強欲
私にとってお金は命と同じだ。お金がなければ死ねば良い。あればあるほど生きてる実感が湧く。無ければ死んだ方がマシだ。ない時の絶望、苦しみを知っているのなら尚更。
足を一歩踏み出す。
私を幸せに導く首輪はしっかりとフィットしている。
何度も同じ苦しみを、絶望を味わうのなら私はこの方法を選ぶだろう。
それを逃げと呼んでも構わない。私は私を理解してもらおうとは思わないからだ。
高鳴る鼓動を抑えて。
本能に逆らう為のあと一歩を踏みしめて。
「生き物」として逆らう。
それはとても馬鹿馬鹿しいかもしれないが、私にとっての唯一の救われる方法なのだ。
どこかで踏み間違えたというよりはそもそもの道を間違えたのだ。
私の欲望に従って踏んだアクセルはただひたすらに地獄への一方通行を最速で走り抜けた。ただそれだけ。
私の首輪は私を包む、少しずつ私の体を支えながら。
大丈夫。私の体重くらいなら耐えれるような首輪にしてきた。
その先が何も無いとしてもこの生きてる限り永遠に終わらない嫌悪と後悔を生きるのなら無こそが幸せだと私は思っている。
そして、一歩踏み出し全てを預けた。
私の人生を預けて。
私というものが出来るまでの話。
私は子供の頃は恵まれてたのかもしれない。甘やかされて育ったと今となってはそう思う。
両親に関しては金銭に恵まれていなかったが祖父母が恵まれていた。時代と運と仕事と。
私は長男ともありとても可愛がられたものだった。欲しいものは買ってもらい、お菓子や食べ物は与えられ。
それ故に両親と比較してしまうところがあった。私の思い通りにならないことがあり困らせていたと思う。今思うと親はとても必死になって働いてくれていた。それを私は俗に言う「良い歳」をしてやっと知った。
しかし、当時はそんなのわかるはずもなく欲しいものはなかなか買ってもらえない。思春期では友達とも話が合わなくなっていった。
そして、私にお金を稼げる年齢までなり私は例外なく学業をしながら働いた。学業が本業とは言い難いぐらい働くことに専念した。
その結果、いつもお金がないといっていた私の元にはお小遣いと呼ばれる物の6倍や8倍の金額が手元に入るようになった。
そうなると私といった人はどうなったなか。
抑制していた物欲が一気に噴出することになる。欲しいものは大抵手に入る。子供の頃は手が届かなく1年に1回の誕生日を待つしかなかった物が手に入った。しかも毎月のように。
私はそれで貯めることよりも散財することを先に覚えてしまったのである。
あればあるだけ使ってしまう。俗に言う歯止めが効かないという状態だろうか。
そんなこんなで学生時代は過ごすことになる。そして私の人生として地獄への一歩を踏み出す物に手を出すことになる。
そう。ギャンブルという物だ。
私自身、その頃から流行っていたソーシャルゲームのガチャシステムにはまっていたりそもそも努力もしないのに負けず嫌いであった。
そこから薄々感じてはいたのだがギャンブルという物にハマると手に負えなくなるという自覚があった。
しかし、短期の合宿による新たな交友が私への一歩を後押しした。あまりにも暇な時間と1人というブレーキ皆無な状況は私を誘惑に落とすには簡単すぎたのだ。
ギャンブルと言うものはとても良くできている。最初は勝てるように出来ているのだ。私が思う体験談込みの話では7割から8割の方々は勝てていたのでは無いだろうか。実際私がしていたギャンブルの期待値は70〜80%なので概ね正しいと言えるだろう。
そうして私もその時持っていたお金を3倍にして帰ってしまったのが運の尽きというべきだろうか。
今の私からいうのならあの日に私という存在は死んだと思っている。
その後は暇あればギャンブルという誘惑の遊園地に行くだけの日々だ。
それはこの今の私になるまで変わることはなかった。ダイエットと同じく辞めたら辞めた期間だけリバウンドが来る。それはどれだけ大切な人がいても変わらなかった。
私にとって欲望は本能よりも強くそして逆らえない物だった。
お金に執着し物欲に支配された私だからこそそれはとても染み付いて私の個性としてまとってしまった物だった。
あとはもう語る必要もないだろう。全てが落ちていくの時間は掛からない。
この世はお金を追い求めれば求めるほど離れていくと言うジンクスがある。それはお金を求めるあまり足元の投資や費用対効果を考えず噂、商材、著名人による広告などが魅力的な餌となって飛びついてしまうからだ。
私が思うに、美味しいものを食べたり誰かと過ごしたりそれこそゲームやアニメや動画を観ることを楽しみや幸せを感じるだけでお金よりも高い幸福感をしかも長期的に得られることができると思っている。
それは知るにはあまりにも遅すぎた。今この何も無くなってしまった私には後悔にしかならない。
後悔とは後ろを向いて悔しがる。と私は考えている。前だけ見ていれば後悔なんてすることはない。目の前の幸せを見続けて楽しめる人たちにとって大きく後ろの刺激や功績だけを見続けて時間を費やして感情を動かす人達とはとても残念に見える物だと私は思う。少なくとも私にとって自分の姿はとても滑稽である。
今の私をこの世に出すとするならこれを喜劇として晒したい。
こんな人になるのではない。こんな人を笑えるくらい幸せになってそんな人にならないで欲しいと。
豊かさは自分の努力で掴めるものである。それは勉強を促す大人の心理と同じものだと私は思う。
私はこうなった。
だからこそ、私を見て
最後まで笑ってくれ。