クレア・フォルニカ
クレア・フォルニカ。チザーレ公国を代々支配するフォルニカ大公家の当主ベランゼ・フォルニカの娘として生まれたチザーレ公女であり、彼の唯一の子供であった。
母はまだクレアが幼い頃に亡くなり、ベランゼにとって妻の忘れ形見となった彼女は、その美貌や明るい性格も相まって溺愛されて育った。また、大公を支えていた貴族たちも彼女を可愛がり、クレアは何不自由ない生活を過ごした。ベランゼはまだまだ現役であり、数十年後に起きるかもしれない継承問題を除けば、彼女を悩ませうる問題など何もなかった。
豊かな自然に恵まれたチザーレを詩に詠み、宮廷音楽家の指導を受けながら楽器を弾き、夜の眠れない時間にはふと書斎に赴き本を嗜む。首都の市民たちからも『ベランゼ公の愛娘』として愛された彼女はそのままいけば穏やかな時代を生きた、一人の賢き女性公族――としてチザーレ公国について記された書物に一筆書かれる人生を送っていたであろう。
しかし、歴史はそれを許さなかった。彼女が謳歌していた牧歌的な生活の裏で、公国では政治危機が刻一刻と迫っていた。貴族たちは幼いクレアにそれを悟られまいとしたし、父であるベランゼ大公ですら彼女の前でそういったことを語ることはついぞなかった。
そして――運命の時計は、その針を12時に合わせてしまった。ベランゼ以下大公家が全員死亡することになった惨劇の日、クレアは宰相らの勧めによって修道院の慰問に訪れており、難を逃れた。帰ってきた彼女は、自らの敬愛する一族が殺し合い、血の惨劇を生んだという事実に向き合わなければなかった。
若年ながら非常に聡明であると称えられていたクレアであったが、あまりにも惨い現実を前にして、彼女は耐えることが出来なかった。離宮に設けられていた自身の居室に引きこもり、毎日のように泣いた。いつしかその状況を利用しようと考えた宰相らによってそれは固定され、こうして今日大公付きメイドのテレノによって(半ば強引な手段で)解放されるまで彼女は軟禁状態にあった。
そして今、彼女の前に立つ人物は――ハンス・エリック・フォン・ロレンス=ウェアルス。この国の新しい大公にして、彼女の政敵だった人物である。
――――――――――
「……」
「……えっと」
建物の中に、男と女が一人ずつ。何も起こらないはずがなく――いや、何かが起こるどころか会話すら成立していないのだが。
「は、はい。何でしょうか」
「……」
ヤバい、会話のネタが出てこない。二人きりにさせたレルテスに帰ったら恨み節をぶつけてやろう。
「その、すまなかった」
「え?」
俺が必死で絞り出した謝罪の言葉に、クレアはキョトンとしたように反応した。
「えっと、まずは最初に無理やり押し掛けるような真似をしたこと。それと――こんなことに巻き込んだことに対して謝罪したい。申し訳なかった」
俺はそう言うと彼女の前で頭を下げた。完全に無関係ーーとまでは言えないが、何の罪もない彼女をクーデターに巻き込んだことは本当に謝らないといけない。それを見た彼女は慌てて手を振った。
「殿下、お顔をお上げください。そんな私に……」
「いや、これは俺の義理だ。本当にすまなかった」
「……大丈夫です。気になさらないでください」
クレアにそう言われ、俺は頭を上げた。
「ありがとう。それで……体調の方は大丈夫か?」
「はい……お陰様で」
どう考えても今までの様子を見れば大丈夫ではないのだが。
「……そうか。それで――公女殿下は宰相閣下を、その……支持していたわけなのか?」
「いえ……私としては――女の自分が公位を継ぐなんて、とんでもないことだと考えております。しかし、それを言い出す勇気には自分になくて……」
気まずっ!めちゃくちゃ気まずい!!というか詰問してるみたいで心が痛む。もうちょっと穏便な聞き方をすればよかったかな……。話題を変えよう話題を。
「あの、えっと……これが終わったら、私はどうなるのでしょうか……」
「え?」
想定外の質問がクレアの口から出た。俺は思わず聞き返してしまう。
「いえ、ですから……私は反乱軍の――言ってしまえば神輿として担ぎ上げられたわけですよね」
「……悪く言えば、確かにそうなるな」
「ですから、このまま処刑されてしまうのではないかと思いまして……」
「いやっえっ……えっ?」
小刻みに震える彼女の口からさらに衝撃の発言が出てきて、俺は困惑する。
「いや、そんなことはしないが……」
……いや、確かに王位継承者が他の王族を反乱の芽を摘むために皆殺しにするとかというのは割とよくあることなんだが。主にオスマンとかオスマンとかオスマンとか。
流石に俺もそんなことはしない、というかそんなことすればそれこそ俺が国民に物理的にクビにされちまう。
「そ、そうですか。安心しました」
明らかに安堵した表情を浮かべるクレア。いやだからと言って不安要素がなくなったわけではないんだけどな。いやしかし……そんなことすると思われてたのか俺……というかこんな美少女殺すやつの気が知れないね。
俺の思考を読んだかのように、クレアは言葉を続ける。
曰く、俺――というか公国政府に殺されると思っていたらしい。……俺ってそんな風に思われてるんですかね? クレアの言葉に内心落ち込んでいると、彼女は更に言葉を紡いだ。
曰く、自分はこれからどうすればよいか分からない、と。……俺もだよと言いたくなるを堪える。俺も自分の身の振り方について悩んでいたところだったのだ。俺の苦悩とは裏腹に、クレアの言葉は続く。
曰く、自分と婚約してほしい、と。ん?
「……はい?」
この子今何と言った?俺と婚約したいとか言わなかった?え、マジで? 俺の頭は混乱の極みにあった。そりゃそうだろ、だって今までまともに話したこともなかった相手――というか初対面の少女から急にプロポーズされたんだぞ?しかも可愛い女の子から。これが落ち着いていられるか?否、断じて否である。
というかそれ以前に――そもそもの話だ。何故、クレアがそのようなことを考えているのか。それが問題なのだ。
「えっと……公女殿下?」
「何でしょうか」
「……俺には理解しかねるのだが。もしかしなくてもこの国には初対面の挨拶としてプロポーズを――」
俺がそう言った瞬間、クレアの顔がかあっと赤く染まるのが見て取れる。
「あー……その反応は」
「……申し訳ありません。早とちりしてしまいました」
「いいよ謝らなくて。うん、分かった」
これはあれですね。多分強迫観念にとらわれてたパターンだ。
要するに、宰相たちが恐れていた様に俺が公国の乗っ取りの使命を帯びてやってきた→乗っ取りのためには現地の王族との結婚が不可欠→つまりクレア公女に白羽の矢が立つ→目的達成すれば俺は満足。というわけである。
「あー、公女殿下」
「はい……」
消え入りそうな声で返事をするクレア。というかいちいち殿下って敬称付けないといけないの煩わしすぎるな。
「とりあえず、この件については後回しにしましょう。今はもっと大事なことがあるはず」
出来れば永遠に後回しにしたい。
「分かりました……」
「では、少しばかり質問させてほしいんだが――公女殿下は、宰相閣下のことをどうお考えで?」
「宰相閣下のことですか?」
「ええ。率直な意見を聞かせてくださいませんか?」
「……正直な所、私は宰相のことをあまり知りません。私が物心ついた時には既に父上の後ろにいましたし、私自身、政治的なことにはほとんど興味がありませんでしたから……」
「そうか」
まぁそりゃそうか。まだ15歳?なんだもんなぁ。政治に興味を持つ方が異常である。
「しかし――」
「ん?」
「いえ、何でもありません……」
何かを言いかけてやめるクレア。気になるところではあるのだが……まあいいか。




