことはこの数日で予想だけはしていたが、流石に漫画でも見ないようなべたべたな展開を予想していたわけではない。
「あ、あの人達。私のことをいきなりお、犯そうとしてきたんです!」
「あぁ?本当かそれ」
「ほ、本当です。気付いたらこんな何もない場所に放置されてて、ようやく人を見つけたと思ったらあんな……隙をみて逃げていなかったら何をされていたか。うぅ……」
「そんな……酷い」
「完全に女の敵ね」
話を聞いても予想外に予想通りの事情、まさかのまさかだった。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだが、この場合フィクションに現実がすり寄ってきた感がある。
そんなことを考えているとあとから男達が追いついてきた。人数は五人。こちらの方が多いとは言えこちらは女性の比率が高い。もし争うことになればこちらが不利だ。ここは逃げた方が良い。
「皆、その人連れて逃げよう」
「もう遅えよ。ガキ共。そこの女を置いてどこかに失せな。そうすれば何もしないで見逃してやる」
「……本当にサイテーね。許せない」
「で?許せないならどうするんだ」
「ど、どうするって。……とにかくあなた達に彼女は渡さないわ」
「そうかよ。なら痛い目に遭えばその意見は変わるか?」
髭を生やした男は周りにいた男達に合図を出す。男達はこちらを囲うように広がり、逃げられないようにするつもりのようだ。正直かなり拙い。もし今背を向けてしまえばその隙に誰かは捕まる可能性が高い。逃げるタイミングを逸した。せめて女性陣だけでも逃がそうと口を開こうとすると、
「く、くははははははは」
突然の笑い声に僕らだけでなく男達も瞠目する。
「おいおい。本当に最高だなこの世界は。向こうじゃ俺に喧嘩を仕掛ける馬鹿、しばらく見ねえってのによ」
「……櫃岡?」
「こんな、どうしようもない奴らまでいるなんてよ。やっぱりここでなら俺は……」
「おい、テメエ何を笑ってやがる。状況が分からねえのか」
「いいなぁ。その三下みたいなセリフも」
「んだと?」
「こいつらの相手は俺がするからお前らは離れてろよ。怪我……はしねえんだったな。楽でいいぜ、ホントによ」
櫃岡は指の骨を鳴らしながら前へと進み出る。
思わず止めようと前に出ようとするが、ノリに肩を掴まれて止められる。
「大丈夫だ。あいつああ見えてとんでもなく強いから」
「いや、そうなのかもしれないけど相手五人だよ?」
「それでもだ。まあ見とけって」
なぜかノリが得意気にそう言う。
それに疑問に思う間に櫃岡は無造作に男の一人に向かって歩き出す。
加勢するタイミングを逸した僕はそれを後方からただ見ていた。
「……氏黎は記憶がないから、あいつのこと知らないんだったな」
男が大きく腕を振りかぶり、櫃岡に向かって殴りつけようとする。
「ぐぁあぁあああ!!!!」
「は?」
一瞬、櫃岡が横に動いたかと思えば殴り掛かってきたはずの男が地面に倒れ込み、突然苦しみだした。何が起きたのかまるで理解できない。櫃岡がやったのか。
「あいつ地元では有名なプロボクサーなんだよ。よくテレビの取材とか受けてたりしてたんだぜ?」
「痛みを感じるってのは検証済みだぜ」
「テメエッ」
倒れた男のすぐ横にいたもう一人の男が櫃岡に掴みかかる。
しかし不思議なことにいつまで経っても男が櫃岡を捉えることができない。
まるですり抜けるように男は櫃岡の体に触れることすらできなかった。
「せっかく手を出さずにいてやってるってのに……ウォーミングアップにもならねえな」
櫃岡がそう呟くと何をしたか分からないうちにまた一人倒れ込んだ。
「ぐうぅ」
「くはは。今度は気絶させるつもりで打ち込んだんだがな。頑丈さだけは褒めてやるよ!」
それからは櫃岡自ら残りの男達のところへ近づき、次々と一撃で打ち倒していく。
それはまるでRPGでレベルを上げ過ぎてしまった勇者が雑魚敵を倒していく時のような理不尽さを感じた。
「ねえ。まるで何が起きているか分からないんだけど」
「お、俺も櫃岡の試合を見たことあるわけじゃないから……。まさかここまで間近で見ても動きが目で追えないとは。やっぱプロってすげえわ」
男達は呻きながらも意識を失ってはいないらしく、痛みで動けなくなっているだけのようだった。ここまで躊躇い無く人を殴れる(殴っているのかどうかも僕の動体視力では判別できないが)というのは相当に殴り慣れている証拠だ。プロボクサーが一般人を殴ると聞くとどうも犯罪的な響きが拭えないし、実際見ていてもそう思うが、あくまで正当防衛だと自分を納得させる。いや、よく考えたらここに法律なんてないのだから正当防衛も過剰防衛もない。シンプルに襲われたから反撃したと考えた方が精神衛生上良さそうだ。
すでに暴漢達は問題がなくなりつつあるため、視線を先程追われていた金髪の女性の方へと向ける。すると櫃岡無双に対して何と言えばよいのか。口に手を当て、瞳を震わし、後退る。そう、直接的に表現をするならば引いていた。ドン引きしていた。
「そりゃそういう反応にもなるよな」
「……うん。櫃岡には可哀想な話だけど血が出てないだけでR-18指定ものだよ。これじゃ迫力がありすぎる」
迫力も何もリアルの喧嘩なのだから当たり前ではあるか。
少しして暴漢達が全員地面に転がり、安全がある程度確保されたところで金髪の女性が改めてお礼を言ってきた。
「ありがとうございました!あなた達は命の恩人です!」
「そんな……そこの彼、櫃岡が全部やったことなので。お礼なら彼に」
そもそもこの世界で命を助けることは不可能であるため、少しずれたお礼でもある。やはり彼女はこの世界に来たばかりなのだろうか。
「そ、そうですね。その……ありがとうございましゅ」
噛んだ。
そのことにあわあわしながら彼女は櫃岡に頭を下げる。
さっきの蹂躙を見たことが緊張の原因か。まさか惚れたということはあるまい。正直僕もこの数日間の付き合いがなければ逃げ出していたかもしれないので彼女を笑うことはできない。
「ッチ」
櫃岡の方も自覚があるのか、不必要に彼女へと近づこうとはしなかった。ここ数日で感じていたことではあるが、櫃岡という男は言動こそ粗暴ではあるものの愚鈍ではない。今も彼女が怖がっていることを知って一歩引く冷静さがある。あの敵を作る性格さえなければさぞや学校でも英雄的な扱いを受けていただろうにもったいない。
「ところで皆さんのお名前は何とお呼びすれば」
彼女がそう問いかけてきたため、そこからはお互いに自己紹介という名の軽い情報交換を行った。
それによって知った彼女の名前はミレイ・ヒューレット。イギリス人。ここに来て初めて出会う外国人だった。日本には長期にわたり留学していたこともあり日本語をかなり流暢に喋ることができるそうで、この世界に来る直前の記憶でも大学の長期休暇で日本に遊びに来ていたらしい。聞いている限りだとこちらの世界に来てからはまだ日が浅く、そこに転がっている男達が初めて出会った人類だったようだ。僕らよりもよほど不幸である。
「えぇ!?ここって人が死なないんですか!??」
「あなたもかなりの時間飲まず食わずでいたんですよね。気が付きませんでしたか?」
「言われてみれば確かに……変ですね!」
どうやら随分と抜けた人のようだ。
まあいきなりこんな世界に一人で放り出されて冷静でいろというのも難しい話か。
「それにしてもミステリアスな世界ですね……それで、その……どうやったら帰れるのですか?まさか帰れなかったりするのでしょうか」
「実はそうなんです。ただまあ手掛かりがないわけでも……」
彼女に塔のことを説明しようとした時、後ろから地面を蹴るような音がした。
振り返ると先程櫃岡が倒した男の一人がミレイへと猛然と走ってきているのが視界に映る。
油断という言葉が脳裏をちらつく。
馬鹿か僕は。
さっき櫃岡は何と言っていた。
“気絶させるつもり打ち込んだのに”と言っていなかったか。
この世界の法則が怪我をすることも疲労することもないというものであれば、つまり
―――すぐに回復するということじゃないか!
「「離れろ!」」
櫃岡と同時に声を上げる。
ちらと櫃岡を見るが、ミレイのいる位置からは若干距離があった。
走ってくる男が彼女に辿り着くまでには間違いなく間に合わない。
彼女が人質にでも取られる。そうなれば最悪だ。
スローになった視界で僕は咄嗟に彼女を庇うように体を男との間に挟み込む。
ドンッ
衝突音。
しかし不思議と衝撃はこない。
ぶつかる直前で閉じた目をゆっくりと開ける。
すると目の前には男を押し倒すように倒れ込んでいる圓がいた。
「ってぇな。このガキ」
「っひぃ」
どうやら横から圓が体当たりして男を押し倒したらしい。
「どけ!」
――パシ
「よくやった。眼鏡」
男の振るった拳は追いついてきた櫃岡によって受け止められる。
返す刀で櫃岡は男の顎先を掠めるように拳を振るった。
空振り?
そう思った直後、拳が当たっていないはずの男はなぜか膝から崩れ落ちる。
「こういうのは効くのか」
立ち上がろうとする男だが、膝に力が入りきらず何度も転んでしまう。意識を失いこそしないものの脳に何らかのダメージが入っていることは間違いない。さっき顎先を掠めるように拳を振るっていたが、まさか狙って脳震盪を起こしたとでもいうのか。
「おい。こいつら痛みが引けばまたすぐに動き出して襲ってくるぞ。さっさと離れた方がいい」
「……そ、そうね。早く離れましょう。さ、皆立てる?」
「ちょ、ちょっと待って。今腰が抜けちゃって」
圓は立ち上がろうとするも力が入らない様子だ。それもそのはずである。相当に怖かったことだろう。だからこそ男に立ち向かった圓の行動は勇敢といえるものであった。初めて僕は圓のことを心から尊敬した。
ミレイは誰よりも先に圓に近づき、そして手を引っ張り立ち上がらせた。
「圓、龍生さんでしたよね」
「あ、うん。は、はい。そうです」
「本当にありがとうございました。あなたがいたから私は今も無事でいられます。勇気あるあなたの行動に心からお礼を」
ミレイはにこりと微笑み、圓の手を自身の両の手で包み込んだ。
ずれた眼鏡を直しながら圓は呆然とそれを見つめる。
僕が記憶を失くす前、どんな人生を歩んでいたのか興味もないが、おそらく、きっと、人が恋に落ちる瞬間を見たのは初めてだったに違いない。殺風景にしか思えなかった荒野の真ん中でまるで二人は物語の主人公のように自分達のことだけを意識していた。
-2-
それから僕らはただ走った。
暴漢達が追いかけて来ていないのは後ろを何度か確認して分かっていたが、後から気が変わって追跡されるという可能性もあったため、見えなくなるまではただ遠くへとひた走った。別にそこまで急ぐ必要があったわけではないが、疲れないのであれば急いだ方が良いと判断した結果である。
現在は進む速さに個人差が出始めた影響で、先行組、中央組、最後尾と距離ができてしまっているが、あくまでもお互いが見える範囲には留まっている。先行組として安全に休める場所を探していた僕はついに暴漢達の影すらも地平線の先に消えた地点で、点在する石碑の一つ、その前まで辿り着いた。
ここ数日の検証によって知っていたことではあるが、ずっと走りっぱなしでも走る前と肉体的なコンディションが変わらないことには幾分気味の悪さが残る。寧ろマラソン顔負けの距離を疾走した事実の方を疑いたくなるほどに体の調子は良かった。
「先生!あと少しだからガンバって!」
「……」
後から追いついてきた中央組、その一人である莉杏の声が聞こえてきて閉じていた目を開ける。見てみると先頭にいた莉杏も空元気の雰囲気、近くにいた代市はそんな莉杏の励ましに反応することもできないほどに憔悴し、辛うじて歩いている状態だった。
体力的には無尽蔵になっているはずなのにどうしてあそこまで憔悴しているのか。今更確認するまでもない。精神を摩耗させることになった原因、それはこの非常識な世界に対するストレスである。
夜にならない。
疲れない。
眠くならない。
お腹が空かない。
最初は不思議で済ませられていた現象に精神が拒絶反応を出してしまっているのだ。特に代市はそれが顕著である。九十九が言っていた「自然の節理から離れるほどにイカレてくる」という言葉は残酷なほどに真実だった。
「ふぅー何とか前に追いつきました。龍生さんもほら、ここがゴールですよ」
「み、ミレイさんは大丈夫なんですか?」
「はい。こう見えても私運動得意なんですよ。龍生さんは……」
「僕も全然平気ですよ!ほらこの通り!」
そんな中、あまり負担に感じていなさそうな二人が莉杏達のすぐ後ろから見えてきた。やはり精神的強さも個人差があるらしいが、ミレイはともかく圓についても想定外にタフなようだった。
それにしても、
特別でも何でもないはずの二人の会話が、今見ると何か侵しがたい空間が広がっているようにも見える。変なバイアスがかかってしまっているからだろうか。不思議と視線も二人へと引き寄せられる。
「まさかあの二人……」
すると隣で休んでいた同じ先行組のノリも二人を見て何かを言おうとしていた。
「ノリ。そっとしておいてあげよう」
「氏黎はあれに気付いてたのか?」
「まあ何となくはね」
口を開けば皮肉ばかりだった圓は以前とは見違えるほどまともになっている。ミレイの方は特にそう言った雰囲気はないため一方通行にも見えるが、まだ分からない。馬に蹴られたいわけではないからこれ以上介入するような行為はしないつもりだが、見守るくらいはいいだろう。退屈だし。
そのままぼうっと楽しそうな圓とミレイの会話を眺めていると、ノリが呟く。
「それにしても綺麗な人だよな」
「ノリ……まさか」
「ち、違う違う!単純に、客観的事実として、綺麗な見た目だと思ったって話だよ。そもそもこんな状況でそんな気になんてなれねえって」
ノリの言う通りミレイの外見は確かに目を引かれる要素が多い。金色に輝く髪、碧い瞳、そして何よりあの外国サイズのスタイル。僕らが日本人というのも一因なのだろうが、注目されるために存在するような容姿である。あの暴漢達が彼女を襲うのも納得してしまうほどに。
そんなことを考えていたその時、脳裏に何かが引っかかった。
今思えば、彼らの目的は本当にミレイを犯し、暴行するためだったのだろうか。状況証拠としてそうなのだろうと考えていたが、別に僕らは彼らの行動の目的を聞いたわけではない。それに―――
「どうした?氏黎。突然黙り込んで」
「……いや、何でもない」
いや、今考えることじゃないか。
そもそも彼らとはもう会うこともないのだから。
「そうか?うーん。それにしてもあれは相当競争率高そうだけど、圓さんはやれるもんかね」
「さあ。ただこんな状況だからこそ意外とそういうこともあるかもしれないよ」
「はは。てなると圓さんにとってはこの世界に来たことも悪いことばかりじゃなかったってことか」
かもしれない。それにそういう意味で言うと暴漢達を返り討ちにしていた櫃岡もどこか楽しそうだった。やっぱりボクサーというくらいだから喧嘩とか好きなのだろうか。そんなことを考えながら最後尾でようやく到着した櫃岡に視線を送ると、睨まれたので視線を横に逸らす。
実は暴漢達から逃げた直後、僕とノリが先行して石碑を探す一方で、櫃岡にはいつ追いつかれても対応できるように最後尾にいてほしいと半ば強引に頼んでいた。もしかしなくともそのことがストレスだったに違いない。
「話変わるけど櫃岡はプロボクサーだったんだよね。それって今も?」
「うん?そうだと思うぜ。未だ負けなしの新進気鋭って言われてたし」
「“負けなし”……確かに素人目に見ても途轍もないものを感じたね」
「あぁ、さっきのあれは驚いたな。俺なんて腕がぶれてちゃんと見えなかったよ」
あれだけの才能があれば有名になるのも頷ける。元の世界でなら世界王者にだってなれていたかもしれない。まあ、あのレベルまで行くと僕が測れるような次元の強さではなかったので世界王者云々は適当なのだが、とにかくそれほどすごかったということである。
「というか氏黎、何となく俺も休んじまってるけど、休むなら石碑で飛んでからの方が良くないか?ここだとまた見つけられて追いかけられるかもしれないし、飛んだ後ならもう二度とあいつらと会うことはないだろ?」
「ああ、それについては寧ろこっちの方が良いと思う」
「どうしてだ?」
「いくつか理由はあるけど、一番大きいのは石碑で移動した先が安全とは限らないからかな。手の痣が復活するまで約一日かかっていたこと覚えてる?そうなるともし向こうでも危険に迫られた時、すぐに石碑を使った緊急避難はできないことになるよね」
「なるほど」
仮にさっきのように暴漢が襲ってきたとしても櫃岡が近くにいる限り、滅多なことにはならないだろうというのも理由の一つだ。最悪暴漢を無理矢理石碑に触れさせてどこかに飛ばす方法もある。
「おい」
振り返ると櫃岡が腕を組んでそこにいた。座った状態で見上げるとやはりでかい。首が痛くなりそうだ。
そこでふと違和感。
あれ、もしかして櫃岡の方から僕に話しかけてきたのはこれが初めてではないだろうか。
「どうしたの?」
「これからどう塔を目指すつもりだ」
キツイ性格も相まってあまり人と話す方ではない櫃岡は怒ってさえいなければいつも簡潔に物事を伝える特徴がある。今回もそうみたいだが、それにしても過程が省かれすぎてやしないだろうか。
「地道に一つずつ正解の石碑を探すつもりだけど。そもそもそういう話は皆が休憩を終えてから全員で話した方が良くない?」
「どうせテメエが仕切ることになるだろ」
何をどうしたらそう言う結論に至ったのか。過程が省かれすぎて伝わらない。
ことコミュニケーションにおいては簡潔であることが良いこととは一概には言えないらしい。
「それならどうして僕に?これまでは代市先生がその立場だったと思うけど」
「ッチ。あの女、代市は駄目だ。あいつは元の世界に戻ろうと行動しているようでその実、教師というマニュアルに忠実なだけのただの女だ。咄嗟に何か起きた時に判断ができねえ。平和で何の事件も起きない世界でならそれでも任せられたかもしれないが、何が起きるか分からねえここじゃ仕切る役目はまず力不足だ」
急に話し出したかと思えば代市に対して口さがなく批評する櫃岡。
「テメエは生意気にもさっきこの俺にまで命令をしやがったな」
「そのことで気に障ったなら謝るよ」
「本当ならテメエをボコボコにしてやりたいくらいには気に食わねえが、俺はそれ以上に無駄が嫌いだ。その点テメエの指示は俺の眼鏡にかなった。塔へ向かうための最短。それを成し遂げるためにはそれなりに優秀なブレーンがいる。つまりテメエだ」
「ブレーンって、一度上手く指示で来たくらいでそんなことを言われても……」
「馬鹿にすんじゃねえよ。それだけなわけがあるか。ここ数日、何をするにも大抵はテメエの指示での行動だったはずだ。代市じゃねえ。気付いてないとでも思ったのか」
「それは……」
確かにそんな雰囲気があったことを僕は自覚していた。
代市は日に日に憔悴していき、最初の頃に見せていた先生らしさのようなものは消えてしまっていた。今の彼女は僕らと同じ無力な被害者でしかなく、頼りがい、言うなればカリスマ性のようなものは感じなくなってしまっている。
そんな弱った状態で彼女にこの集団をまとめてもらうことは流石に酷であるし、他の皆にとっても良くない未来になりかねない。そこで僕は相談という形で代市に今後の方針や検証事項等の話をしていた。結果としてそれらの提案はそのまま採用されてしまったようだけれど、皆の前ではあくまでも代市が決めたことになっていたはずだった。それがどうして……
「そもそもあんな状態の奴があそこまで頭を回してるとは思えねえ。あれで気付かない方がどうかしてる」
櫃岡は少し離れた場所で莉杏に心配されながらぐったりと座り込んでいる代市を一瞥した。
「そうなの?」
「……まあ。口にこそ出してないけど俺もそうだろうなと思ってた」
ノリも苦笑しながら同意した。
「提案はこれからもするつもりだけどそれじゃ駄目かな」
「ならこれからもあのグロッキーな女を通してテメエが全員に指示するか?それでさっきみたいな状況になった時、また間に合うと良いな」
「……それは」
痛いところ突いてくる。
「いいじゃん。氏黎がリーダー。向いてるぜ。というかここまで実質的にはそんな感じだったし。俺は寧ろ櫃岡がそれを認めてることに驚きだけどな。てっきり俺の言うことを聞け!とか言うと思ってた」
「俺がそんな面倒なことするかよ。で、どうすんだこれから。あの女も塔に連れて行く気か?」
「ええっと……」
二人にとっては僕がリーダーになることは決定事項のようだ。まだ承諾もしていないのに。それに期待されているところ悪いが、僕だって彼女のことについてはまだ整理しきれていない。僕だって暴漢達から逃げるのに必死に走ってきたばかりなのだ。精神的疲労からか頭を回す余裕があまりない。しかしこのまま何も考えてないなんて言ってしまえば櫃岡は僕をどうするだろうか。少なくとも愉快な展開にはならなそうだ。
「あの……」
助け船、いやどちらかと言えば救いの女神か。
ミレイが圓を連れてこちらに近づいてきた。
「今、塔と言っていませんでしたか?」
「えっと……はい」
「どうして塔と?」
そこへ圓が嬉々として口を挟む。
「実は僕達、ミレイさんと出会うまでそこを目指していたんですよ!」
「ええと、先輩の説明に言葉を付け加えるなら、さっきあなたに言いかけていた元の世界に戻る手掛かりっていうのがその塔に関わることだったんです」
「やっぱり!そ、それならさっきの人達が場所を知っていると思います」
「え?」
思わぬところから新たな情報が出てきた。
「それって本当にこの世界にある塔のことであっていますか?あなたはこの世界に来たばかりだと思っていたんですけど」
「その通りです。ただ偶然私が彼らに話しかける直前に塔の入り口を見つけたって話をしていたので、彼らなら何か知っていたんじゃないかと」
「マジ?」
「マジです」
思わずノリみたいな口調になってしまったが、これは想定外の幸運だ。もちろん彼らが塔へ向かう方法、正解の石碑について何か知っているとは限らない。しかし今の僕達にとってはこの世界、特に塔についての些細な情報ですら貴重である。
そう考えると人助けは巡り巡って自分に返るという話もあながち間違いではないのかもしれない。まあ助けたのは櫃岡と圓だが。
「入り口がどこにあるかというのは……」
「残念ながらそこまでは……。彼らに連れて行ってもらうしかないかと」
「……ッチ。それが本当なら面倒だな」
櫃岡の言う通り。こうなってくるとさっき逃げてきたこと自体が悔やまれる。よく考えたらあの人達だってまだ廃人というわけではないのだから協力することもできたかもしれない。せめて情報だけでも聞いてから離れるべきだった。
「でもよ。仮に戻って見つけられたとしても嘘を教えられたらどうするんだ?俺達にはそれが本当か嘘か判別する方法がないぜ?」
「痛めつければ素直に本当のことを話すだろ」
まさか拷問でもする気か。
「いや、それは駄目だ。非人道的すぎる」
「何を甘いこと言ってやがる。帰れなくなっても良いってか!」
「僕達は尋問のプロじゃない。結果得られた情報が本当だとは誰も証明ができないんだ。それにそこまで僕らは追い込まれていない。一方的に傷つけるだけの行為をすれば、さっきミレイさんを暴行しようとした彼らと同じになってしまう」
「……」
「それにこの狂気が蔓延している世界で下手に人から恨まれない方がいい。必ずどこかで酷い報復に遭う」
「ッチ。復讐を考えられないくらいに痛めつければいいだけだろうが」
「まだ会話の余地がある状態でする方法じゃない」
「お前こそ向こうは襲ってきた相手だぞ。そんな余地があると思ってんのか」
僕と櫃岡がそれぞれの解決策を言い合う中、一人ミレイが口を開いた。
「……私を交渉材料にすれば聞き出せるんじゃないでしょうか」
「は?」
「な、何を言って……!危険ですよミレイさん!」
「でもその塔の情報が必要なんですよね」
ミレイは碧い瞳に強い光を漂わせながらそう提案してきた。
「どうするつもりです」
「来た場所を戻り、彼らと交渉しましょう。塔の情報と私を交換条件にして」
あまりの自己犠牲的な提案に誰からもすぐに言葉が出てこない。
「……もしあのままあなた達に出会わなければ私はどうなっていたか分かりません。あの時の恩返しだと思ってもらえませんか?」
「でも今の話だと結果は変わらないように思うのですけど」
「結果を重視する。それも大事です。でもそれは過程を軽視していい理由ではありません。特に私は結果より過程の方を大切にするべきだと考えています」
「“希望を持ちつつ旅をするのは、そこに行き着くことよりも遥かに楽しい”」
「わあ!とても素敵な言葉ですね!それはあなたの?」
「いえ、ミレイさんの国の詩人の言葉です」
「まあ!博識ですね」と微笑みを浮かべるミレイ。その表情からは未だ彼女の真意は見えてこない。まさか本気だとでも言うのか。数秒見つめ合い、僕は諦めるように溜息を吐いて「細かい段取りを決めましょう」と答えた。
「ちょ!花野井!本気で言っているのかよ!」
圓が僕に掴みかかる。
「……」
「おい!」
「やめてください。龍生さん。私は大丈夫ですから」
「落ち着きましょう。先輩。何も僕はミレイさんを彼らに引き渡すなんて言っていません。ただミレイさんの存在は交渉の切っ掛けにはなるかもしれないと思ったんです」
「交渉の……切っ掛け?あんな野蛮な人達が素直に交渉してくれるわけないじゃないか!絶対にまた彼女を奪いに襲ってくるに決まってる!」
「じゃあちょっと考えてみてください。先輩は彼らの行動についておかしいと思いませんか。だってこの世界でミレイさんのような女性を襲う理由がないでしょう」
それに対して圓は動揺したようにミレイにチラチラと見やる。
「そ、それはだから、彼女は美人だから、その、お、犯そうと……」
「それはあり得ません」
それだけは断言できる。
「ど、どうして。まさかミレイさんに魅力がないとか言うつもりじゃ―――」
「違います。僕も彼女は綺麗だと思いますよ。ってそういうことじゃなくて、単純に性欲がないからですよ」
「へ?」
困惑している圓に溜息が零れつつ、説明を続ける。
「先輩だってこの数日で散々検証して分かっているでしょう。この世界で欲求というものを感じなくなっていることに。性欲については検証したわけではないですけど、同じことです。聞きますけどこっち来てから勃ったことありますか?」
「な、何言ってんの……」
「……」
「うぅ……ないよ」
「それが彼らも同じであれば矛盾しますよね。性欲もないのに異性を襲う。おそらく別の目的があるはずだ」
そしてそれが事実ならば想像していたような危険がミレイの身に訪れることはない。もちろん彼らの目的について見当が付いてはいないため、危険がないという根拠にはならないが、だからこそ交渉の余地があるということでもある。
「なので段取りを決めたいんです。交渉事の出たとこ勝負は怖すぎる」
今の僕達にとってこの交渉はやり得。リターンに対してリスクが小さい交渉だ。仮に交渉に失敗して決裂したとしても僕らは最悪地道に探す手だってあるし、襲われても櫃岡さえいれば何とかなる。
と、表向きの(・・・・)理由を話したところで、圓も納得したらしい。もう反論はなかった。
流石にこれ以上は莉杏や代市もいるべきだとして、二人を呼びに行こうとするとミレイがじっとこちらを見ていることに気付いた。
「ありがとうございます。氏黎さん」
彼女は最初に出会った時と何も変わらず、その完璧に造形されたような端正な顔でお礼を言った。僕はそれを見て、どこか自分と似た何かを彼女に感じたのだった。