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 子供の時と大人の時と、時間の流れは違うとわかった。子供の頃、一日が長くて長くてたまらなかった。授業が終わってもまだ一日は終わっていない。薄暗くなるまで図書室で時間を潰し、家に帰ってもまだまだ一日は続く。夜を迎えてもう眠るだけになっても明日の朝は遠かった。一年など気が遠くなる程未来に思えた。

 しかし大人になると一日は気が付くとすでに終わっている。やるべき事をすぐにこなしていかないとあっという間に時間は過ぎ去って行く。一年など思い出を振り返る暇すらない。

 山高紅緒にとって一年はどれくらいの感覚なのか。

 再び彼女の顔を見た時、それを思い知らされた。

 父が死んだ。突然の交通事故だった。

 その時、僕は大学生になっていた。あまりに突然の事で母は父がいなくなった事をまだ理解できないらしく、僕は母に代わって喪主として立たなければならなかった。かすかに見覚えのある歳の離れた親戚達を迎えた通夜の最中も、混乱して状況を掴みきれていない母の世話をしなければならなく、死んだ父の事を思い出す余裕すらなかった。

 葬式の後しばらくして、彼女はふらりと現れた。

 日曜の午後に呼び鈴が鳴り、また父の知り合いの誰かが線香を上げに来たのかと僕が玄関に向かうと、喪服ではなかったが落ち着いた色合いの大人しい服装の彼女がいた。ようやく父がいなくなった現実を受け入れた母に静かに頭を下げ、父のために手を合わせてくれた。

 母は彼女を僕の恋人と判断したらしく、僕の部屋でゆっくりしていきなさい、とコーヒーを入れた。やっとささやかな日常が戻って来た事を楽しんでいるみたいだった。彼女は母の申し出を受けて僕の部屋に上がった。僕のベッドに座り、部屋の様子を印象派の奇才が描いた油絵を眺めるような顔で観察していた。

「君の家を通りがかったらお通夜をしてて」

 彼女の目が僕のパソコンの側に止まる。そこにはアークロイヤル・スイートのパッケージが転がっていた。いつのまにか、僕もそのタバコを吸うようになっていた。

「誰が亡くなったのか知りたくなったのよ」

 長い時間を生きて来た彼女にとって一年など本当にあっという間なのだ。たまたま僕の様子を観に来たら通夜の最中だったらしい。あの初めて酒の味を知った夜から三年余り。僕には長い三年だった。時間が空いた週末は例の雑貨屋でアークロイヤル・スイートの在庫数をチェックするのが僕の習慣になっていた。在庫が減っていれば、ひょっとしたら彼女が買ったのかも知れない。減っていなくても、僕が買う事によってタバココーナーに空きができて、彼女へ僕なりのメッセージを残せるかも知れない。そんな幼稚で拙い気持ちでチョコレート味の甘くほろ苦いタバコを吸っていた。

 しかし彼女にとっての三年は散歩の合間の休憩のようなものだった。彼女の話では僕をずっと見つめていたらしい。街で見かければ付かず離れず僕を見守りどんな本を読んでいるのか観察し、たまに家の前を通りかかり僕の部屋に電気が灯っているのを確認する。ただし、それは何年かに一度のペースだった。彼女にとってはそれくらいのスパンで十分らしい。

 何故僕に興味を持ったのか。聞いてみた。

「赤ちゃんの頃の君を見て思ったの。この子はわたしとおんなじなんだって」

 首を傾げる僕に彼女は答えた。

「笑わないのよ。感情をどこかに置き忘れたような、何かが欠けた人間なんだって気付いたの」

 言われて気が付いた。そうだ。僕も笑わない人間だ。作り笑顔を振りまいている彼女の本当の笑顔は二回見た事がある。給水塔の上での初めてのタバコの時と、ホテルでの彼女の寝起きの顔を覗いた時。しかし、僕の笑顔を彼女に見せた記憶はなかった。そもそも、僕は作り笑顔すら作らない人間だ。

「わたしとおんなじなんだって気が付いて、君の人生を観てみたいと思ったのよ」

 彼女はずっと僕を見つめていた。笑わない僕を。父が死んだのにも関わらず悲しさや寂しさを感じない僕を。感情の欠けた冷めきった僕を。こんな僕を。

 彼女に言われたからか、急に、泣いてみたくなった。涙を流したら、彼女は僕を胸に抱いてくれるだろうか。父を思い出してみた。しかし何もこみ上げて来なかった。ただ単に記憶と言うよりは記録のような父との生活が思い起こされ、かと言って僕の中にあるはずの悲しいと言う気持ちが震える事もなく、何度も繰り返し観た古い映画を眺めているように何の感情もなく父の顔を脳裏に描いているだけだった。

 ただ、それが少しだけ悲しかった。父を失って悲しいと思えない自分が悲しかった。

「君なら耐えられるかもね。身近な人を失う寂しさに」

 彼女はそう言って立ち上がった。彼女はその寂しさに耐えられる人間なのだろうか。彼女はどれくらい身近な人間を失って来たのだろうか。

「また近いうちに会いましょう。わたしにとってはすぐだけど、君にとっては何年先になるかな」

 帰り際、引き止めようとする母にいつもの器用な作り笑顔を見せ、彼女は彼女らしく振り返らずに去った。


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