-1- 終わりの始まり
2023/07/06 一部石碑に刻まれていた内容を変更
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気が付くと何もない荒野に僕は立っていた。
草木一つ生えていない焦げ茶色のごつごつとした大地が広がり、人工物は何一つ存在しない。空は澄み渡り雲一つなく、まるで人類が滅んでしまった後の地球にいるような感覚。
そんな、ある意味で幻想的な光景が目の前に広がっていた。
「うぅっ……」
振り返るとそこには数人の男女が倒れていた。見たところ同じ学生服を着ているため、全員同じ学校の学生なのかもしれない。ふと自分の恰好を見下ろすと彼らと同じ制服を着ているみたいだった。
そこでようやく僕は自分の記憶がないことに気が付いた。
僕は一体誰なのだろう。
どうしてここにいるのだろう。
倒れている彼らに聞けば分かるのだろうか。
そんな僕の思考が届いたわけでもないだろうが、彼らは順番に目を覚ます。
「……おい。どこだここは?」
一際身体つきの良い色黒の男が最初に立ち上がり、周囲を見渡す。
「っひぃ。今度は何!?もう嫌だ。誰か助けてぇ……」
眼鏡をかけた小柄の男は怯えながら泣き出す。
「ここは一体……。何か知っている方は?」
スーツを着た成人女性が困惑を隠さずに周りに問いかける。
「なんだ……ここ……俺は確か学校に……」
茶髪の男が呆然としながら立ち上がる。
「……」
そして最後に同じ制服を着た黒髪の少女が無言で目を覚ました。
人工物が一つも見えない荒れた大地に気絶していた五人の男女。僕を含めれば六人か。なぜか僕には記憶がなく、ここがどこなのかも、彼らが誰だったかも、自分が誰かも分からない。何か事件に巻き込まれてしまったのかもという考えが頭を過った。分からないことだらけの状況だが、しかし今が異常であることは僕にも分かる。
「シレイ!良かった。無事だったのか!あ、あの時は……その……」
すると茶髪の男が僕に向かって駆け寄ってくる。
“シレイ”というのは僕の名前だろうか。
「君は僕のことを知っているんだね」
「……な、何を言っているんだよ。シレイ、俺だよ。忘れちまったのか?」
「ええと、ごめん。実は何も覚えてなくて」
「う、嘘だよな。だってそんな……」
「本当だよ。自分が誰かすら分からない」
それを聞くと彼は呆然として、「まさか、あの時……」と何かを察した様子でぶつぶつと呟き始めた。落ち込んでいるようにも見える彼には申し訳ないが、知っていることがあるなら僕にも教えてほしいものである。
「シレイ」
困惑しているところへ横から声を掛けてきたのはさっき最後に目を覚ましていた黒髪の少女だった。
「それ、僕のことだよね」
「うん。……今の話、本当なの?」
「あぁ、記憶がないというのは本当……ごめんね。君も名前を知っているってことは知り合い、なのかな」
「……そう、なんだ」
彼女はそう言って目を伏せる。
それを見て何故か胸がずきりと痛んだ。
「おい、この手。誰がこんなことをしやがった!」
すると急に色黒の男が自分の手の甲を見せながら周囲に向かって怒鳴り出した。あまりの剣幕に全員がそちらを見る。そこには星を表したような幾何学模様がタトゥーのように描かれているようだった。とても自然にできたとは思えない、どことなく不思議な雰囲気を持つその模様に、どうしてだか魅入ってしまう。
「し、知らないよ」
「てめえ、俺の体に何かしてやがったらただじゃおかねえぞ!」
「っひ!」
ハッとしてその模様から目を離すと、二人の男が掴み合い、というよりどちらかというと一方的な恐喝をしている様子が目に入った。色黒の男は言葉の勢いそのままに近くにいた小柄な眼鏡の男に掴みかかっている。
「ちょ、やめなさい!あなたは……櫃岡華貴君、よね?いいから落ち着きなさい。暴力はいけないわ」
「……あぁ?あんた誰だ?どうして俺の名前を知ってる」
「私、これでもあなたの学校の教育実習生なのよ……あなたは知らないみたいだけれど」
「教育実習生?てことは教員の代わりってことだよな。なら責任取ってさっさとこの状況を何とかしろよ。こっちはな。こんなことしてる場合じゃねえんだよ!」
「それは……ごめんなさい。私も今目を覚ましたばかりで何も分からなくて……」
代市と呼ばれる若い女性は教育実習生のようだ。対して櫃岡と呼ばれた男は制服を着ているところを見るに生徒なのだろうが、随分と態度が大きく、傲慢さを隠そうともしていない。
「た、助けてっ!殺される……!」
「大丈夫だから一度落ち着いて。櫃岡君も手を放しなさい」
「ッチ」
「うわっ」
櫃岡は眼鏡の男の制服から手を放す。
「確か君は圓龍生君だったかしら」
「は、はい。そうです。代市先生」
代市が名前を知っているということは圓も櫃岡と同じ学校の生徒で間違いないようだ。やはりここにいるのは全員同じ学校の関係者であるらしい。
「ねえ。これ見て。私にもその痣があるんだけど」
そう言ったのは黒髪の少女だった。少女の手の甲には確かに櫃岡と同じような痣がある。もしかしてと思い、自分の右手の甲を見てみると同じく痣があった。
「ぼ、僕にもある!」
「私にもあるみたいね」
どうやら全員に同じ痣があるらしい。しかし痣がどうやって付けられたものなのか見当もつかない。仮にタトゥーのように刻まれたのだとすれば気絶して眠っている間に刻まれたのだろうか。
「誰がこんなことを……そもそも私達をこんな場所に連れてきて何をするつもりなの」
「分かりませんけどここにいる人達は知らないんじゃないですかね。全員気絶してたわけですから同じ被害者だと思います」
「それもそうよね。ええっと……ごめんなさい。あなたは確か……」
「ええと……」
代市の質問に答えようとして、自分が記憶喪失であることを思い出した。上手く自分で答えることができないでいると横から黒髪の少女が口を挟む。
「彼は花野井氏黎。私は善財莉杏です。私達も生徒ですよ。代市先生。二年だから先生の担当じゃないけど」
「そうなのね。代市亜梨花といいます。よろしくね。ところでさっきの言い方だとあなた達もここがどこか知らないということかしら」
代市は困ったように僕と善財に尋ねる。それに僕らは首を縦に振った。代市はそれに「やっぱりそうよね」と言って失望混じりの溜息を吐く。
「氏黎」
横で黒髪の少女がもう一度僕の名前を呼ぶ。
「ここに来るまでのことで何か覚えていることはない?」
「それが何も。君はどう?」
「うん。私も。……ってごめん。記憶喪失なんだから知ってるわけなかったね」
「え、あなた記憶がないの?」
「ええとまあ……そうなんです」
「大丈夫!きっと記憶も戻るよ。記憶喪失って時間と共に記憶が戻ることもあるってこの前映画で見たし」
「映画、か。あんまり期待しないでおくよ」
二人はどこか僕を気遣うような雰囲気を漂わせる。本来なら自分の記憶がないことに落ち込むべきなのかもしれないが、これではよっぽど居心地の方が悪い。記憶喪失といっても会話はできるため、生活に支障が出るほどの重症とは思えない。おそらく忘れているのは人間関係や思い出だけで、知識までは失われていない。思ったほどショックを受けていないのもそれが理由だろう。
できれば少し離れた場所で落ち込んでいる茶髪の彼も含め、気にしないでほしいものだがどうしたものか。
「善財さん、君は僕とはどういう関係だったの?」
「莉杏でいいよ。そうだなぁ……一言で言えば私達は同級生の友達だったんだよ。あはは。人の紹介を本人にするなんて何だか不思議な感じ」
「じゃああっちの茶髪の彼は誰か知ってる?」
「彼は谷風刑里。彼も氏黎とは仲が良かったはずよ」
「ありがとう」
はず?
この口振りだと莉杏と谷風は気安い関係ではなかったのだろうか。
一先ずその疑問は思考の隅に追いやり、僕は莉杏と代市をその場に残して、未だ蹲ったままの谷風に近づいた。
「ごめん。ごめんな。氏黎」
「何を謝っているのか分からないけれど気にしないで。それより皆でこれからどうするか話そう?」
「氏黎……俺はお前に許されないことを……」
「何だか分からないけど気にしないでいいよ。もう忘れてしまったし」
「そういうわけにはっ!だってお前がそんなことになったのは俺のせいかもしれなくて……」
「確信がないなら尚更責任を感じるには早いよ。そもそも記憶がないからか自分のことなのに他人の話を聞いている気分になるしさ。というか君は僕より僕のことを知っているみたいだね。仲良かったりするの?」
そう言うとようやく谷風は俯いていた顔を上げ、悲壮な表情をこちらに見せる。
またこれだ。
記憶がないというのは存外、当の本人は何も感じないらしい。悲しさや怒りなんて強い感情は特に浮かばず、困惑だけが僕の内心には広がっている。寧ろ他人の方がショックを受けていることに動揺しているくらいだ。
「僕が記憶を思い出してまだ怒っていたら、その時にまた謝ってよ。その後許すかどうか考えるから」
「いいのかよそれで!まだ何をしたかも言ってないのに」
「じゃあ話してくれるの?」
「そ、それはもちろん!……でももしかしたら氏黎にとっては思い出さないことの方が良いことなのかもしれなくて……」
谷風の躊躇う態度を見ていると僕の身に起きた出来事が如何に良くないものであったのか予想に容易い。聞けば何か思い出すだろうか。いや、何となくだが思い出すことはない気がするし、気分の悪くなりそうな話は聞きたくない。それに谷風の顔色も悪い。ただでさえ意味不明なこの状況で彼に余計な心労を与えるのも良くないだろう。
「無理に話さなくてもいいよ。さっきも言ったけどどうせ覚えてないし」
それを聞いて谷風は微かほっとした表情を浮かべる。
「はは、すごいな氏黎は。記憶を失くしたら普通は気になるものじゃないのか?」
「そうなの?」
「そうだよ。多分。なんていうか……前より図太くなったな」
図太いというのは褒められているのだろうか。釈然としない。
「おーい。そろそろこっちに混ざってよ~。皆でこれからのこと話すんだって~」
「今行く!……行こう。谷風」
「い、今名前っ!」
「あ、いや……」
僕らを待っている莉杏のいる方に視線を向ける。
「ごめん。思い出したわけじゃない。彼女から聞いたんだ」
「……あ、あぁ。善財、だっけ。彼女から聞いたのか」
「知り合いじゃないの?」
「いや顔は見たことある気がするけど、そのくらいだな。俺とはクラスも違うし、話したこともない。それより悪い。変に驚いちまって」
「大丈夫。こっちこそ勘違いさせてごめん。呼び方は谷風でいい?」
「……いや、ノリでいいよ。前はそう呼んでた」
「了解、ノリ」
莉杏とノリはやっぱりそこまで関係性が深いわけではないらしい。花野井氏黎が共通の友達みたいなものか。他の三人は分からないが、知り合いというわけでもないならここにいる人間はどういう共通点で集められたのだろうか。それとも偶然の事故?いずれにせよ現状では何も判断できない。
謎が深まる中、僕らはそのまま皆のいる場所まで近づいて行く。重苦しい空気の中、不思議と不安だけは感じなかった。
-2-
「誰もここに来るまでの記憶はないようね」
「僕に至っては自分の名前すら忘れてしまったみたいですけどね」
固い土の上に座り、軽い自己紹介を済ませた僕らは状況の整理を行っていた。
「私が最後に思い出せるのは職員室にいたところまで。花野井君は良いとして他に何か覚えている子はいる?」
「俺は……確か校舎の中で……廊下にいたかな」
「あんまり覚えてないです。でも学校には行ってたかも」
「……」
「櫃岡君も教えてもらえる?」
「ッチ。俺は放課後に教室を出たところまでだ」
彼らの記憶では最後に思い出せる日付はもちろん、時間帯もおおよそ同じだった。そうなるとここにいる全員が学校で同時に気を失い、何らかの形でここまで運ばれたことになる。それにしては周囲に人を運んだ形跡がないというのはどういうことだろうか。
「ぼ、僕ははっきり覚えてる」
そう言ったのは圓だった。圓は体も小さく気弱そうだったが、歳は僕の一つ上で先輩らしい。
「覚えているというのはここに来るまでの記憶で合ってる?圓君」
「ち、違います。気を失う直前、あの日学校で何が起きたかを覚えているだけです。寧ろどうして皆が忘れてるのか不思議なんですが」
「何が起きたんだよ。もったいぶらずにさっさと言え」
「ひぃ」
「櫃岡君。怖がらせないで。話が進まないわ」
「ッチ」
代市は櫃岡を宥め、圓に話を促した。こういう時、先生というのは流石に頼りになる。
教育実習生ということらしいが、先入観がなければ代市の纏う雰囲気はちゃんと先生として見えるほどしっかりしたものだった。あの櫃岡ですら代市の言うことには素直に従っている。
「あ、あの日、昼頃に大きな音がしたんだ。ドーンって。多分学校にいたなら聞いていると思うけど」
「そういえば……」
「聞いた気もするな」
僕に心当たりは当然ないが、全員その音というのに覚えがありそうな反応をしている。もしかすると失った記憶の部分で僕も聞いていたのかもしれない。
「その直後に大きな地震が起きたんだ。今までに経験したことのないくらいとても大きな地震だった。僕はその場から動けなくなったんだ」
「地震……」
「なるほど。そういうことか」
それぞれが自分の記憶を辿り、場に沈黙が訪れる。
しかし記憶喪失によって僕だけがその空気に共感できず、どこか仲間外れのような気分になったため、その沈黙を破って続きを促すことにした。
「それでその後はどうなったんですか?」
「そ、その後は校舎とか道とかがどんどん壊れて、怖くなって学校から逃げ出したんだ。で、いつの間にか気を失ってここに……」
「それは本当ですか?」
「え?」
「校舎が壊れたというところ」
そう聞いた瞬間、全員が動揺した様子を見せる。
ここにいる中で、記憶がない僕と逃げた圓を除く全員、最後にいた場所は学校だったはずだ。つまり普通に考えたら校舎の中にいた人は……。
今いる荒野がどこか非現実的な夢に似た場所であるため、普通なら浮かばない嫌な想像が脳裏を過る。
「ほ、本当だよ。多分中にいた人は……」
「死んだって言いてえのか?じゃあここにいる俺は何なんだよ!」
「分からないよ!僕だって必死で……誰が逃げれたとか確認したわけじゃないんだ!」
「二人とも落ち着いて!」
再度圓に掴みかかろうとする櫃岡を代市が止める。
少なくとも圓の態度や言葉に嘘の雰囲気は感じない。だからこそ浮かんだ想像はリアリティを伴って僕らを蝕み、異様な緊張感が辺りを包んだ。後から思えば僕らはその時初めて根本的な疑念を持ってしまったのだと思う。
今ここにいる自分は果たして本当に生きているのだろうか、と。
-3-
その後僕らはしばらくその場で救助を待つことになった。その間僕はノリや莉杏から昔の僕について話を聞いていた。
十七歳。高校へは自転車で通学。高校では部活に入っておらず、帰宅部。学力は大体中の上程度。飛びぬけた能力はなく、至って普通の高校生だった、らしい。他にもいくつか花野井氏黎に関わるエピソードや思い出を教えてもらったがどれも他人事のような感覚は抜けない。ようやく自分のことをある程度知ることができたが、しかし新しく知っただけでそれらの記憶が戻ることはなかったのである。
しばらくするとただ待つことに限界を感じたのか、それとも無意味と諦めたのかは分からないが、代市が周囲を探索することを提案した。救助が来ないことにじわじわと不安を感じていた皆はそれに対して否定の言葉は出さなかった。おそらく代市が大人で僕らが子供であることも従った理由かもしれない。
周囲には目印になるようなものもないため、逸れないように全員で同じ方向に移動しながら探索することにした。地面は当然舗装された道路というわけでもなく、ごつごつとした歩きにくいものだった。そのせいで思っていたよりも探索は捗ることはなく、いつまでも変わらない景色に不安よりも徒労感が勝り始めた頃、櫃岡が何かを遠くに見つけた。
「クソッ。ただのでかい石かよ」
近づいてみると人の身長を優に超える大きさの石がそこにはあった。苛立ちを地面にぶつける櫃岡、しかしよくよくその石を見ると上の方に何かが描かれていることに気付く。
「これ何か文字が書かれてる。何かの石碑……なのかも」
石には象形文字のような何かが描かれていた。しかし意味はもちろん、何語なのかも検討が付かない。これも忘れているだけか?
「ホントだ。でもこれって文字なの?そういうデザインかと思った。どんな意味なの?」
「ごめん。読めはしないんだ」
「読めないのに文字とか言ったのかよ」
「すみません。では先輩は何に見えます?」
「……多分、文字」
「なんだ。先輩も文字だと思ったんですね」
どうやら僕だけ感性がずれているというわけではないらしい。
でも言われてみれば文字ではなく、ただの模様の可能性もある。寧ろどうして僕はこれを文字だと思ったのだろう。記憶喪失のせいで何もかもがあやふやな気がして自信がない。
「文字だとすればなんて書いてあるのかしら」
代市が眉間に皺を寄せながらその文字を目で追うが、何も答えは出てこない。他の皆も何も言わないところを見るにやっぱり知らない言語のようだった。
とはいえこれが読めなかったとしても、僕らがこの荒野に来てから初めて見る人工的な痕跡には違いない。不思議な文字以外にも今の僕らに役に立つような手がかりがあるのかもしれない。
「ええと何々……『運命の塔へは愚者のみが進むべし』なんじゃこりゃ」
「え、嘘!読めたの?」
莉杏の驚きの声で思考を中断する。
どうやらノリが解読してしまったらしい。
「意外な才能だね。僕には何語なのかも分からないや」
「え?何言ってるんだよ。まさか氏黎、記憶喪失で文字も読めなくなっちまったのか?」
「いや、どうなんだろう。そもそも皆も読めてないみたいだけど。……念のため確認するけど読めたのはこれのことだよね?」
「え、何だあれ。皆あれのこと言ってたのか」
どうやら勘違いだったらしい。そうなるとノリが読めたという文字は……。
「俺が読んだのはこっちだ」とノリが指差す先は僕らの見ている石碑の上部ではなく、かなり地面に近い部分。しゃがんで見れば確かに何かが刻まれていた。こちらは上部にある文字とは違いかなり荒々しく、文字の凹凸の部分が欠けていたりと無理矢理刻みこんだような読みにくいものだった。
内容も小難しく完全には理解できないものだったが、とりあえず分かることもあった。
「こっちは日本語だ」
その文字は日本語で書かれていた。
「日本語……てことはこれ書いた人は日本人みたいだね」
「っは。これでここが日本のどこかだって可能性が高くなったな」
「……」
櫃岡のその言葉に僕は素直に頷くことができなかった。さっきの会話でここが死後の世界かもしれないと思ってしまったことも理由としてはあるが、どちらかと言えば今いるこの場所の光景があまりにも日本からはかけ離れていることが大きな理由だ。どこまでも地平線が続いて、建造物はおろか、山すら見えない。山ばかりの日本のどこにそんな場所があるというのだろう。ただこれを言ったところでここがどこなのかなんて分かるわけでもない。死後の世界なんて救いのない答えしか出せないのであれば、嘘でも日本としておきたかった心理が僕の口を噤ませた。
「なあ、結局この刻まれた言葉ってどういう意味だ?」
「……私、古典とか苦手だからわかんない」
「現代の言葉なので古典ではないと思いますが、宗教的なものなのかもしれませんね」
そうだ。
今は根拠のない妄想よりも手掛かりになりそうな石碑の方が大事だ。意識を切り替えなければ。いつまでもこんな場所にはいられないのだから。
『運命の塔へは愚者のみが進むべし』
塔……何かの隠喩だろうか。意味は分からないが、もしかしたら大した意味などない可能性すらある。
「宗教じゃないなら、これを書いた人は中二病だよきっと。何のことか分からないもん」
「はぁーあ。ようやく何かあったって言ってもこれかよ。こんなんじゃ何も分からねえままじゃん」
そう言ってノリは無造作に石碑を叩こうとする。しかし次の瞬間、ノリは音もなく消えた。目を離したわけではない。瞬きほどの時間でノリはその場からいなくなった。
「ノリ?」
全員が呆けた表情でさっきまでノリがいた場所を見るが、そこには何もいない。
急に起きた出来事に頭が追い付かない。
今一体何が……
「う、うぁああああ!」
事態を段々と把握し、最初に悲鳴を上げたのは圓。
石碑から後退りして尻もちをついた。
その悲鳴で僕もようやく我に返る。
「ノリが消えた……?」
「どうなってやがる!」
「っ……分からないわ。谷風君が石碑に触ったように見えたけど」
「呪いの石だ……あいつ呪われたんだ」
「そんな非科学的な……」
「ッチ。谷風!悪ふざけならさっさと出てこい!」
混乱する場の空気。
だが僕はその石を見て一つの可能性を思いついた。
「もしかして……ここに来たのはこの石碑の力?」
「え?」
「あ、ええと。僕達がさっき目を覚ました時、周辺には轍の跡や足跡も残ってなかったんだ。おかしいと思わない?誰かが僕らをここに連れてきたとしたらどうやって運んだんだろうって」
「じゃあお前はこの石が俺達をここに連れてきたって言いてえのか?谷風もそのせいでどこかに消えたって?」
「あくまで予想だけど」
僕らは自然と石碑を見つめる。
明確な証拠なんてない。だが否定することもできない仮説だ。
「いずれにしてもノリを助けに行かないと」
「どうやって?」
「それは……こうするしかない」
僕は石碑に触れようと手を伸ばす。
すると莉杏に制服を掴まれた。
「な、何してるの?氏黎」
「何って……僕もノリのところに行こうと」
「だ、駄目だよ!谷風は消えちゃったの。まだ無事だなんて保証どこにも……!」
「でも……」
「花野井君。善財さんの言う通り危険だわ。……こ、ここは私が石を調べます。もし私が消えてもあなた達はここで待っていなさい」
それに対して莉杏は驚いて振り返る。
止める間もなく代市は覚悟を滲ませた顔つきで石碑にゆっくりと触れた。
その瞬間、さっきの焼き直しのように代市は音もなく消えた。
「代市先生まで!」
「き、消えちゃった!やっぱり呪いの石なんだ」
本当にそうだろうか。不思議な力はあるみたいだが、呪いと呼ばれるような邪悪さは感じない。不気味さはあるもののどこか無機質な……そう、所謂舞台装置のような。
「ッチ。おい!どうすんだよここから!」
「どうするって言われたって……」
「僕は消えたくない!」
次々と消えていく人の姿に恐怖が伝播する。
しかし不思議と焦りは感じない。記憶がないからだろうか。僕は未だにこの石碑に危機感を持てないでいる。
「氏黎……」
「やっぱり僕も触ってみるよ。そうしないと分からないみたいだし」
「……テメェ。イカレてるんじゃねえのか。消えたのは死んだってことかもしれねえんだぞ」
「でもそれはここにいても同じじゃない?」
「っ!それは」
僕らはここに来た時、身に着けていた服以外に何も持っていなかった。救助してもらうための連絡手段もなく、救助を待つだけの食料もない。おそらくじっとしていても死ぬ未来は変わらない。すでに死んでいたら意味のない話ではあるけど。
「じゃあ僕は行くから。皆はここで待っていてよ」
「待って!私も触る」
「いや、無理しなくても」
「大丈夫!私は氏黎を信じてるから」
そう言う莉杏の顔は無理矢理笑っているように見えた。
「……なら俺も触る」
櫃岡も横に並んだ。
意外な行動に思わず櫃岡の顔を見る。
「ッチ。見てんじゃねえよ。別にテメエの言葉を信じたわけじゃねえ。ここにいても死ぬってのに納得しただけだ」
石碑の前に三人が並んだ。
「ちょ、ちょっと待って。本当に触る気?馬鹿じゃないの?」
「でもできること他にないから」
「か、仮にあの二人が死んでなくて、移動しただけだったとしてもすぐに戻って来れるはずでしょ!?すぐに戻って来ないってことは戻って来れない理由があるからさ!どうしてそんなリスクを僕が選ぶ必要があるんだよ!」
「うるせえなぁ」
櫃岡が圓に振り返る。
「腰抜けはそこで死ぬまで待ってればいいだろうが。俺は先に行くぞ」
そう言って櫃岡は石碑に手を伸ばす。
触れる直前、一瞬手が止まったように見えたが僕をちらと見た後、最後には「うおおおぉ」と叫び声をあげて櫃岡は消えていった。注意して見てもその原理は理解できない。明らかに現代の科学力を超越した現象だ。もしかするとここは未来技術が使われた石碑なのかもしれない、なんて……少し思考がSF的過ぎるだろうか。
「ホントに行っちゃった。馬鹿じゃないのあいつ」
「……じゃあ先輩。救助に戻れるようになればすぐに戻ってきますので」
「ま、待って!僕を置いて行く気か?」
「……結果的にはそうなりますかね」
「そんなっ……そ、それなら僕も行くよ……。こんな場所に一人なんて考えたくもない」
「……分かりました。じゃあ一緒に行きましょう」
「うぅ……どうして僕がこんな……」
「もう、男ならしっかりしてくださいよ!」
圓の背中を莉杏が叩く。
圓が怯えているのは良いとしても莉杏がここまで強気でいられるのは不思議である。土壇場になると女性の方が強いと聞いたことがある気がするが、強ち間違いではないのかもしれない。
「じゃあ誰から触る?」
「先輩は何番がいいですか?」
「最後以外なら……でもそれで僕だけ違うところに飛ばされたらどうしよう。ローグライク系のゲームだとそういうトラップよくあるんだよなぁ」
「じゃあ私達後から行くから、先輩が先でいいよ」
「ま、待って。今考えるから」
「もーめんどくさいなぁ」
このままじゃ埒が明かなそうだ。
「じゃあ、三人同時に触りますか」
「ちょ、ちょっと待って!」
こういうのは一度躊躇うといつまでもできないものだ。僕は圓の制止を聞かず「せーの」と声を上げる。慌てた圓と莉杏が石碑に手を伸ばすのを横目に僕も同じく手を伸ばす。
結果、僕ら三人は先に消えた三人と同じくその場から消失した。