最終話
「……間もなく離陸シーケンスに入ります。今一度、座席ベルトの確認をお願い致します」
耳に心地良い女性アナウンスが船内に染み込むように響き渡った。確か、この航空会社の船内アナウンスのAIアテンダントの声は、日系人が最も心地良いと判断する女性の声をサンプリングして流していたはず。確かに、耳元で囁かれたら眠ってしまいたくなりそうな声質だった。日本語に続いて英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ヒンズー語、中国語でアナウンスが流れる。
と、紅緒が自分の座席ベルトを外した。どうしたのか、見ると、僕達と同じ列のシートに座っていた老夫婦の奥さんが座席ベルトの調節にかなり手こずっているようだった。彼女は奥さんのベルトを手に取り、しっかりと身体を固定するようにゆっくりと締めた。
「お腹苦しくないですか?」
紅緒の作り笑顔に老夫婦は頭を下げて笑い返してくれた。
僕も紅緒も作り笑顔が相当にうまくなった。お互い向かい合い、あれこれ細かい目尻の角度まで指摘し合って完璧に人を和ませる笑顔作りにこだわって来たのだ。この老夫婦の心もがっちり捕らえたはずだ。
「きれいな日本語ですね。見たところ、ずいぶんとお若いけれども……」
奥さんは僕達を見て失礼のないようなあてはまる言葉を探しているようだった。僕は助け舟を出してやった。
「ええ、純粋な日本人ですよ」
奥さんは少しほっとしたように頬をほころばせ、旦那さんはそれを聞いて興味深気に会話に混ざり込んで来た。
「現在では純粋な民族と言うのも珍しいみたいですな」
「いまの世界、民族とかって区別は無意味なものですよ」
紅緒が旦那さんにも笑顔を作って見せた。そして左手を二人に向かって差し出した。
「コンノベニオと言います。長い船旅のお隣同士、よろしくお願いします」
僕達に割り振られたコンパートメントの隣はこの老夫婦だった。離着陸時やシートベルト着用サインが出ている時はコンパートメント区域ごとに指定されている座席に付くのがこの船のルールだ。
差し出した彼女の左手の薬指には真新しいシルバーのリングがきらりと光を放っていた。紅緒にプロポーズした時、どうしてもシルバーじゃなきゃ嫌だとせがまれて買ってあげた結婚指輪だ。握手の機会がある度に、なくても無理矢理きっかけを作り、彼女は左手を差し出してさりげなく指輪を見せびらかしていた。
「あら、キレイな指輪ね。ひょっとして、新婚さんかしら?」
紅緒の思惑通り、奥さんが乗って来た。まずは奥さんが紅緒と握手をして、次に旦那さんが身を乗り出して彼女の手を紳士的に握った。こういう展開になったら僕も乗りかからなければならない。二人と握手を交わし、会話を進めるとしよう。
「ええ。彼がわたしと一緒じゃなきゃ嫌だって言うので。名前が変わるのが最初は抵抗があったんですけど、名前の中に色が二色もあるので今では気に入っています」
「そうか? 最後は君の方が乗り気だったじゃないか。高所恐怖症で窓の外も覗けないくせにさ」
最近、紅緒に関して新しい発見があった。彼女は高所恐怖症だった。飛行機などで旅をした時や、軌道エレベータで高度一万メートルまで見学ツアーで昇った時も、窓の外を見ようとはしなかったのだ。
「いいの。発進すればもう関係ないわ」
「まったくだ。うちのも最初は怖くて船に乗りたくないとすら言ったもんだ。相対位置関係を把握するには、自分を基準にして考えろと何度教えても理解してもらえない」
旦那さんがうんうんと頷きながら、奥さんと紅緒に対して相対位置把握術を解説し始めた。紅緒はおもしろがって旦那さんの話を聞き、頷き過ぎて長い髪の毛がふわふわと漂いだしてしまった。
「ほら、紅緒。髪、髪。結ぶかバンドしろって言ったろ?」
軌道港で発進を待つ無重力の船内では、紅緒のトレードマークの長くて真っ黒な髪は特に目立っていた。ふわりふわりと宙を漂う漆黒の髪は周囲の注目を浴びるには十分過ぎるほど美しかった。
「私らは研究者枠で行くのだが、君達はひょっとして……」
旦那さんが僕の答えを待つように言葉を切った。確かに、僕と紅緒の外見から推測される年代で、この旅をするのはかなりの冒険心と覚悟が必要かも知れない。実際、今回の旅の総応募数は定員を下回ったそうだ。
「ええ、移住希望枠です」
僕の答えに紅緒が言葉を付け加える。
「移住希望者は結婚している夫婦である事って条件があったんですよ。だから、それを知った彼がいきなりプロポーズしてきたんです」
紅緒は髪の毛を押さえながら、少しだけ声色を低くして僕の真似をした。
「ボクと火星へ行こう。ベニオ、君と一緒だったら、どこへでも行ける気がする」
人類はついに火星にも街を作り始めた。僕と紅緒は、その第一次移住希望者枠に夫婦として応募し、見事に募集要項をクリアして火星へ渡る事が許されたのだ。
僕も紅緒もものすごい数のアルバイトをこなしてきた。取得している資格の数は履歴書には到底書ききれない程多岐に渡っている。僕は特に重機や特殊車両などの運転操縦資格、彼女は語学関連と料理関連のスキルが豊富だ。これだけの国際資格を有している若い人材はかなり貴重らしく、僕達の年代では異例の移住許可者のようだ。まだ生まれたばかりの火星の街でも仕事に困る事はないだろう。
「僕達は決めたんですよ」
僕の視界を塞いでいた紅緒の髪を束ねて太い三つ編みを編み込みながら、僕は胸を張って言った。
「どこまで行けるかわからないけど、行けるところまで行ってみようって」
再び船内アナウンスが流れた。
出港だ。地球と月のラグランジュポイントに建設された軌道港から、今の時期は七千万キロメートル向こうにある希望に満ちた赤い星へ。火星往還船の窓の外には懐かしき青い星が僕達を見送ってくれている。
僕と紅緒なら、行けるところまで行けるはずだ。どこまで行けるかわからないけど。