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紅緒はやってみたいと思う事は何でもやってみると言う性格だった。ふと思い立って先生をやりたくなって、大学に入り直して教育実習生として小学生時代の僕と再会したくらいに、有言実行な人間だった。
最近になって彼女がやりたいと言いだしたのは、人類の夢、月面開発だった。月面に人が常駐する基地が設置されて六年が経ち、本格的に月面都市設計計画が立ち上がり、そのための国際巨大企業体が設立され、広く一般からも月面開発担当社員を公募したのがきっかけだった。
こたつに向かい合わせて座る僕に、まるで小学生に月面開発計画の偉大さをとつとつと説くように熱く語る紅緒。ふと、教育実習の頃を思い出して苦笑いしてしまった。そしてその苦笑いが紅緒を怒らせてしまい、さらに彼女を本気にさせた。
でもだめだった。応募項目の一番最初、身長制限で引っ掛かった。平均的日本人身長より少し数値が低い彼女は、背が低すぎて世界が求める月面を開発する人材にはなれないらしい。
これには紅緒は怒った。ものすごく怒った。人間の価値は身長じゃないと怒った。どれくらい怒ったかと言うと暴飲暴食をしてぐっと太ったくらい怒った。でもどれだけ食べてもやっぱり今さら身長は伸びず、ついに諦めてダイエットに苦しむ毎日が続いた。
代わりに僕に宇宙開発のミッションスペシャリストになれと言って来た。
やんわりと辞退した。
僕は試験が嫌いじゃない。むしろ好きだ。自分の技術を磨いて試験を受けてクリアする。自分が成長していると実感できて好きだった。しかしミッションスペシャリストになりたいとは思わなかった。宇宙でのミッションスペシャリストは嫌なイメージがある。暗闇の宇宙空間にぽつんと一人で浮いているイメージが。ショッピングモールで迷子になった経験以来、どうやら僕は置いてけぼりにされる事に少し恐怖心を覚えるようだ。トラウマ、と言う奴だろうか。
世界的な規模での融合や買収が繰り返され、下手な中流国家の国民総生産や人口よりも総資産も社員数も大きな多国籍複合企業体が幾つも誕生し、実際にアフリカの小さな国ですら企業に買収された事が国連でも問題に挙げられた頃、大西洋の赤道上に巨大な人工島が建設されて軌道エレベーターの開発が着手された。
実は未だに月面への夢を諦めていなかった紅緒が観てみたいとしきりに言うから、僕達はその工事現場を観に行った。開発資金を少しでも稼ぐためになのか、軌道エレベータ開発工事見学ツアーなるものが観光会社の大人気ツアーになっていた。
その旅の途中、イングランドで紅緒が古い友達と偶然出くわした。
冗談か本気かはわからないが、本人はパンよりもケーキが好きなマリーと名乗った。紅緒とマリーとは過去に一度会った事があるらしく、一目見てお互いの変わらない姿を思い出したようだった。さらに共通の知り合いにサンジェルマン伯爵とか言うやたら偉そうな名前がでてきたが、当の伯爵はここ百年くらい行方がわからないらしい。
イングランドのパンクスタイルにはまっていると言うマリーは短い金髪を逆立てて、へそを丸出しにし、つぎはぎのレザーを着込んで奔放に生きていた。紅緒と僕の関係を知ると、ベニオに飽きたらあたしと遊ばない? と僕を誘惑してきた。
やんわりと辞退した。
マリーと遠い再会を約束して別れ、大西洋の真ん中を目指すフェリーの中で、僕は紅緒と小さなコンパートメントで一枚の毛布にくるまって星を眺めながら尋ねた。
紅緒をこんな身体にした人間は誰だったのか。僕以外にも血を分けた人間はいたのか。
一つ目の質問には答えてもらえなかった。紅緒にとってそれは決して歓迎された出来事ではなく、むしろ事故の犠牲と呼べるもので、忘れよう忘れようと強く思い込んでいるから思い出せない、と呟くような小声で言った。僕もそれ以上聞くのを止した。その代わりなのか、二つ目の質問は優しい口調で語る眠りにつく前の昔話のように聞かせてくれた。
彼女はこんな身体になってすぐに一人の女の子と知り合った。笑顔が可愛い子でものすごく彼女に懐き、その子の成長を見守るようにして側で暮らしていたらしい。その子が彼女と同年代になった時、その子の両親が事故で亡くなった。悲しみのあまり笑わなくなったその子に血を分けてやったと紅緒は擦れた声で言う。どこかに後悔を含んだ声だった。
しかしその子は、あまりの時間の膨大さ、時間の流れの速さ、周りの人間がどんどん老いて自分を残して死んでしまう孤独、それらに耐えきれず自殺してしまったらしい。
この身体は老いる事はないが、自己再生するよりも速いスピードで細胞を焼き尽くせば滅びる事はできるようだ。
笑わない僕や紅緒、パンクにはまっている破天荒なマリーのように、どこか壊れた人間でないとこの身体のもたらす重いしがらみに耐える事はできないのか。
眠りに落ちる前、紅緒は僕の耳元で囁いた。
お願いだから、わたしを見続けて欲しい。わたしも君を見続けるから。そうすれば生きて行ける。
永遠に。