ジャージデビルの乳搾り
僕達が逃げ帰った村こそが、ネイスの暮らすネッスィー村だ。
「あ、お姉ちゃんとユーマだあ。おかえりなさい」
はあはあと肩で息をする僕達を迎えてくれたのは、ネイスの妹のネイサンだ。妹なのにネイサンなのだ。
「ただいまー、ネス。いい子にしてた?」
呼吸を整えたネイスは、妹を愛称呼びしながら笑顔を見せる。歳の離れた妹が可愛くて仕方ないのだろう。そして今更ながら大学生の僕は十九歳で、二つ下のネイスが十七歳。そして妹のネスが十歳になる。
「うん、してたしてたー」
と、人懐こく寄ってくるネスは、はた目に見ていてもほほえましい。姉妹だけあって外見的特徴も似ているが、ネスの方は長くて白い髪の毛が少しばかり巻き毛気味だ。
僕は僕でやっとこさ呼吸を整えると、さっと辺りを見回した。
牧歌的で、いつ見てもいい村だ。耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえるし、虹色に光る実をつけた背の高い木がそこかしこに生えている。
今もなお地球のヨーロッパの方で見られるようなレトロな形の民家が立ち並び、牛や豚の代わりのような生き物――1メートルほどの毛むくじゃらなトカゲやコウモリのような羽を生やした馬――が放牧される小さな村だ。
一年間、アースターの幾つかの村や町を観光した限りでは、地球でたとえるなら1700年代前後、という印象を抱いたものだ。もちろんそれは便宜上のものなので、実際にはたとえようのない独自の文明を築き上げている、と言うのが正しいのだと思う。
それにあくまでも僕が見てきた場所に限る。地球において各国間の特色や文化がまるで異なるのと同じように、アースターでもまた場所を変えればまるで違う文化が築かれていると言うのだから。
☆異世界に来て分かったこと2
モンスターがいると言っても、境界と言うか生態上の住み分けはできているらしく、それは地球において、当たり前のように山から熊や野犬が下りてきてしょっちゅう町を襲撃しないのと同じようなものらしい。それでも稀に凶暴なモンスターの被害に見舞われることはあるようだ。そのための魔法訓練があり、モンスターの生態を知るための勉強、ひいてはその他様々な種類の勉強をおこなう場があるらしいので、異世界と言っても親しみがあって打ち解けるのは早かった。先にネイスも言っていたが、やっぱり同じ人間である以上、考え方はさほど大きくは変わらないのだろう。
「もうお腹がペコだよ」
ネスは、お腹に両手を当ててぼやいた。
「ごめんごめん、今からお昼ごはんの用意するからね」
ネイスが母親のような笑みを浮かべて妹の頭を撫でる。
二人の両親は既に他界している。だから祖父と妹と三人暮らしをしている内に、ネイスはいつしかそのような役回りになっていたそうだ。
「やったあ」
「確かミルクがもう切れかかっていたはずだから、絞っておいてくれる?」
「了解であります」
ネスは元気に返事をすると、放牧されている、コウモリのような羽を生やした馬の元へ駆け寄っていく。
なにを隠そう、あれこそがジャージデビルである。地球においてアメリカ合衆国が誕生した前後ほどの年代から、ニュージャージ州近辺にて目撃報告が相次いだと言われる未確認生物だ。一方アースターでは、乳搾りによってとれるミルクの味は濃厚で、地球で言うところの牛のような役割を果たしている温厚な生き物だ。
彼女達の祖父は、少し離れた町へあれやこれやと何かをしに出掛けていて留守だったので、僕とネイスとネスの三人で食卓を囲うことになった。
はっきり言ってネイスの料理はゼッピンだ。いったい何が食材となっているのか未だに判然としない部分もあるものの、それでも舌鼓を打たずにはいられない味なのだ。
そしてそれは突然のことだった。
正確には、僕達が食後の緩いひと時を過ごしていた時だ。
ドスン!
と、とてつもなく巨大な振動が家を震わせた。次いで、放牧していた生き物達の騒ぎ立てる声が響き渡る。その中には人の声も混ざっていた。
「地震?」
僕は咄嗟に窓の外を見た。
揺れは一瞬でおさまった。それなのに、表から聞こえる人畜一体の声は鳴り止まない。それどころか次第に大きく、やがて叫び声のように辺りにこだましていった。
何事かと外に飛び出そうとする僕の袖口を、ネイスはつかんで止める。
「駄目……」
その顔は青ざめ、体は小刻みに震えていた。
「どうしたんだい? ひょっとして今の揺れの理由を知っているとか?」
「駄目……外に出たら駄目だよ……」
「でも」
「本当に、お願い……」
瞳を潤ませて懇願するネイスの様子は尋常のものとも思えない。
いったい何が彼女をそうさせるのだろう。
その時だ。再び激しい振動が起こる。
今度はさっきよりも近い。それは徐々にこちらに近づいているようにさえ思えた。
「ネイス、ネス! 早く逃げろ!」
家の外から村人の叫ぶ声がした。
ネイスはともかく、ネスの慄きようはもはや自力で歩けるようには見えない。
理由は分からない。だから僕は、ネスを胸の前に抱きかかえると、ネイスを鼓舞して家を出るように促した。
外に出て、僕は絶句した。
冷や汗が背筋を伝う。それは間違いなく、生まれて初めて心の底から恐怖した瞬間に違いない。
「でかい……」
目の前――それはきっと、まだ余裕のあるくらい遠くにいたはずなのに近くに見えるほど巨大にして異様だった。
蛇だ。高さだけでも優に三十メートルはありそうな超特大サイズの蛇だ。
どうして長さでなく高さなのか? それは蛇のはずなのに、毛の生えた首は八俣に裂け、ひとつの胴体を共有して直立しているように見えたからだ。
ひとつひとつの顔は特徴に微妙な差異があり、それでいて鋭利な刃物のような牙だけは共通している。顔の中には火を噴く寸前のように口元を発光させているものまであった。
「ツチノコだ!」
村の中の誰かが叫んだ。
と、同時に蛇の顔のひとつが燃え盛る火炎をはく。
遠くに見える民家が軒並み、瞬時にして蒸発した。残ったのは、くすぶるように焼け焦げる無残な跡だけだ。