第03話 待て!
蓄積された尿意から解放された俺は、傍からみると物凄くいい表情をしている事だろう。
現在、おじ様はニコニコ笑顔で、茶髪は相変わらず「何だコイツ」と言い出しそうな表情をしていて、薄桃色の髪の少女は謎の納得顔だ。
トイレから戻ると、居間の様子が少し変わっていた。
イスとテーブルが部屋の隅に移動されており、中心にスペースが出来ていた。このスペースでこれから話し合いが行われるのだろう。
初対面の相手にジェスチャーで尿意をキッチリ伝えた俺に、不安は無い。そして失う物も無い。
そして話し合い? が始まろうとしていた。
始まろうとしているのだが、始め方がわからないのか俺の向かいに座っている三人は何かを話し合っている。
このままでは埒が明かないので、まずは俺がゆっくり手を上げる。三人の視線が集まったのを確認してから軽く自己紹介をする。
「まずは俺の自己紹介から。琴江田新、十七歳。高校三年生。家で寝てたはずなのに、なぜか見知らぬ土地にいたって感じかな。これからどうなるのかは不明。早くこの夢終われーって思ってる」
俺の自己紹介が終わってから少しの間、静寂が訪れた。
よく考えてみたら今のが自己紹介であったことすら理解されていない可能性が高い。
三人とも何かを考えているのか、真剣な表情だ。
膠着状態に終止符を打ったのはおじ様だった。
一つ頷くとおじ様は右手を上げ、自分を指差す。
「─────────────────────────────」
なるほど。
おそらく自己紹介なのだろう。何一つ分からない。
唯一分かった事は、先ほど俺の自己紹介を受けた三人も、今の俺と同じ気持ちになったであろうということだ。これは本格的にマズい状況なのかもしれない。
次に茶髪が渋々といった表情をしながら手を上げる。
「──────────────────────────」
なるほど。
この茶髪はチャゲという名前らしい。きっとそう言ったに違いない。そういうことにしておこう。
当然理解できない俺は、とりあえず首をかしげておく事にした。
チャゲは納得がいかないという表情をしているが、誰にもどうすることもできないので状況を受け入れてもらいたい。
そして最後に薄桃色の髪の少女が手を上げた。
「────────────────────────────────────────────────────────────────────」
なるほど。
他の二人よりも長めの自己紹介からは何故か熱意が感じられた。
薄桃色の髪の少女の名はアス……モモゲだと思う。多分そう言っていた。そうじゃなきゃマズイ。
モモゲから期待のこもった眼差しで見つめられているので、俺はとりあえず頷くことにした。
俺が頷いたのが悪かったのだろうか。
チャゲがアス……モモゲに向かって話しかけた。チャゲの表情は少し怒っているようにも見える。
「──────────────────────」
「───────────」
「──────────────────────────────────」
「────────────────────────────────────────────」
「────────────────────────」
「───────────」
見かねたおじ様が仲裁に入るようだ。
「───────────────────────────────」
少しの沈黙の後、モモゲが口を開く。
「───────────」
おじ様とチャゲは同時にため息をついたように見えた。
◆
どれくらいの時間が経っただろうか。
結局のところ、俺は話し合いに参加できないので、三人の話し合いを眺めているだけである。
当然ボーっと眺めているだけではなく、今後のことを考えながらである。
まず、どうやったらこの夢は終わるのか。
草原で感じた自然の匂い、地面を踏みしめた時の足の裏の痛み、そして襲ってきた尿意。
これら全ては夢とは思えない現実感を俺に与えてきた。
この状況は夢なのか、現実なのか。そして現実だとしたらここは何処なのか。
いくら考えても答えなど出るわけもない。
この状況に陥ってから結構経っている気がするが、恐らく数時間程度だろう。
一晩寝て起きたらこの夢から覚めている可能性もある。いずれにせよ俺の力ではどうにもならない。
そして最悪のパターンも考えねばならない。
この状況は夢ではなく現実であり、何かしらの力によりこの世界に迷い込んでしまったというパターンだ。
もしもここが違う世界であるとすれば、元の世界に帰る方法を探さなくてはならない。
この世界の、自己紹介すら満足に出来ない言語を操り、帰るために必要な条件も目的地もわからない状況で手掛かりを探す。
……あれ? 無理じゃね? 詰んでね?
マジでどうするの……? どうにかなるの?
思考が一度でもマイナスに傾いたら、頭の中はどんどん不安で埋め尽くされていく。
言葉ってどうやって覚えたっけ? そもそもこの世界の言葉を俺は発声できるのかな? そういえば文字もまだ目にしてないな。さすがに文字が存在しないって事はないと思いたい。文字が読めるようになったら図書館とか行って調べたら何かわかるか? そもそもこの村に図書館ってあるのかな? あったとしても帰還の手掛かりとかピンポイントで探せるのかな? 帰還の手掛かりってなんだろう? 竹取物語とか浦島太郎みたいな創作話しか無いような気がする。
考えがまとまらない。先のビジョンが全く見えてこない。
どれくらいの時間、思考の渦に飲み込まれていたのだろうか。
いつの間にか俯いていた俺は、気持ちを切り替えるために顔を上げる。
すると心配そうな表情をした三人が俺の目に映った。
話し合いは終わったのだろうか。
考えても仕方ないか。まずは今晩が勝負かな。
寝て起きたら元通りになってるのがベスト。むしろ変化なしだったら打つ手なしになる。
そう結論付けて改めて三人と向き合った。
そして俺を含めた四人全員が何とも言えない空気感を醸し出している中、グゥゥゥっという音が鳴った。
音の正体は俺の腹の音である。
おじ様とチャゲは一瞬身構えたが、俺が腹を触ったことで音の出所を察したのか警戒を解き、お互いに顔を見合わせる。
そして二人は同時にモモゲの方を見た。
モモゲは慌てた様子で左右をキョロキョロ見回し、そして何かを決意した表情で立ち上がり、俺の目の前に来てから背を向ける。
そのまま俺の目の前で座り、大きく息を吸ったのだろう。モモゲの肩が上がったと思ったら、自らの手で腰まである綺麗な薄桃色の髪を上げた。
フワッと香る甘い匂い。
露になるうなじ。
これから何が始まるのでしょう?
そして空いている方の手で、服の首元をほんの少しズラす。
露になる首筋。
白かった首筋が徐々に赤みを帯びてくる。
チラっと見えた耳も真っ赤に染まっており、相当恥ずかしいのだろう。
これから一体何が起こるのですか?
俺が固まっていると、モモゲはゆっくりと首を動かし、振り向いてきた。
モモゲは顔も当然真っ赤で、若干涙目。
その仕草と表情は俺の心に生きる活力をもたらしてくれた。
俺の心臓の高鳴りに応呼するように、身体が震えていると錯覚するほどドキドキしている。もう色々と反則である。
なるほど。
俺が今日習得した状況理解力によると
「お腹がすいたのね? それなら私をお召し上がりください。お口に合うといいのですが……」
と、モモゲは言っている。間違いない。間違いようがない。
いや、言ってはいないな。ボディーランゲージで伝えようとしてくれている。
せっかく用意してくださったのです。
頂きましょう。
それがマナーでしょう。
俺が手を伸ばそうと少し動いた瞬間、俺の両手はいつの間にか後ろに回っていた。