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 長い長い時を経て、彼女との再会を果たしたのは小学四年生の頃。突然に彼女の細い腕が僕の教室の扉を開いたのだ。

 そして初めて彼女の名前を知った。

 山高紅緒。ヤマタカベニオ。

 不思議な響きの名前だった。まるで男のような名前で、紺のスーツにスカート姿で写真に撮りそこねたような崩れた作り笑顔を顔に貼付けている彼女は、過去の自分の記憶と全然印象が違った。しかしこの黒髪を見間違える訳がない。あの擦れた優しい声を聞き間違える訳がない。

 教育実習生として僕のクラスを受け持つ事となった彼女は、まずはクラスのみんな一人一人を立たせて自己紹介をさせた。順番順番にクラスのみんなが彼女に自分の名前を告げていく。たどたどしく将来の夢を語っていく。彼女は一人一人に声をかけ、へたくそな作り笑顔をみせてよろしくと頭を下げていた。

 だけど、僕には彼女の笑顔が笑顔に見えない。顔のパーツをこんな風に形作れば笑い顔に見える、そんな風に鏡の前で練習したような偽物の笑顔にしか見えなかった。そういえば、ショッピングモールの警備員室でも作り笑顔で話していた。病院の新生児室ではちらりとも笑ってみせなかった。

 きっと彼女は笑わない人なのだろう。笑えない人なのだろう。自然にそう思えた。だから笑顔を無理矢理作っているのだ。

 自己紹介が僕の番になった。席を立ち真っ直ぐに彼女を見つめる。真っ黒い髪の毛をゆったりと垂らして、その隙間から顔を覗かせているような彼女も僕を真正面に見つめている。その時、少しだけ作り笑顔が消えた。新生児室で見せてくれた、ショッピングモールで僕の手を握ってくれた、あの時の彼女の本当の顔がそこにあった。ただ視線の焦点を合わせているだけのような、そこに何もない表情の彼女。眠ったまま目を開けたような顔。美術室に並んだ石膏モデルのような顔。それでも暖かみのある瞳が僕を見つめている。形のいい唇がほんの少しだけ開き、そしてこくんとかすかに頷いてくれる。

 すぐに作られた笑顔が彼女の顔に戻り、僕はありきたりな自己紹介を済ませた。

 教育実習生として彼女がこの学校にいられるのは二週間。僕はその短い時間内になんとか彼女と二人きりで話ができないものか、そればかり考えていた。

 そしてその機会は突然にやってきた。文字通り、舞い降りてきた。

 僕は学校では大抵一人でいる。普通に仲間と呼べる友達もいるにはいたが、特に何もしたくない昼休みや放課後などは一人で屋上に上がり、図書室から借りて来た海外の冒険小説のページをぼんやりとめくっている事が多かった。そしてその時間は誰にも邪魔されたくなかった。

 僕の学校は自由に屋上に上がる事ができたのだが、ボールが自由に使える芝生の校庭やインターネット環境が整えられた図書室の方が人気が高く、特に曇りがちの放課後なんかは一人占めできる僕だけの空間になっていた。

 その日も屋上は僕だけのものになるはずだった。

 主人公達が乗る潜水艦がゆっくりと海に沈み行く時、僕の頭上から擦れた声が降って来た。ここは屋上だ。不思議に思い空を見上げる。重そうな灰色の雲がまだら模様を作り、雲が薄い所からかすかに陽の光が漏れだしている空に背伸びをすれば手が届きそうだ。

 さらに声が降り注ぐ。仰向けに倒れるように空を仰ぎ見ると、山高紅緒の顔が雲まみれの空に浮かんでいた。屋上への出入り口に併設された給水塔から彼女が顔を覗かせて、僕をじっと見下ろしていた。黒髪がさらさらと穏やかな風に流れ、彼女は少しだけ鬱陶しそうに髪をたくしあげてからくいと手招きし、僕を給水塔の上、まさに屋上の特等席へと招待してくれた。

 給水塔へは一本のハシゴが取り付けられている。僕も一度だけ昇った事があるが、真っ平らなコンクリートとは違い、あまり座り心地のよくない曲面の硬質な樹脂が気に入らなくて落ち着いて読書にふける事ができなかった。だから見える景色だけは特等席のあの場所へは見向きもしなくなり、いつも給水塔に寄り掛かるように本を開いていた。

 いつから彼女は給水塔の上にいたのだろうか。ひょっとして魔法のように瞬時に姿を現したのだろうか。

 ハシゴを昇ると彼女が手を差し出して来た。ショッピングモールでの彼女の手を思い出す。あの時と同じく柔らかくカーブを描いた細い指がきちんと整列していた。右手を伸ばし、空を掴むようにして彼女の手を握った。ひやりと冷たい。

 学校に配備されている給水塔と言っても、普段から使われている物ではない。水道が止まってしまった時などの緊急時用の水だ。それほど大きな給水タンクでもなかった。大人の女性と小学四年生が並んで座れば十分に窮屈に感じられる。僕は自然と彼女に触れられる程近くに腰を下ろした。

「何の本を読んでいたの?」

 彼女は作り笑顔の授業中とは違う、僕だけを視る時の眼で僕の手元に視線を落とした。僕はその熱がこもったような眼の意味が解らず、ただ本の表紙を彼女にかざしただけで答えた。

「……ジュール・ヴェルヌ?」

 彼女は首を傾げて、懐かしい友達の名前を思い出すように細い顎に指を添えていた。

「読んだ事あるような、ないような。それって、おもしろい?」

 僕はこくこくと小刻みに頷く。ふぅん、とそれだけ言うと彼女の興味はあっという間にジュール・ヴェルヌから薄鉛色の空へと移ってしまった。僕もつられて空を見やる。相変わらず太陽は分厚い雲の向こう側にいてほんのりと丸い輪郭を見せているだけだった。風は湿気を含んでじっとりと生暖かく、皮膚にねっとりと絡み付きそうな重みがあった。髪の毛の間に分け入って頭をじんわりと湿らせる風。蒸し暑さに思わず髪の毛を掻きむしりたくなる。

 僕は空から彼女へと視線を向けた。もう飽きてしまった古い映画を観ているような彼女の横顔。無感動と言うか、そこに心を映し出す表情がないと言うか、微笑まず、かと言ってむっつりと怒っている訳でもなく、ただ均等に目と鼻と口を並べられた顔。それでも強い意志を感じる瞳がある。多くの物語を紡ぐ唇がある。目許を明るく、頬はわずかに赤みがさしたようにする最近流行りのメイクの様子が見て取れるまで、僕は彼女の横顔を見つめ続けていた。

 真っ黒い髪の毛が豊かな分だけ顔付きが小さく首がほっそりと細く見える。彼女の白い肌は本当にゆで卵や牛乳プリンのように滑らかな曲線を描いて洋服の中に消えていた。蒸し暑さのせいか彼女は上着を脱ぎ、顎を上げて上半身を少しだけ反らすようにして座り、白いブラウスの首のボタンを外して風を服の中へ招き寄せていた。

 よく見れば、彼女がゆっくりと呼吸するリズムが解るように胸がわずかに膨らみ、そして萎んでいた。重たい風が彼女のブラウスを押し付けて身体の形をくっきりと浮かび上がらせる。白いブラウスに彼女の胸の膨らみを包み込む下着がかすかに透けて見えた。

 風がひるがえり、彼女の髪が踊る。押し付けられていたブラウスは急に風を含んで暴れだし、ボタンとボタンの隙間から彼女の腹の肌色が少しだけ覗き見えた。僕は彼女から眼を離せないでいた。

 ふと、乱れた髪に手をやった彼女が僕の視線に気付いた。

「なあに?」

 静かな声。からかう訳でもなく、問い詰める調子でもなく、ただ優しく響く音色。僕は首を横に振って俯いてしまった。すると今度は彼女のふくらはぎが目に飛び込んで来た。今の強い風がスカートを捲れ上がらせ、彼女は膝上までストッキングに包まれた肌色を晒していた。スカートの裾を直そうともしないで脚を組んだままの彼女はもう一度優しい声を僕に投げかけてくれた。

「わたしに何か言いたい事があるんじゃないの?」

 何もかも見透かされている気がした。さっきから彼女の身体を這っていた僕の視線までもが彼女に読み取られてしまった気がして、急に恥ずかしさがくすぶりだして目を瞑りたくなるような罪悪感が沸いて来た。それでも僕は彼女から眼を離す事はできなかった。ずっと彼女の身体を見つめていたかった。

 僕は今の正直な気持ちを彼女に伝えた。

 タバコの甘い匂いが嗅ぎたい、と。

「こんなとこ見つかったらクビね」

 彼女は初めて本当に笑って見せた。作られた笑顔を貼付けるのとは違った、猫が顔を洗う時のように目をきゅっと細めて頬を丸く膨らませて口の両端を釣り上げた。これが彼女の本当の笑顔なんだろう。

 彼女はクククッと不器用な笑い声を漏らしながら、傍らに無造作に畳んでいた上着のポケットからタバコの箱を取り出した。一本のタバコをもったいぶって選びだし、ピンク色の膜を張ったような濡れて見える唇で挟み込む。彼女の細い指先には不釣り合いなジッポライターがカチャリと薄い金属音を立てた。彼女は目を細めて揺れる炎を見つめると、映画の中で外国人の女優がキスをするようなゆっくりとした仕種で首を傾けてタバコに火を灯した。

 ジジ、と彼女の唇にくわえられたタバコの先が赤く光ってかすかな音を上げた。目を閉じ、彼女は甘い煙をゆっくりと風の中に溶かし込んだ。彼女が吐き出した煙は薄い筋のような線を空間に描いて、風に揉まれてすぐに消えた。

 僕は胸を膨らませてとろりと甘くほろ苦い香りを精いっぱい吸い込んだ。遥か遠く、決してたどり着けない異国の地のチョコレートの香りはきっとこんな風に染み込んで来るのだろう。

 ふと、彼女の柔らかな胸が僕の肩に触れた。彼女はタバコを持った右手を僕の身体に回し、まるで抱き寄せるようにして僕を包み込んだ。彼女の体温をじっとりと感じる。彼女の胸と腹が描くゆるやかな曲線が僕の身体の形にへこんでしまいそうな程強く、彼女は僕を抱き締めていた。

「はい、あーん」

 彼女の言葉の意味がわからなかった。僕が彼女を見上げると、彼女の唇がすぐ目の前にあった。かすかに甘く香っている。彼女は唇を開けてもう一度ゆっくりと言った。

「あーん」

 僕は彼女に習って口を開けた。僕の肩越しに彼女の右手が迫る。その指先には細い煙を放つタバコがつままれていた。彼女の唇が吸ったタバコが僕の唇に触れた。彼女がくわえたせいか、少し濡れていて思ったよりも柔らかくなっていた。

 初めて吸うタバコの煙。胸の中の空気が煙に吸収されて、肺が思いきり縮んでしまうちりちりとした痛みと共に、チョコレートの味の苦い部分だけが流れ込んで来て喉を塞がれたような息苦しさが感じられた。勝手に咳が溢れ出し、口と鼻から煙を吐き出す。そして、そこにチョコレートの甘い匂いを見つけた。

 彼女はまた猫のような笑い顔を見せて、僕の口からタバコを取り上げると自分の唇へと戻した。

「おしまい。続きは大人になってからよ」

 ふーっと、重く曇った空に甘い煙を吐く山高紅緒。

 結局、教育実習期間が終わるまで僕と彼女の二人だけの会話はこの時だけだった。


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