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彼女と再び出会ったのは二歳、いや、三歳か。まさに三歳になったばかりの誕生日の出来事だったか。
母親と母親の友人とその子供と一緒に、郊外型のショッピングモールへ誕生日の食事会に行った時だ。車の後部座席でリアウインドウを覗き込み、すごいスピードで向こう側へと溶けて行く街の風景を眺めるのが好きだった僕は、自分自身の誕生日パーティーよりも、車に乗っていつもよりちょっと遠出をすると言うイベントそのものが楽しくて、胸がワクワクドキドキしくてたまらなかった。
初めて足を踏み入れたショッピングモールの大きさ、明るさ、にぎやかさ、そして、騒がしさ。一気に押し寄せてきて僕を包み込んだその圧倒的な情報量に、僕はどうする事も出来ず目眩すら覚えていた。見た事もない多層構造をした天井を見上げていると、どちらが天井でどちらが地面なのか見失い、平衡感覚を失ってよく転んでしまっていた。
人ごみの中、母親の手に引かれ、あちらに引っ張られて思わず背伸びしたくなるような洋服を着せられ、こちらに引きずられて大人が履くような紐で結ぶ靴を履かされ、そちらに持ち運ばれて目映く光り動き回るおもちゃを眺めさせられた。
その時の僕はここが違う世界なんだと思っていた。絵本やテレビでよく見るような自分のいる家とは違う世界。いつもよりも長く車に乗って普段の世界を飛び越えてあっち側の夢の世界へ渡って行くんだ。
望むと望まざると違う世界へと旅立った絵本の主人公達は、必ずしも楽しい事ばかりに出くわしていた訳じゃない。そう、悪い魔法使いに捕らえられ暗闇の牢屋へと閉じ込められたり、狼に騙されて凍てついた森の深い雪の中をさまよったり、たった一人で腹を空かせた大食い大蛇と戦わなければならなかったり。彼等の行く手には必ず手強い災難が待受けていたのだ。そしていつもと違う素晴らしき世界にやって来た僕の身にも、物語の主人公達に襲いかかった困難が降り掛かって来た。
くらりと目が回るような観た事もない華やかな光景。自然と身体が跳ねるような聞いた事もない軽やかな音楽。僕が未だ体験した事のない世界から放たれる情報のさざ波に洗われているうちに、手を繋いでいたはずの母親がいなくなったのだ。いつのまにか、僕の右手は何もない空間を掴んでいて、そこにいるべき母親の姿は消えていた。
慌てて周囲を見回す。僕の視線の高さに人の顔はない。すべてが大人の高さだ。見上げる。大人、大人、大人。見た事もない顔の大人達が大人のスピードで僕の上を通り過ぎて行く。
ある大人は僕に注意を払わずに危うくぶつかりそうになる。ある大人は怪訝そうな顔をして僕をじろりと見やり、ある大人は眉を寄せて周囲を見回し、それでも歩みを止める事はなくやがて僕の低い視界から消えて行く。見た事もない程の大勢の大人達が僕の周りに存在するのに、母親も、母親の友人も目の届く範囲に姿はなかった。
僕は違う世界に置いてけぼりにされたのだ。大勢の人間達がいるのに、僕が知る顔は一つもない。ここは完全に違う世界なんだと思い知らされた。
ひとりぼっちだ。
急に身体が萎んでしまう感じがした。僕の中から暖かさが染み出て流れてしまい、寒くもないのに脚がカタカタと震えて止まらなくなった。乾いた水たまりをいくら掘っても水が出ないように声がかすれて出ない。あれほど明るく楽し気だったショッピングモールががらりとどす黒く姿を変えて、小さな僕を飲み込んでしまおうと恐ろしく巨大な牙を剥いてきたのだ。
僕はどうしようもなくなった。絵本の主人公達とは違って素晴らしい考えが何も思い浮かばず、弱々しくぺたりと尻餅を付いてしまい、途方にくれて天井のライトを見つめていた。しかし僕は泣き出さなかった。大声で母親を探しもしなかった。ただ震える膝を抱えて、じっと世界の変化を待っていた。これから、僕はどうなるのか。湧き上がる負の感情もなく、僕にできる事はただひとりぼっちでいると言う孤独感を静かに受け入れる事だけだった。
すると、真っ黒い髪の毛が目の前にぱさりと垂れ下がって来た。
彼女だった。見間違える訳がない。冷たい霧に濡れたような長い黒髪にはっきりと見覚えがある。僕がまだ産まれて間も無い頃に出会ったあの女だ。
豊かな髪の毛を視線でなぞるように見上げ彼女と目を合わせる。そこにはニコリとも微笑んでいない整った顔があった。大きくて濃い黒色の瞳の中にぽかんと口を開けたままの僕がいた。
彼女は僕の視線の高さまで小さく小さく身を屈めて、相変わらずただ真っ直ぐ前を見据えたままの瞳で何も言わずに右手をそっと差し出した。細い指が柔らかくカーブを描いてきちんと並んでいる。僕はそうするのが当然であるかのように彼女の手をぎゅっと握りしめた。少しひやっとした冷たいてのひらが僕を日常の世界に連れ戻してくれた。
彼女の手に優しい力がこもりきゅっと握り返してくれる。彼女は無言のまま立ち上がり、どこかへ向かって僕の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。いつのまにか孤独感は消え失せていた。僕はただ彼女に連れられたまま歩いた。この知らない大人だらけの世界に、見覚えのある顔があっただけで僕の不安は吹き飛んでいた。もう膝は震えていない。彼女は従業員を捕まえて、警備員室を聞き出して迷子の報告をしてくれた。
ショッピングモールの裏側。あのきらびやかな世界とはまるで違う、少し薄暗くてダンボールが積み重ねてある押し入れのような通路を通り、遠くから聞こえて来る華やかな音楽に耳を傾けながら僕は彼女と警備員室で母親が迎えに来るのを待っていた。
何の不安もなかった。見覚えのある大人が僕の手を握ってくれているからだ。彼女は僕には見せなかった全然笑っていない作り笑顔を警備員や店の従業員にふりまき、胸ポケットからくしゃりと潰れたタバコの箱を取り出した。
「ここで一服してもかまわない?」
彼女の声は少し低く擦れていて、それでも堅い石を弾いた時の音のようなしっかりとした輪郭のともなった、とても優しい音色をしていた。
ジッポライターがかきんと金属的な透き通った音を響かせて、彼女はくわえタバコに火を付けた。彼女がゆっくりと吐き出したタバコの煙は、どこか遠い外国のチョコレートのような甘くほろ苦い香りが匂った。