トラウマ
結論から言うと、俺とクレアは無傷であった。馬車に飛び込んできた兵士――暗殺犯、というべきなのだろうか――は、俺の首に剣先を突きつけたはいいが、血相を変えて飛び込んできたガルベスが彼を引きはがし、地面に組み伏せてしまったからだ。
この世界に来て以来、おそらく最も死を身近に感じた瞬間だったかもしれない。飲んだ息を吐き、落ち着こうとしたその刹那、今度は耳をつんざく爆音が周囲に轟いた。
組み伏せられた隠し持っていた爆弾をこちらに投げつけてきたのである。幸いにも狙いは逸れ、馬車から大きく外れた場所に落ちたためまたしても俺たちは無傷であったが、巻き込まれた何人かの兵士は血を流して倒れ伏していた。
見回した限りでは重傷を負っている兵士がいないのがせめてもの救いというべきか。
「この身を共和国のために!」
取り押さえたガルベスが爆発に気を取られた途端、暗殺犯は懐から取り出した短刀を自分の喉に突き立てた。ゴボリ、という鈍い音とともに、首から赤いものが吹き出す。
「見るな!」
俺はその瞬間、クレアを引き寄せて自らの体で包み込み、彼女の耳を塞いだ。程なくして暗殺犯の断末魔がその場に響く。
俺は吐きそうになるのを押さえながら、暗殺犯だったものに目を転じた。オストヴィターリ国境警備隊の制服を身にまとったその男は、まだ20代前半ほどの若者だった。その顔は憎悪と狂気に満ちているが、どこか納得しているようにも見えた。
「……公女殿下、大丈夫か――」
死体から目を戻し、クレアの方を向くと、彼女は俺の胸の中で、ひどく動揺したように目を見開きながら震えていた。無理もないのかもしれない。前世で多少死体を見た経験がある俺ですら、目の前で――それも鮮血をまき散らしながら――人間が死ぬところを見るのは初めてだ。
「……大公殿下、よろしいですか?」
「どうした、ガ――シルパス少佐」
「ここの処理は国境警備隊にお任せします。我々は急ぎメディオルムまで戻るべきだと考えます。襲撃犯の仲間が潜んでいないとも限りません、このまま国境付近に留まるのは危険かと」
「しかし……」
「残念ですが、ここは彼らに任せましょう。……公女殿下のご様子も心配ですし」
「……分かった」
負傷した兵士の呻き声が聞こえる中、俺はガルベスの進言を受け入れることを決断した。馬車は傷付いておらず、見たところチザーレから連れてきた従者や護衛兵も無事だ。暗殺犯が単独犯であるという確証はなく、むしろ――彼が最近になって報告された『ヴィターリ半島で広範に活動している反政府組織』に所属する人間だとしたら、仲間がまだ近くにいる可能性もある。
そんな状況でここに長居をするのは、隙を晒すことと同義といってもいいだろう。
未だ俺の傍で震えるクレアや、動揺する従者らを連れて、一行は急いでチザーレ領内へと向かった。
――――――――――
幸いなことにチザーレ領内に入ってからは襲撃に遭うようなことはなく、そのままメディオルムにたどり着くことが出来た。
兵士を先に遣っていたため、事件の概要についてはおおよそ伝わっていた。ボルジア伯は警備兵を処分すると息巻いていたし、ガルベスは自決までする勢いであったので、必死に両方とも宥めてやめさせた。
しかし帰還した日は上から下までの大騒ぎとなったのは言うまでもない。行政府内部の混乱だけに留まらず、どこからその情報を聞きつけた市民が宮殿に押し寄せて見舞い品だのなんだのを届けてに来るもんだから、業務全体が麻痺して大変なことになった。
更には事態を憂慮した内務府から俺宛に外出を控えるよう要請する文書が届き、すぐそこに控えた帝都での帝国駐留軍に関する会談においても俺の出席は取りやめとし、関係閣僚と補佐官のみ出席することになった。
そのことを見舞いにやってきたヘンネフェルト大使に伝えた際に彼の様子を伺ったが、その表情はいたって冷静だった。ヴィルヘルムによる陰謀ではないのかと少し訝しんだが、流石にそれを問い詰めることが出来るほど俺の肝は据わっていなかった。
「……果たして大丈夫なのだろうか」
帰還して数日後、俺は帝国に向かうレルテスら派遣団を見送った後、久々に書類が積み上がっていない執務室の机に向き合っていた。
主要閣僚と俺がほぼ一斉に国を離れることになるということで、うまいこと調整してこの期間に決裁が必要になるような仕事を殆どなくしていたため、俺は暇を持て余している。しかし、それはあくまで外面上の話。内心は、あることで頭がいっぱいだった。
帰還している最中も様子がおかしかったクレアだが、宮殿についた途端、ピンと張っていた糸が切れたかのように倒れてしまった。医学には一切知見がないが、無惨な姿になった遺体を見てしまい、そして僅かでもその断末魔を聞いてしまったという精神的なショックを受けたのだ。しかも、その後も同様に襲撃されるかもしれないという恐怖を長時間抱えた状態であったのだから、その精神的ストレスがどれほどのものであったかは想像に難くない。むしろ帰還するまで持ったこと自体が驚くべきだろう。
すぐさま侍医らによって運び込まれ、しばらくした後に回復し、俺も面会に向かったのだが――何といったらいいのだろうか、彼女の顔からは生気が失われているように感じた。当然この時代に発達した精神医学などというものはなく、彼女はいつぞやか軟禁されていた離宮でしばらくの間静養してもらう、という対症療法的な対処しかすることが出来なかった。
『大公殿下、失礼いたします』
「入ってくれ」
ドアの外からテレノの声が聞こえ、俺は入室を許可した。保安上の理由から俺は頻繁に宮殿を行き来できないため、彼女にクレアの様子を時々見てきてもらうようにお願いしている。尤も、その報告はあまり芳しくないであろうことは予想が付くのだが……
「……公女殿下は、何と」
「まだ気分は優れないご様子で、しばらくはお休みになりたいとのことです。ただ、侍医のラファエロ殿曰く食欲などは少しずつ回復しており、身体的な回復自体は順調だとのことです」
「そうか、それならいい」
精神に負った傷は時にとんでもなく深く、それこそ人生を左右しかねないほど尾を引くことすらある。一番いいのは身近な人間が根気強く接して、傷を癒すことだろうが、彼女の地位がそれを難しくしてしまっている。
俺もせっかく仕事がある程度減っているのだから、直接彼女に会いに行く方がいいのだろうか。そんなことを考えていると、テレノが言葉を続けた。
「それと、殿下に面会を求めるものが来ております」
「……誰だ?」
もう君主をやってきてしばらく経つので、そろそろ予想がつくようになってきたが、こういった時にやってくる来客は大抵碌なものではない。ヘンネフェルト大使か、もしくはレゲンスバーグ公爵領の人間か、はたまたオストヴィターリの弁務官か――
そんな予想を立てていた俺に対してテレノが告げた名前は――予想の斜め上を行く、しかしある意味では納得できる人物の名前であった。




