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 高校を選ぶにあたって最重要な事と言えば、中学時代の幼稚な連中を切り離すべくなるべくレベルの高い学校へ進学する事だった。一人でいる事が多くあまり友達とつるんで遊んでいなかったおかげで勉強もはかどり、県でもトップクラスの私立高校に余裕で入学できた。

 だからと言って、残念ながら何も変わる事はなかった。舞台が中学から高校に変わっただけで、県でも有数の進学校に入り全体的にレベルの底上げはなされていたが、相変わらず僕は周囲との温度差を感じていた。

 入学早々、クラス内では早くも群を作りたがる連中の派閥作りが始まっていた。男女共学のせいでやたら女子の視線を気にしたがるグループ、何をそんなに仕切りたがっているのか何かと絡みたがるグループ。早くも志望の大学に向けて勉強以外をあっさりと切り捨てたグループ。いろいろいた。それらのどこにも僕は属せず、やはり冷めた感情でクラス内の人間観察をしていた。高校に入学したからと言って何かをしたいと言う熱気と言う物が沸いて来なかった。

 何故だろうと思う事もあった。僕はどうしてこんな風にしか生きられないのか。しかしある時、高校に入学した程度の事でいまさら生き方が変わるはずがない。そんな風に自分自身の中で納得している僕に気が付いた。

 山高紅緒の謎は解けないままだった。あれから彼女に関する新しい情報は一切入手できず、相変わらず携帯電話の待受画像の小さな横顔だけが彼女の唯一の存在証拠だった。

 それでも僕は彼女を忘れられない。

 どうにかして彼女に近付こうと、僕はチョコレートの香りがしたと言う記憶だけを頼りに彼女が吸っていたタバコを探し始めた。県下有数の進学校と言えど、やたら背伸びしたがる子供はまだまだいた。当たり前のように鞄の中にタバコを隠し持っている連中に話を聞いてみた。チョコレートの香りがするタバコ。しかし彼等が持っていたのはバイクやカーレースのスポンサーでよく聞く銘柄であったり、そこらの自動販売機に並んでいるようなものばかりで、タバコを吸うと言う事よりもファッションの一部としてしか認識していないようであった。

 人の流れが激しい駅での電車の待ち時間や街中を歩いている時にタバコをくわえている人を見かけると、つい近くに寄ってその銘柄と香りをチェックするような毎日が続いていた。

 クラスにどうにもおせっかい焼きな女子がいた。誰とも話さずいつも一人で本を読んでいたり、昼休みに図書室のインターネット端末で何かを調べていたり、かと思うと素行のよくない連中とつるんでタバコの話をしていたり、そんな僕に見兼ねてついに声をかけてきた。

「どうしてクラスに馴染もうとしないの? それに高校生がタバコなんて吸っていいと思っているの?」

 どうにも答えようのない質問だった。

 クラスに馴染もうとしないのは、特に馴染む必要性を感じなかったからだ。一人でいても勉強はできるし、やりたいと思う部活動もなかった。本を読むのもただの時間潰しの手段の一つでしかなかったし、タバコだって悪い連中の仲間に入れて欲しくて調べている訳じゃない。山高紅緒に一歩でも近付きたいだけだ。

 さすがに彼女の事を話す訳にも行かず、僕は僕自身がやりたい事を探しているんだと適当に言葉を濁しておせっかいな女子の相手をしていた。

 やはりと言うか、その程度のごまかしではおせっかいな子は僕を解放してくれなかった。むしろ逆効果だった。

 ある日の放課後。真っ直ぐ帰ろうとせずに街中に向かう僕の後をその子はつけて来ていた。もちろんテレビで見る警察や私立探偵がするような本格的な尾行なんかでなく、僕の数歩後ろを付かず離れず歩いて来て、たまに愚痴のような小言を僕の背中に投げかけて来る具合だった。

 街の雑踏の一部と思い込んで聞き流していたが、あまりにしつこく食い下がって来るその子をまるっきり無視する訳にも行かず、とりあえずその子をコーヒー屋へと誘って無駄で無意味な努力を止めさせる説得をしてみた。

「ただあたしは君が悪い道に走ってしまわないか、様子を見に来ているだけなの」

 その子は熱いカプチーノを舐めるように味わい、唇に付いたコーヒー色の泡をぺろりと掃除して澄ました顔で僕の向かい側に座って言った。まるでデートのつもりか、コーヒー屋の窓際の丸テーブルに陣取り、人々が歩き回る街の風景と初夏の陽射しを楽しむように片肘を付いて形のいい顎を乗せてガラス窓の向こうへと視線を流した。

 今時の女子高生らしい栗色に染めた淡く輝くセミロング。あまり頻繁に髪を染めていないせいか根っこの方が黒く戻り始め、陽の光の加減でグラデーションがかかったように見える。目を細めて初夏の太陽の暖かさを楽しみ、またカプチーノを舐める。

 僕は仕方なくタバコを探しているとだけその子に伝えた。外国産の輸入タバコだと思うが、不思議なチョコレートの香りがするタバコ。子供の頃に嗅いだだけなので銘柄の名前とかパッケージのデザインとかはほとんど記憶にない、と。

「……どうして?」

 その子はチョコレートの香りに興味を示したのか、少し前屈みになって話に乗って来た。理由。まさか赤ん坊の頃から知っている歳を取らない不思議な女性を探していて、彼女探しのきっかけになればと思って探している、だなんて言えるはずがない。

 僕が吸うためじゃなく、ある人が吸うため。僕はただプレゼントとして欲しいだけ。

 コーヒーカップを傾けながらその場で考えた適当な理由だが、その子はそれで十分に納得してくれたようだ。それとも、ただ僕と一緒に街をウロウロする理由が欲しかっただけなのか。

 天気予報を裏切って初夏らしからぬ強い陽射しの中、その子はブレザーを脱いで腕にかけ、白いシャツに太陽の光をまぶしく反射させて僕を先導するように歩きだした。その子は携帯電話の検索サイトで早速チョコレートの香りがするタバコを調べたようだった。何種類かチョコレートに限らずフルーツなどの香りが付いたタバコがあるようだった。

 デパートの輸入雑貨屋とか、そういうタバコ屋らしからぬところでならそれっぽいのが見つかるんじゃない? と、どうやらその子は完全にデート気分のようだ。

 しかしその子のカンは当たった。

 やけに明るいデパートの一画に、わざとらしい東南アジアを彷佛とさせるデザインの雑貨屋が草を編んだような扉を開け放っていた。素朴な音源の南米音楽が語りかけてくるように流れ、鼻が混乱してしまいそうなあらゆるお香や色鮮やかな民族色が豊かなデザインの洋服などが並ぶ店内の奥に、おもちゃの箱のようなデザインの輸入タバコ達がひっそりと並んでいるコーナーがあった。

 遠い外国のキャラメルかチョコレートの箱にも見えた。その子は得意げな笑顔を作ってパッケージを一つ手に取って僕に差し出してみせた。ご苦労さま、と僕はそのパッケージを受け取る。フレーバータバコと言うジャンルのタバコのようで、このパッケージの文字はアップルミントと読めた。

 僕はそれらのタバコのパッケージを代る代る手に取り、鼻に近付けてそれらのさりげない自己主張を確認してみた。青リンゴの香り。レモンティーの香り。仏壇の線香のような香り。そしてそれらの中の一つに、記憶を蘇らせてくれるパッケージがあった。

 アークロイヤル・スイート。ウルグアイのタバコだ。頭の中に地球儀を思い浮かべたが、ウルグアイと言う国がどこに位置するのかきっちりと指を差せる自信がなかった。

 パッケージは見覚えのあるオレンジの色合い。紙製のパッケージからはかすかにビターチョコレートの香りが立っている。このタバコだ。この匂いだ。甘い香りは鮮明な記憶を映像として呼び起こして僕の頭の中で渦を描いた。小学校の給水塔の上で彼女が僕を抱き締める。彼女の黒い髪が風に踊る。彼女の柔らかい身体の暖かさが肩に蘇る。あの時彼女が僕の口に運んでくれた香りだ。あまりにあっけない再会に驚きは全くなかった。

 そして、タバコの甘い香りはもう一つのとびきりの再会を用意していた。

 僕の手から誰かがタバコのパッケージを奪い取った。驚いて後ろを振り返ると、そこには彼女がいた。蘇った記憶の中の彼女とまるで変わらない姿が僕のすぐ背後に立っていた。これは現実か、それとも甘い香りがもたらした幻想か。

「大きくなったもんだ。でも、まだタバコは早いんじゃないかしら?」

 少し擦れた優しい声も相変わらず。変わったのは僕の方か。僕はいつのまにか彼女よりも背が高くなっていた。小学校の時に見た教育実習生のスーツ姿の彼女はやけに大人びて見えた。髪の長さもあって背がすらりと高く感じられ、ぴしっとしたスーツ姿がいかにも出来る先生らしく、毅然とした態度が手の届かない大人らしさを醸し出していた。

 しかし今まさに僕の側にいる彼女はそんな様子を微塵も感じさせなかった。彼女の髪の毛は相変わらず真っ黒で真っ直ぐで絵に描いたような艶があって。しかしそれは僕の視線の高さにあった。少し目線を下げるとあの笑っていない大きな瞳が僕を見上げている。身体に合わない大きめのTシャツを重ね着し、脚は素肌が覗くくらいにボロボロにほつれたダメージジーンズ。

 彼女は普段着の格好で僕を見つめ、そして僕の向こう側に立つあっけにとられているあの子を見つけた。

「……彼女、かしら?」

 それに応えるようにその子は挑戦的な含みのある声で言った。

「ねえ、誰なの?」

 僕は二人を交互に見つめ、ありのままを話した。片方は僕の古くからの知り合い。片方は僕の高校のクラスメート。何も飾る言葉もなく、もちろん嘘偽りもなく、ありのままの情報だ。

「ふうん」

 彼女は僕とその子を見比べるようにしてから、いつものような作り笑顔を見せて残りのアークロイヤル・スイートのパッケージを全部掴み取った。

「どっちにしろ、坊やがタバコを吸うのはまだ早いわよ。わたしが買い占めとくわ」

 でも、一つだけ、僕に手渡してくれた。

「それに、その格好で果たして売ってくれるかしらね?」

 僕もその子も学校帰りだったので制服のまんまだった。僕はタバコのパッケージをコーナーに戻し、レジへ歩き去る彼女をじっと見つめた。

 彼女はもう大人っぽくは見えなかった。もちろん、それは彼女が幼く感じられると言う意味ではなく、彼女の年代に僕がようやく追い付いたと言う事だろう。背の高さも僕は彼女を追い越していた。小学生の時に見た彼女はやけに大人の女性らしく匂い立つような色気すら感じられた。しかし、ダメージジーンズの尻ポケットからチェーンに繋げられた財布を取り出している彼女は、どこかしら少女らしさを残したまま大人になってしまった女と言う感じだった。身体の線も細くどことなく華奢な作りで、黒い髪の毛の豊富さがより彼女に少女の面影を映し出している。

 ふと、あの子が僕の制服を引っ張っていた。眉毛は雑誌モデルをお手本にしたように形よく眉尻が上がっている。少しだけ目を大きく見せるようにアイラインを引き、唇は潤った紫陽花の蕾のように濡れている。精いっぱい背伸びをしてみせる少女らしい生意気なメイク。制服のシャツと丈の短いチェックのスカートに身を包んでいるが、まだ十代の少女らしさが居座っている丸みのある身体が触れられる程近くにある。

 彼女とあの子、パッと見た目には同年代にも感じられたが、その実はまるで違って見えた。

「ねえ、再会を祝してゴハンでも食べない? お姉さんが奢ってあげるわよ。よかったら彼女も一緒にどうかしら?」

 彼女が振り返って言った。

 思えば、僕の人生においてここが大きな分岐点だったのかも知れない。一生を決める重大なポイント。僕は迷わなかった。

 僕は彼女を選択した。

 あの子は一緒に来なかった。この日以来、クラスで顔を合わせても曖昧な言葉で避けるようになり、二度とおせっかいを焼いてくれる事などなかった。今ではもう、名前すら思い出せない。

 彼女は僕を連れて真っ直ぐに街の中心部、繁華街へと向かった。目を瞑ってもたどり着けるような定まった歩調で、彼女は歩き慣れたような、それとも歩き飽きたような足取りで夕方の繁華街の奥へと突き進んで行った。

 一件の炭火焼き鳥屋ののれんをくぐる。まだ夕方も早い時間帯だと言うのに、店内にはすでに何組かの客が炭火の煙に燻されていた。

「ここね、穴場的な呑み屋なのよ。わたしのお気に入り」

 そう言って奥まった座敷き席にずかずかと分け入って行った。薄い膜のような木目の細かい布で仕切られた座敷きにはまだ客はおらず、僕と彼女だけが向かい合って座った。少し薄暗い照明、狭い仕切りの座敷き、田舎の大きな屋敷を思い起こさせる黒塗りの太い柱、充満する炭火に焦がされた脂の匂い。確かに、隠れ家と言った雰囲気だった。

「お酒は?」

 彼女はメニューを眺めながら僕に視線も向けずに聞いた。メニューに隠れて僕が見えているかどうかわからなかったが、黙って首を横に振った。いらない、と言う意味で横に振ったのだが、彼女には別な意味で伝わったようだ。

「あら、初めてなの。タバコもわたしが教えちゃったし、じゃあ今日はお酒を教えてあげるわね」

 そして彼女は泡盛をロックで二つと、適当な料理を見繕って注文した。

 僕の初めての酒は泡盛だった。完全に彼女のペースに嵌っていた僕は諦めて四十三度のアルコールを口に含み、あっけなく記憶を飛ばしてしまった。

 霧に包まれた記憶がおぼろげながら輪郭を取り戻したのは深夜一時。ベッドの上だった。まずは何故僕はこんなところで寝ているのだろうかと思い、それから彼女の事を思い出した。

 重い身体をゆっくりと引き起こし部屋の中を見回す。頭を巡らせると脳が頭蓋骨の中で偏ってしまったかのような目眩が襲って来た。身体を保てずに再びベッドに倒れ込む。

「起きても平気?」

 部屋の隅の方から声が聞こえて来た。視線をその方向へ送ると、照明を落とした部屋にテレビの明かりだけが煌々と瞬いていた。そのうつろう光を浴びた彼女の顔はさまざまな色と影が溶け合い、抵抗しがたい不思議な美しさが備わっていた。僕はしばらく彼女に見とれ、それからやっと声を出す事ができた。

「呑み過ぎちゃったようね。ごめんね。真っ直ぐに歩けないようだったし、制服のまま酔っ払っているのをお巡りさんに見つかったらやばいからラブホテルに避難したのよ」

 もう一度起き上がろうとしたが、体重のバランスがおかしくなったのか、それともラブホテルの部屋は重力制御装置でも配備しているのか、起き上がっている感覚はあるのに身体はベッドの柔らかさに捕まったままで、結局仰向けからうつ伏せに姿勢を変えただけにとどまった。

「無理しないの。寝てなさい」

 彼女が立ち上がって冷蔵庫を開ける。部屋の中に少しだけ光が漏れだした。

「安心してね。何にもしてないから」

 彼女はそう言うと僕にペットボトルを押し付けた。頬に冷たい感触が広がる。ペットボトルを受け取り、うつ伏せの姿勢のまま片肘をついてボトルを開けた。冷たい水は乾いた僕の中にあっと言う間に吸収され、少しだけだが僕は生き返った気持ちになった。ちらりと彼女の姿を盗み見る。服装は焼き鳥屋に入った時のままだ。僕の格好も制服のまま。まったく記憶が呼び戻せないのだが、何にもなかったと言うのは事実のようだった。

「いろいろわたしの事を話したんだけど、覚えているかしら?」

 僕は頭を働かせようとしたが、残念ながら意識はまだ働きたくないようだった。ずっしりと頭の中に砂が詰まってしまったかのように重たさが増して来る。僕は首を静かに横に振った。

「残念ね。わたしは同じ事は言わない主義だから、もう教えてあげない」

 僕は彼女にどこまで話したのだろうか。チョコレートの香りがするタバコを追えば彼女にたどり着けるかも知れないと言った幼稚な作戦の事。記憶の中の山高紅緒が歳をまったくとっていない事。僕が毎日彼女の事を想っている事。どこまで伝えたのだろうか。

「まあ、君の言っていた事はだいたいあっていたけどね」

 彼女は真新しいタバコのパッケージを破り、一本を口にくわえて小学生の時に見たのと同じ銀色のジッポライターで火をつける。彼女の唇から細い煙が空気に溶けだし、部屋にほんのりと甘くほろ苦い香りが漂った。ポケットにタバコをしまいかけた彼女は思い出したようにもう一本を取り出し、僕の口にそっとくわえさせた。僕は彼女のなすがままにタバコを口にし、ぼんやりと火をつけてくれるのを待った。

 彼女はベッドの側に膝立ちし、僕を一度見つめてから覆い被さって来た。ひやりとした冷たい両手で僕の頬に触れて、火のついた彼女のタバコを僕のタバコに押し付けた。タバコ二本分の距離に彼女の唇がある。なかば瞼を閉じたような薄目の彼女がタバコをくわえたまま小さく囁いた。彼女の唇の動きに合わせてタバコが揺れ、僕の唇に直接彼女の言葉が染み込んで来る。

「吸って」

 僕は言われるままに息を吸い込んだ。僕と彼女の唇の間にあるタバコがかすかに焦げる音を立てて赤く光を放ち、僕の胸に甘い煙がするすると入り込んで来た。少しの量だったせいか、咽せて咳き込む事はなかった。

 浅く呼吸するように数回タバコをふかすと、彼女は僕の唇を拭うようにしてタバコを持ち去ってしまった。

「とりあえず今は眠りなさい。君が目を覚ますまで、側にいてあげるから」

 僕はその言葉を聞き、急に安心感に包み込まれて瞬く間に眠りに落ちてしまった。

 そして目を覚ました時はすでに次の日の太陽が高く昇り、彼女はソファに座ったまま毛布に包まれてかすかな寝息を立てていた。時計を探し、針がどの位置を差しているか確認して、もう学校なんてどうでもよくなった。どうあがいても、昼休みにすら間に合わない。

 ペットボトルに残った水を飲み干し、重たい身体を無理矢理引き起こして彼女の元まで歩いて行く。ソファによりかかるように腰を下し、彼女の名を呼んだ。

 彼女は擦れた声を漏らして薄目を開ける。間近に僕の顔を見い出して、小学校の給水塔で見せた猫のような不器用な笑顔を僕にくれた。

「レディの寝起きの顔を覗くなんて失礼よ」

 すぐに毛布に隠れてしまった彼女は小さな声で欠伸混じりに言った。

「もう一日部屋はとっといたから、寝たいだけ寝ましょう。お腹減ってたら、適当にルームサービスでも頼みなさい」

 とりあえず僕はベッドに戻り、放り投げてあった鞄から携帯電話を取り出した。予想通り、着信が何件もあったようだ。母からだ。

 携帯電話を睨み付けながら無断外泊をしてしまった言い訳を考える。その時に奇蹟的に浮かんだ嘘の理由は、僕の人生においても最高傑作の嘘だろう。悪用されても困るので誰にも言わないと心に決めた程に見事な嘘だった。

 そして僕と彼女はもう一晩ラブホテルに泊まった。備え付けてあった衛星テレビを観て、テレビに飽きたらゲームをして、電子レンジで温めただけのルームサービスを食べ、無意味な会話を繰り返し、交替でシャワーを浴びて、またテレビを眺めて、しかし決してお互いの身体に触れ合う事もなく、次の日の朝、帰った。

 別れ際に彼女の携帯電話の番号を尋ねた。

「わたし、携帯持っていないの」

 本当か嘘かわからなかったが、その一言だけで彼女は手を振って僕に細い背中を見せて歩き出した。目の前にある柔らかな曲線を描く背中に触れようと手を伸ばしたが、届かなかった。


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