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 大学を出て、ずっと本を読んで来たせいもあってか僕は図書館司書の仕事に就く事ができた。本は買うものではなくダウンロードするもの、との認識が世間一般に定着していた為、想像通りの退屈な仕事だった。それでも残りの人生をすべて注ぎ込んでも読みきれないだろう圧倒的な量の本に囲まれて、僕にはなかなか居心地のいい職場だった。

 しかし、それはあっけなく裏切られた。残りの人生をかけても読みきれない量の本。問題は本の量ではなく、残りの人生の長さの方だった。

 僕が就職して四年目、普段から自分自身の健康状態にあまり関心を持っていなかったせいか胃の辺りに違和感や軽い痛みを感じていても放置していたのだが、健康診断の時にスキルス性胃ガンを宣告された。

 スキルス、と聞き覚えのある程度の名前だったが、調べてみるとかなり悪性の胃ガンらしい。僕はただなんとなく医者に尋ねてみた。僕の余命を。

 このまま放置しておけば余命は六ヶ月程度。だからと言って悲観する事はないと医者は言った。いまの僕の状態から完治した人間もたくさんいる。人生を諦めず、治療に専念する事が生還には欠かせない条件だ、とどうやら励ましてくれたようだ。

 足音を忍ばせてすぐそこまで来ている死に対して、僕はぼんやりとした輪郭の定まらない恐怖を感じた。ガン治療のために休職して入院した初めての夜に、僕は今までに感じた事もない冷たい孤独感を味わった。だからと言って怖くて泣き喚く事もなく、自分の短い人生を嘆く事もなく、祈った事すらない神にすがるような事もなく、すぐにそれらは消え失せてしまった。僕の根幹にある感情は強固なまでに冷めきっていたようだ。

 自分が死ぬかも知れないと言う事実に押し潰されそうになりながらも、意外とすんなりとそれを飲み込んで受け入れてしまい、どうしようもない事はどうしようもない、と僕はあっさりと消化してしまった。

 入院して三ヶ月が過ぎ、検査や抗癌剤治療の退屈な毎日の中、どこで僕の入院先を知ったのか彼女が見舞いにやって来た。ちょうど母が病室にいた時で、母は父に線香を上げてくれた彼女の事を覚えていたようだ。僕と彼女の恋愛がまだ続いている、と勝手に勘違いしたようで嬉しそうに彼女とありきたりな会話をしていた。

 気を利かしたつもりか、母は今日はもう帰るね、と言って一旦彼女を部屋の外に連れ出した。しばらくして彼女だけが病室に戻って来た。

「お母さん、泣いていたよ」

 母は彼女にだけ僕の病状を話したようだ。

「今、どんな気分?」

 彼女が僕の腰元に座る。彼女の重さでかすかにベッドが軋み、マットレスが沈んでほんの少しだけ僕の腰と彼女の腰が毛布越しに触れ合った。僕は仰向けのまま首だけで彼女の方を向き、彼女の表情を読み取りながら言葉を選んでみた。あえて具体的な単語を使わず、抽象的で、どこか詩的で、それでも的確に消えてなくなる僕を詠う言葉を。

「よく意味がわかんないよ」

 彼女は作り笑顔で小首を傾げた。初めて彼女を見つけたのは新生児室。その時と変わらない真っ黒い髪がさらさらと流れて肩に垂れる。子供の頃に出会った彼女はすごく大人に見えた。背が高くて背筋がぴんと立っていて真っ直ぐに見つめる大きな瞳をしていて。小学校の教育実習生の時のスーツ姿なんてあこがれの大人の格好そのまんまだった。キレイって言葉よりもカッコイイと思った。タバコを吸う姿なんて僕には他のどんなヒーローよりも彼女の方がかっこよかった。高校の時、同級生の女子と並んでもあまり変わらないくらいの女性に思えた。いつのまにか背の高さは抜いていたし、頑張って手を伸ばせば彼女の隣を歩ける男になれる、そう思えるくらい彼女は近くにいた。父が死んだ時に出会った彼女は僕と同年代のごくありふれた女の子だった。そして今、僕よりも少し年下に見える彼女が僕の手を握っている。

「自分が死ぬかも知れないってのに、相変わらず冷めているのね」

 そうかも知れない。極端に言ってしまえば、自分が死ぬだなんて思ってもいなかった。もちろん不死身の肉体だなんて言うつもりはなく、自分が死ぬ場面をまったく想定していなかったと言う意味で。まさかこんなに早く、こんなに着実に、こんなに静かにやって来るとは思ってもいなかった。

 一昔前と違って、経口薬剤による抗癌剤治療も一歩前に進んでいる、と医者は説明してくれた。スキルス性胃ガンの場合は、胃の内壁にできる腫瘍である通常の胃ガンとは異なり、胃の壁そのものの内部にできる悪性の腫瘍にあたるようで、発見も切除も容易なものではないらしい。

 僕の場合、病状に関しては何も聞かない事にした。先がわかったらその分この先を生きるおもしろみも減る。僕の精いっぱいの強がりだった。その代わり母には何もかも事実のまま包み隠さず伝えて欲しいと医者に頼んだ。

 一度手術をして胃の状態を検査し、それからは注射剤や経口剤による化学療法が行われている。僕にはそれが何を意味しているのか、想像でしかないが、なんとなくわかっている。延命効果や苦痛緩和を目的とした療法なのだろう。自分の身体の事は自分がよくわかる。ありきたりの台詞だが、今の僕にはそれが実感できた。

「正直に答えて欲しい事があるの」

 彼女は優しい擦れた声で言った。

「生きたい? そのためならどんな事にも耐えられる?」

 僕は正直な心を伝えた。君と一緒に生きられるなら、こんな最高な事は他にない。

「ほんとう?」

 彼女が三回目の本当の笑顔を見せてくれた。くしゃみを我慢している猫みたいなヘタクソなくせにとびきり可愛い笑顔を。

 彼女は僕に覆い被さり、目を見つめたまま瞼を閉じずにゆっくりと唇を重ねて来た。エアコンが効いた病室のせいか少し乾いた唇はぱさついたみかんを口に含んだようにただ柔らかいだけで、それよりも僕の顔に流れ込む彼女の髪の毛の感触の方がくすぐったくて心地よかった。

 僕と彼女は唇を重ねたまま見つめ合う。彼女は唇を離し、そして自分の下唇を噛んだ。音を立てずに彼女の歯が彼女自身の唇を破り、その傷からじわりと赤い血が滲んで来て、彼女の唇はまるで口紅を塗ったように深紅に染まった。

 もう一度、血に濡れた唇が触れ合う。彼女の舌が僕の唇を優しくこじ開けて鉄の味とともに僕の中に入って来た。彼女は最初の時よりも強く唇を押し付け、僕もそれに習って彼女の唇を吸った。血の味が濃くなった。

 彼女はかすかな溜め息を漏して唇を緩め、そのまま頬を舐めるように細い首をずらして僕の首筋に顔を埋めた。彼女の髪の毛と僕の髪とが絡み合う。彼女が僕を抱き締める。僕も両手を彼女の背中に回す。小学生の頃、あんなに背が高く大人な身体に見えた彼女の背中は、両腕で包み込める程に細くて柔らかかった。ふっくらとしたセーターを着ていても身体の緩やかな起伏が感じ取れた。僕と彼女の間には毛布があるのに彼女の胸の膨らみや腰元の丸みが暖かさとともに伝わって来た。

 ふと、首筋に何かが当たるのを感じた。

 彼女の犬歯だ。そう気付いた時、ぷつっと首筋の皮膚に穴が開くのがわかった。

 僕の耳元でこくりと彼女の喉が鳴る。ちゅる、ちゅる、と緩い粘性のある液体を啜る音が聞こえる。痛みはなかったが、軽く痺れた。正座をしていて急に立ち上がった時みたいに急激な血流が生じてちりちりとした生暖かい痺れが広がる、あれに似ていた。僕の首を吸ったままの彼女はさらに力を込めて僕を抱き、逆に僕の力は彼女を抱いていたいと言う欲望に反して自然と緩まって、ついに僕の腕は彼女を解放してベッドに力なく落ちた。

 彼女が僕から唇を離して起き上がる。血に濡れた唇を手の甲でぐいと拭い、手の甲にこびりついた僕の血を舌で舐めた。ポケットからハンカチを取り出し、僕の手にそれを握らせて首筋に持って来た。

「押さえてて。すぐに傷は塞がるから」

 間近に見る彼女の唇に、もう傷はなかった。

「生きていたら、続きをしてあげるね」

 そして彼女は病室から去って行った。僕は彼女が噛み付いた跡にハンカチを押し付けたまま唇を舐めた。血の味がやけに濃かった。

 僕の病状に劇的な変化はすぐには現れなかった。

 だが、余命六ヶ月を宣告された僕は、三ヶ月目によく眠れるようになり、六ヶ月目に医者を驚かせ、九ヶ月経っても死なず、十二ヶ月経って顔色がよくなって体重も元に戻り始め、十五ヶ月目に完全な健康体を取り戻して退院した。

 それが彼女のくちづけのおかげなのか、最新化学医療の成果なのか、僕の生きたいと言う意志の賜なのか、わからなかった。その答えが出たのは、七年後、人類が再び月面に降り立った頃だった。


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