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ふたりの異邦人…Ⅲ

 そんな慧を、敏感に察知したのだろう。黎貴は、ますます身を縮こめた。

「……慧、怖い……」

 ブチッと、慧の中の何かが切れる音がした。

 前言撤回。

 こんだけ人見知りで、臆病で、女々しいヤツ、手間がかからない訳がない!

「誰が怒らせてると思ってんの! 臆病で女々しい男なんか、大ッ嫌い!」

 ビクッと黎貴は、怯えて体を竦めた。その黎貴の様子に、慧は、更にイライラが募る。

 不意に、チラッと途轍もなく落ち込んでいる脩一を横目で見た黎貴に、慧はピンと来て、目を据わらせた。

「…今、やっぱり脩一が良かったなって思ったでしょ…?」

 黎貴は、ぎくりと背を波立たせた。

 図星だったらしい。

 不穏な慧と黎貴に、総一と龍嫗はハラハラして見守っている。

「自分で断っといて、今更『やっぱり良かった』なんて、脩一に失礼だと思わないの!? 私は、強制しなかったでしょ。自分で選んだんだから、後で変えないの!」

「………」

 その言葉を聞いて、黎貴は、非が有ると悟ったのだろう。しょんぼりと項垂れた。

 そんな遣り取りを見ていた総一と龍嫗は、顔を見合わせた。

 この様子なら、大丈夫だろう。

 慧は、黎貴がしょぼくれているのに気付いて、ふぅ、と息を吐いた。

「私だって、怒りたくて怒ってんじゃないわよ。あんたのためを思って怒ってるのよ」

「……私のため…?」

 黎貴は、恐る恐る訊く。慧は大きくうなずく。

 この小さくて人見知りで、手かかかるであろう雛にはこれから苦労しそうだが、黎貴が自分を選び、自分もそれを受け入れたのだから、彼のために頑張ろうと思う。

 慧は、そう覚悟を決めたのだ。

「勿論。私は、あんたの神仙なんだもん。どんな場所でも、胸張って生きて欲しいの。臆病者にも、卑怯者にもしたくない。私は、いつだって、あんたのためを思ってるんだからね」

「……そう、か……」

 黎貴は、龍嫗の背でなぜか小さく笑ったようだった。

 慧は、少し疲れたように再度言った。

「さ、黎貴。いい加減龍嫗から離れて。いつまでもしがみ付いてちゃ、龍嫗が迷惑よ」

「………」

 黎貴は、少しためらう素振りを見せたが、おずおずと龍嫗の背から手を離し、慧の前へと出てきた。

 龍嫗は、眼を見開く。

 まさか、こんなに素直になるとは予想していなかった慧も、瞬間、目を見開いたが、すぐに微笑んだ。

「良く出来ました」

 まずは、この臆病な雛の第一歩だ。

 自分で、自分の力で、前に出てくる事。

 慧は、サッと黎貴の手を掴んだ。驚いて反射的に引っ込めようとする黎貴の手を、ますます強く握り締める。

「さぁて、家に帰りましょ。今日は、母さんがご馳走たくさんで待っててくれてるハズよ。じゃ、龍嫗、伯父さんお邪魔しました。タッキー、また明日」

 (きびす)を返すと、途端に自分が空腹な事に気付いた。慧は、黎貴ににこりと笑いかける。

「これから、よろしくね」

 黎貴は、まだまだ固い表情で、コクリと肯いた。

 瀧沢家を後にする。慧の家は、瀧沢家からさほど離れている訳ではなかった。歩いて十分もあれば余裕で着いてしまう。

 しかし、どこに連れて行かれるのかいまいち把握していない黎貴は、不安で落ち着かなく周囲をきょろきょろと見回していた。

 初めて見る外の景色と言うのもあるからかも知れない。

 意を決して、ボソッと訊こうとする。

「……あの…、どこ、に…?」

 慧は、ギロリと一瞥をくれる。

 早速、教育的指導をする事となりそうだ。

「何か言いたい事がある時は、ハキハキ喋ること! 聞きにくいでしょ」

「………」

 コクリ、と黎貴はうなずくが、慧は厳しかった。

「返事は!?」

「……はい…」

 慧の今の言葉の効果からか、黎貴は少しだけ大きな声で返事をした。それでも、まだまだ小さな声ではあったが。

 しかし、素直に言う事を聞いてくれると言う事は、それだけ自分を信用してくれているのだ。

 そう思うと、慧は少しだけ嬉しくなる。

 ふと、気付いた。

 黎貴の手が、緊張と不安のあまりに震えている。それが、繋いだ手から伝わってきて、慧は表情を和らげた。

 流石に、不安になるのも無理はなかったか。

「これから、私のウチに帰るのよ」

「…慧の、家……?」

「そう。あんたの家にもなるんだからね」

「…私の、家に……」

 分かっているだろうに、不思議そうに言う黎貴が可笑しくて、慧は笑った。笑うと、愛敬がこぼれて可愛らしい。

「もう。一緒に暮らすってのはそう言う事でしょうが。先に父さんが帰ってるはずだから、あんたの部屋も用意してくれてるんじゃないかな」

 気兼ねせずに暮らしてよね。

 慧はそう言って、ピタリと足を止めた。

 閑静な住宅街の中にある小さな家。大きな邸宅が並んでいるその中での大きさは不釣合いだったが、普通の住宅と呼ぶには良い家だ。

 綾次が外務省に勤める高級官僚だからだろう。

「ここが私ん()よ」

 慧は、笑って玄関の戸を開ける。

 そして、中に入るなり慧の顔が甘く蕩けた。

「やだ、ムーン! ただいま。出迎えに来てくれたのぉ」

 慧の変貌に黎貴が驚いていると、慧は「ムーン」を抱き上げた。白い体に頬をすり寄せて、慧は黎貴に向き直った。

「黎貴、早速家族を紹介するわね。ムーンよ。お月さまみたいに綺麗でしょ」

 それは、白い雄猫だった。

 ごろごろと喉を鳴らして慧に甘えているが、慧が紹介してくれたのに気付いたのか、一瞬だけチラリと黎貴を返り見た。

 ふん。

 ムーンが鼻で嗤ったような気がして、黎貴は少しだけムッとした。

 いや、気のせいではないだろう。

 黎貴は、曲りなりにも神「獣」なので、動物の声くらいは聞き取れる。しかし、今は聞き取りたくなかった。

 黎貴の事は、恐らくムーンも神獣であるとわかってはいるだろう。

 そして、同時に黎貴がヘタレである事も、慧に完璧に懐いてしまっていると言う事まで。

 動物は聡い。一目で黎貴が敬うに足る者ではないと看破してしまったのだ。

 じとっとムーンを睨みつける黎貴に、何を勘違いしたのか、慧はムーンの胴を持って黎貴へと差し出した。

「猫が珍しい? 抱いても良いわよ」

「えっ……」

 そんなつもりで見ていた訳では毛頭ないのに、なぜか反論出来ずに、黎貴はもごもごと何か口の中で呟くと、そろそろと手を差し伸べた。

 ムーンに触れようとした、その時――。

 バリッ。

「――――ッ!」

 突然、ムーンが威嚇したかと思うと、黎貴に爪を立てた。

「ムーン!」

 慧が驚愕して叫ぶ。

 ムーンは、身を捩って床にフワリと着地すると、黎貴を一瞥して部屋を出て行った。

 俺様に触るな。

 チラリと見た時に、ムーンがそう言ったような気がして、黎貴は唖然とするしかなかった。

 これまで、ここまで神獣を敬わなかった動物がいただろうか。

 一方、慧は慌てて黎貴の手を取る。

「ちょっと、大丈夫!? やだ! 血が出てるじゃない!」

「血……!?」

 そう言われて、ギョッと指を見つめると、人差し指に斜めに蚯蚓(みみず)()れが走っている。

 それに、薄っすらと紅いものが滲んでいるのが見えて、驚愕のあまりそれまで全く感じていなかった痛みが襲ってきた。

 傷の痛みを実感すると、怖くて痛くて泣きたくなる。

「…痛い……!」

「もう、こんなの大した傷じゃないわ。泣かないの。…手当てしてあげるから、居間に行きましょ」

 そう言って、玄関で靴を脱ぎ始める慧に、声がかけられる。

「やぁ、慧。お帰り。…そっちは雛だね? ようこそ、倉橋家へ」

 玄関での騒ぎを聞きつけて、綾次が出迎えに来た。

 初めて見る人間に、黎貴は人見知りをして慧の後ろに隠れてしまう。慧の背から、綾次をチラリと窺う。

 綾次は、黎貴のそんな行動に少し面食らったようだった。

 神獣にも色々な性格の者がいるのは勿論わかっている。しかし、「神」獣なのだから、大抵は怖いものなどないと言う顔をして地上に降りてくる。

 人間を恐れなどしないから、人懐っこい神獣も多い。

 まさか、人見知りをすると言う事は起きないのが常なのだ。

「…えっと…?」

 戸惑った綾次を見て、慧はまたピクリと眉を吊り上げる。しかし、まずは黎貴の傷の手当の方が先だ。

 黎貴に靴を脱いで上がるように言い、綾次に向き直る。

「ただいま、父さん。紹介は後で母さんと一緒にさせるわ。…黎貴がムーンに引っ掻かれちゃって…。救急箱ってどこにあったっけ?」

「えっ!? 怪我をしてるのかい!? そりゃあ大変だ」

 綾次は、慌てて奥へと引っ込んだ。救急箱を取りに行ってくれるのだろう。

 その間に、慧は黎貴を玄関から真っ直ぐに伸びている廊下の突き当たりにある居間へと連れて行く。

 居間のソファには、我が物顔で寝そべっているムーンがいた。体勢がふてぶてしい。

 今度ばかりは、慧も叱らざるを得なかった。

「ムーン。そこをどきなさい。もう、黎貴になんて事するのよ」

 残念ながら、随分と甘い説教になってはいるが。

 ムーンは、心外だとでも言いたげな顔をして、渋々ソファから降り、自身の第二の定位置、テレビの上へとひらりと身軽に飛び乗る。

「ホラ、黎貴。座って傷見せて」

 ソファに座った黎貴は、恐る恐る慧に傷を見せる。蚯蚓腫れは痛々しいが、それほどひどいものではないし、血はもう止まってかさぶたも出来始めている。

 これなら、手当ての必要もないかもしれない。

「…痛い…」

「めそめそしないの。男でしょ」

「慧。救急箱だよ。…傷は大した事はないのかい?」

 救急箱を取りに行った綾次が、箱を持って入ってくる。

 黎貴は、逃げたそうに腰を浮かせたが、慧に手を掴まれている上に、じいっと見つめられていて動けずに、綾次の接近を許すしかなかった。

「うん。消毒して絆創膏貼れば大丈夫」

 慧は、救急箱を受け取ると、テキパキと消毒液を出して、液を浸した綿を黎貴の傷へと押し当てた。

 消毒液が傷に染みるのはどんな生き物でも等しく同じなので、黎貴も当然ビクッと手を引っ込めて泣きそうになった。

「…痛い…!」

「あっ、いやっ、慧! もう少し優しく手当てしてやりなさいっ」

 見ている綾次がおろおろと言うのに、慧はきっぱりと返す。

「これくらい、大した事ないわ。…父さんも、あんまり甘やかさないで」

「…慧。初日からそんなに厳しい事を言わなくても…」

 意外に教育熱心な愛娘に、感心を通り越していっそ呆れてしまう父である。

 神仙の「先輩」としては頼もしい限りだが。

 ぺたりと絆創膏を貼ってやり、慧は初めてにっこりと笑った。

「はい、これで良し。しばらくは剥がしちゃダメよ」

「…分かった…」

 黎貴は、絆創膏を物珍しそうに見つめてから、コクリと素直にうなずく。

 そんな様子を見て、綾次は目を見開いた後に苦笑する。

 我が子ながら、飴と笞の使い方が(うま)すぎる。

「――さて、じゃあ夕食にしよう。ハルちゃんが、張り切って用意してくれているよ」

 綾次は、先頭に立って台所へと向かう。後に続くのは慧、黎貴。最後尾はムーンだ。

 食卓の上には、溢れんばかりの料理が乗っていた。

 いそいそと料理の皿を置いているのは、ピンクのフリフリエプロン姿の深陽だ。

 不惑の年になろうと言うのに、なぜか似合ってしまうそのエプロンが憎い。

 三人に気付いて、深陽はにこにこしながら近寄ってくる。

「お夕飯の用意、出来てるわよ。――あら! まぁまぁまぁ」

 ふと、黎貴に気付いた深陽が妙な声を上げて顔を近付いてきた。黎貴は、突然の事にびっくりして、慌てて体を引く。

「慧! この子が龍の雛ちゃんね!? ようこそ、倉橋家へ!」

「………」

 黎貴は、やはりと言うか、予想通りに無言だった。

 ピクリとこめかみをヒクつかせた慧は、何も言わずに黎貴を肘で小突く。

 黎貴は、強くはなかったものの肘鉄にビクッとして、慌てて、しかしおずおずと口を開けた。

「……は、初め、まして…。れい、黎貴、だ……」

 どもりながらの小さな声での挨拶だったが、それでもしてくれた事に満足して、慧はうなずく。

 綾次と深陽は、顔を見合わせるとにっこりと微笑んだ。

「初めまして。私は慧の父の綾次」

「私は慧のお母さんの深陽よ。ハルちゃんって呼んでね♪」

「……わ、かった…」

 黎貴は、目を白黒させながら深陽の迫力に圧されて返事をする。

 慧は、母にうんざりして大きな息を吐く。この母は、もう良い年なのに、いつまでも小娘のようだ。

 挨拶を交わした事で、少しだけ黎貴の中の緊張と人見知りは薄れたようだった。

 まだまだ自分から近付くには至らないが、少なくとも、慧に背を押されなくても向き合える覚悟はついたらしい。

「……慧…」

 黎貴が、不意にポツリと呟く。

 なに、と倉橋家の人間が全員黎貴の口元に注目した。黎貴は、その事に少し怯えながらも言う。

「…甘い、匂いが……」

「甘い匂い?」

 慧が、聞き返す。くんくんと空気を嗅いでみると、確かにバニラの甘い匂いがする。

 その瞬間、深陽がオーブンへと走った。

「いけない! スポンジケーキ焼いてたんだったわ!」

 お菓子作りが趣味の深陽は、黎貴の歓迎のために、料理もさる事ながらケーキも一緒に焼いていたらしい。

「…ケーキ…」

 不思議そうに呟く黎貴に、慧はあれと聞き返した。

「黎貴、ケーキ食べた事ないの?」

 コクリと黎貴はうなずく。横から、訳知り顔の綾次が説明する。

「雛が地上に降りるまで暮らす天界は、古代中国神話の世界だからねぇ。知識にはあっても見た事もないものなんてたくさんあるんだよ」

「へぇ~」

 慧は納得する。

 ケーキは西洋から入ってきた食文化だ。見た事も食べた事もなくて当然だ。

 瀧沢家の龍嫗はケーキなんて食べなさそうだし。

「ケーキはすごーく美味しいわよ。あの甘い生クリームが堪らないったら…」

 慧の言葉に、黎貴が生唾を呑みこんだのが分かった。慧は、綾次と顔を見合わせて笑う。

「まぁ、とりあえずケーキは夕食が終わってからだよ。…ハルちゃん、大丈夫かい?」

「えぇ、後はデコレーションするだけ」

 深陽が、焼き上げたスポンジケーキをオーブンから出して、台所へと再び入ってくる。

 慧と黎貴が席に着くと、綾次がグラスにオレンジジュースを注いで回る。

 全員が席に着き、綾次はグラスを掲げる。

「では…。倉橋家の新しい家族、黎貴君に乾杯!」

「乾杯!」

 黎貴は、その言葉に小さく目を見開いたものの、微かに笑って同じくグラスを掲げたのだった。


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