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退院して一年後、健康上の理由で居心地のいい図書館を退職した。別に身体の調子が悪い訳じゃなかった。完全に健康体だ。ただ、どうにも時間が流れるのが速すぎて、休みの日などは自宅の窓から外の景色を眺めていたら一日が終わっていたなんて事がざらにあり、図書館でも時間的制約のある仕事をすっぽかしがちになってきたからである。上司や同僚は僕がガンで入院していた事実を知っている訳だし、とりたてて引き止める事もせずに送別会まで開いてくれた。
確信はなかったが、彼女の血が僕の身体に侵入して、僕は変わってしまったのだろうと推測できた。やっと、僕は彼女に近付けたのだ。
父の生命保険と、僕自身のガン保険のおかげで家の家計は苦しくはない。多趣味な母には友人も多いようだ。母を一人にしても大丈夫だろうと、僕は同じ市内にアパートを借りてなるべく人と接しないようアルバイトをして暮らすようになった。
気が付いたら何年も経っていて、人類は再び月に立っていた。
1972年十二月十四日のアポロ十七号以来、実に六十年振りの月面着陸。その号外新聞を駅前で受け取った時、僕の手から号外を奪い去った細い手があった。顔を上げると彼女だった。まったく、彼女は僕の手から何かをするりとかすめ取るのがよほど好きなようだ。前にも似たような事をされた記憶がある。
僕の目の前に彼女の変わらない姿があり、そして僕の変わらない姿が彼女の目の前にあった。
「退院おめでとう」
いつも通りの笑ってない真っ直ぐ見つめて来る瞳で彼女は言った。
「気分はどう?」
最高だよ、と僕は笑って見せた。うまく笑えたか自信がない。その証拠に彼女は眉を寄せて呟いた。
「変な顔して。わたしに会えて嬉しくないのかしら?」
どうやら、僕も笑うのがヘタクソのようだ。それも相当に。初めて心から笑って見せたつもりだったのに。
「まあ、再会を祝して、あの焼き鳥屋で一杯どう? お姉さんが奢ってあげるわよ」
僕よりも年下に見える、でも僕よりもはるかに年上の彼女は、結局何も教えてくれなかった。彼女が何者なのか。僕の身体にどんな変化が訪れたのか。しかし今さらどうでもいい事だった。
未来の事はまるでわからないが、きっと、僕には膨大な時間がある。そしてそれは彼女と共有できるもののはずだ。
泡盛の味。チョコレートの香りのするタバコ。彼女の優しい擦れ声。何もかも記憶に残っているままだった。これからも変わらないであり続けるだろう。
彼女と暮らす事になった。ただし、お互いふらふらと旅に出てはまたアルバイトで旅費を稼ぎ、またどこかへふらりといなくなると言った暮らしだった。それでも家賃は折半だし、帰るべき場所に待っている人がいてくれる事の暖かさが僕達には何より必要だった。
紅緒と暮らす事を母に告げた。とても喜んでくれた。そして僕と紅緒の身体の秘密も教えた。母の顔には深いシワが目立ち、髪は白く染まり、身体もずいぶん縮んでしまったように見える。それなのに時間を重ねても僕も彼女も若いままの姿なのだ。おかしいとは思っていた、と母は笑った。そして、すごいわね、とまた笑った。紅緒が母に申し出た。もしも望むなら、同じ身体にしてあげられる、と。母はまたもや笑いながら答えた。十分生きたから大丈夫よ。
紅緒と暮らす事で不便な点が一点だけあった。ユビキタスコンピューティングにおける電化製品の感覚オンライン化だ。僕と彼女が同棲しているタイミングでは何も問題は起きなかった。ただ、彼女が旅に出ている間、部屋は僕の挙動に支配される。僕の間合いと僕の仕種で電化製品は起動する。僕が心地良いと思う室温になり、風呂のお湯はやや温め、音楽は耳を澄ませば聞こえる程度。僕を中心にユビキタスコンピューティングは部屋を快適に設定してくれる。彼女が帰って来ても、彼女の仕種では電化製品は反応してくれなくなってしまっているのだ。それは僕にも言えた。僕が旅から帰って来ると、ユビキタスネットワークに繋げられた電化製品達は僕を客と見なしてしまう。部屋は暑い。風呂も熱い。音楽はうるさい。
耳の後ろに電極を付けて生体機械を脳髄に埋め込んで、思うだけで脳波が生体機械を作動させて外部のオンラインコンピュータを操作できる技術が障害者向けに開発されているニュースを見た。実用化されるのはそう遠くない未来だろう。実用化されたら一番で生体端末を埋め込もう、と紅緒は言った。せっかくユビキタスネットワークが彼女の好みを把握した頃に、また僕の好みに書き換えられてしまって、いちいちメイン端末を指でいじって風呂のお湯設定をするのが相当めんどくさいらしい。