3
次に彼女の姿を見つけたのは幼稚園に入ってからだ。やたら熱い夏の日の、海をひっくり返したようなひどい土砂降りの日だった。
母親は僕を幼稚園に送り届けてから生協のパートにでかけ、午後やや遅い時間に迎えに帰って来る。それまで僕はただ待っていなければならなかった。母親の仕事が押して迎えが遅くなった時などは、友達も皆帰ってしまい、たった一人で先生達の部屋で絵本を読みながら時間が過ぎるのをじっと耐えるように待っているしかなかった。しかし、それは僕にとって苦痛ではなかった。むしろ静かに読書に集中できる有意義な時間であった。母親の迎えが遅くなってもかまわない。絵本の主人公達が僕を冒険の世界へと連れて行ってくれる。
あの土砂降りの蒸し暑いの日。昨夜遅くに台風が日本列島を直撃し、台風そのものから遠く離れた僕の街でもひどい雨が地面を叩いていた。幼稚園の木々が激しい風に身を踊らせ、遊具がガチガチと音を立てながら暴れている。そんな見た事もない荒れ狂う光景を僕は興奮気味に窓にかじりついて見つめていた。窓ガラスの向こう側はまるで別世界だ。まるで絵本で読んだ世界だ。部屋の中にいるのに窓に近付いただけで雨に打たれているような湿気を感じた。ちゃんと窓の鍵も閉めているのにどこからか忍び込んで来た冷たい風を感じた。この薄いガラスの向こう側には本物の嵐がある。
ふと、校門に立つ赤い傘が目に入った。街を覆い尽くすような暴風雨にも負けないくっきりとした鮮やかな赤だった。
彼女だった。
強風になびきひるがえる黒髪を片手で押さえ、彼女はたった一本の赤い傘を台風に抵抗するかのように斜めにかざして、じっと動かずにこちらを眺めていた。髪がさらわれるような強い風の中、タバコをくわえたまま悠然と立つ彼女。雨に煙る世界に細くタバコの煙を吐き捨てる。煙はあっと言う間に雨に溶け込んでしまった。
彼女を見つけた僕は思わず雨の中へ走り出していた。驚いた先生達が止めるのも聞かずに池のように水が溜まった校庭を横切って校門まで走り、雨に打たれながら先程までそこにいた赤い傘と長い黒髪を探した。しかし、彼女の姿はなかった。タバコの煙のように雨に溶けてしまったのか。強い雨が僕の身体を濡らす。雨が服の中まで染み込んできても、僕はそこから動けずに彼女の黒い髪を探していた。
そこへ偶然母親の車がやってきた。びっくりしたような顔付きの母は傘も差さずに車から飛び出して来て、僕を抱えるようにして幼稚園の中へと飛び込んで行った。
一分にも満たない短い時間だったが僕がずぶ濡れになるには十分過ぎる雨量で、僕の前髪からはぽたりぽたりと雨水が雫となって垂れ落ちていた。冷たい雨を含んだ服が背中にぴったりと貼り付いて気持ちが悪かった。叱るような口調で僕の名を呼びながら、先生から借りたタオルで僕の髪をくしゃくしゃと撫でる母。
何故雨の中外に飛び出したのか母が問い詰めて来た。
言えなかった。答える事ができなかった。
だからと言って黙ったままで許される訳もない。僕は嘘をついた。
ショッピングモールで迷子になった時、彼女に助けてもらったお礼を言っていなかった。だから、彼女を見つけた僕は外に出た。彼女にお礼を言うために。母親と先生にはそう告げた。
違う。
僕はあのチョコレートのような甘い香りがするタバコの匂いを、彼女が放つ香りをもう一度嗅ぎたかったのだ。ただそれだけの理由なのだが、どうしても言えなかった。
長い間太平洋をさまよってようやく日本列島に上陸した大型台風は、その喜びのあまりに大暴れをして彼女の匂いを吹き飛ばしてしまい、僕は雨に湿った土の匂いしか胸に吸い込めなかった。