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山崎さん



 大丈夫?

 見学組の女子の一人が激しく咳き込むもんだから、私は知らないその子に声をかけた。

 人見知りの私にとって、たかが心配の言葉をかけることすら珍しいことだ。でもすぐ治まるだろうと思ったその子の咳きは一つ二つ三つ重ねても治まらず、それどころか段々と大きく激しくなっていくもんだから、その子の存在は私の人見知りの程度を軽々追い越してしまったわけ。

 だから。

 ついつい声をかけてしまった。

 まあその子の隣に居合わせたのが私だけってのもあるんだけど。

 体育館は広いのに、そして体育の見学組は合わせて五、六人いるのに、なんでその子の隣には私しかいないんだろう。なんで私はその子の隣に座ったのだろう。

 まあどうでもいいことなんだろうけど。

「……ごめんなさい。大丈夫です」

 掠れた声で、その子はありがとうとも言った。まあ礼を言われるほどのこともしていないのだが。というか声をかけただけだ。そんなことで体調が改善するはずはないし、それに私は心の底から心配しているわけじゃない。

 一番近くにいたから。

 体育館中に響くほど咳き込んでいる人間のすぐ隣にいて、無視できるわけないじゃないか。非常識な人間だって思われる。そう思われたくないから、声をかけたんだ。

 大丈夫?

 てね。

 そうすることで、そんな社交辞令一つで、私は『優しい人』になれるんだ。

 だから礼を言われる筋合いは、本来なら全くない。

 でも、ま。向こうだって所詮社交辞令でしかないわけだし、結局どうでもいいことか。

「風邪?」

 そのままそれだけのやり取りで終わるのも気が引けて、私はまたも社交辞令に背かない『正しい質問』なんかを投げかけた。

「……いえ風邪ではないです。すみません」

 すみません、の意味が一瞬わからなかった。多分、病名を言えないことに対する謝罪なんだろう。私はただ黙った。なにを言って良いのかわからない。

「あのすみません、貴女は一組の方ですか?」

「……そうだけど」

 そうですか。返って来たのはそれだけだった。だからなんだ。そのあとを言いなさいよ。

「……一組の山崎」

 てな者ですけど。なんてね。

「山崎――さん」

 不思議な名前だっただろうか。その子はなんだか腑に落ちない、という顔をした。

 痩せてる。血色も悪い。だけど、不幸そうには見えなかった。円らな瞳に憂いや陰りの色はない。むしろ『これからの幸福』なんてものを見据えたような、希望に充ちた、そして確りとした意思を宿している。――ように見える。

「わたしは――」

 笹野、と名乗った。

 二組の子らしい。そういえば、今日の体育は二組との合同だった。

「体、弱いの?」

 我ながら、無神経な質問だったと思う。だけどよくよく思い出してみれば、この笹野という子はいつも体育を見学しているはずなのだ。二組との合同体育で、笹野は多分一度たりとも参加していない。じゃあいつも体育館の隅っこにいたかといえば、まあ曖昧なのだけれど、それでも参加はしていないはずだ。参加していればわかる。わかるものだ。そういうのは。

 だから笹野はきっと、病弱なんだろう。そう思った。思ったから聞いた。ついつい、である。

 笹野は私の質問に一瞬表情を曇らせたが、無視することもはぐらかすこともなくきちんと答えてくれた。

「……小さい頃からこんな調子で、ほんのちょっと動いただけで咳きが止まらなくなるんです。本当に、情けないですよね」

「情けないとか、そういうことは関係ないでしょ。気合いや生き方でなんとかなるもんじゃないよ。病気ってね」

 病は気からとはいうけれど、実のところ気合いでなんとかなるのは病気のごくごく一部、本当に表面的なところまでだ。なんとかならないから病院があるわけだし。

「そうですね。でもやっぱり情けないと思います。わたしはみんなに迷惑ばかりかけているから」

 そこで笹野は表情を消した。表情を消した顔は、バスケットボールが行われている場所に、青々しい喧騒の中に、向けられている。

「あんた、もしかして周りからきついこと言われてるの?」

「……仕方のないことです。わたしが情けないから」

 肯定ということか。だけど、それがイコール『いじめ』という行為であるかどうかまではわからない。

 なのに、私はなぜか『いじめ』だと断定してしまった。

 笹野を、笹野を『いじめている』人間は――誰だ。

 一組の人間がボールを追う。二組の人間が逃げる。飛び交う喧騒と、ざわざわとした予感。

 なんだか。厭な感じだ。

 私は笹野の視線をただひたすらに、辿った。

 誰を見ているのだろう。全員か? あの場にいる全員――。

 いや違う。笹野は一人だけを見ている。

 あれは――。

 ――村内?

 笹野は確かに『村内まりか』を、見ている。

 だけど、村内がいじめなんかするだろうか。村内は誠実な人間だ。真面目で、気遣いのできる『優しい人』――だ。

 いや、そんなこと、私にわかるわけない。人の本性なんてわかるわけないじゃないか。私なんかに、社交辞令で『優しい人』ぶる私なんかに、わかるわけない。

「優しい人、ですよ」

 びくり、と体が痙攣した。いつの間にか笹野が私を見ている。

「優しい人なんです、山崎さんは」

 掠れた声が耳の奥で響く。くすぐるような、傷をつけるような、柔らかく、硬い『なにか』が、耳の奥底で流動している、

「さ、笹野に酷いことしているのは――む、村――」

 途端に笹野が咳き込む。


 一つ二つ三つ。

 重ねても治まらず。

 四つ五つ六つ。

 段々大きく激しくなって。

 七つ八つ九つ。

 体育館中に響くその音が。

 私はどうにも気になって。

 ――十。

 非常識な人間だと思われたくないから。

 血を吐きながら倒れこむ、その子の隣に座る私は。

 

 大丈夫?


 ついつい『優しい人』になってしまった。



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