伝説と真実…Ⅰ
ようやく、黎貴のトラウマの真相が明かされます。そして、久々のアヤヤの登場!!
「黎貴ちゃん? おつかいに行ってくれない?」
深陽が、居間でじいっと身動きすらもせずにテレビを見ている黎貴に声をかけた。
「………」
反応なし。深陽は、聞こえていなかったのかと少し声を張り上げてみる。
「ねーえ、黎貴ちゃん?」
「……嫌だ」
ぽつりとした返答があった。深陽は軽く目を見張る。どうやら、聞こえていなかったのではなくて、答える気がなかったらしい。
しかし、おとなしい黎貴がきっぱりとした拒絶をするのも珍しい。深陽は何とか行ってもらおうとなだめてみる。
「大したものじゃないのよ? 卵が切れたから、買ってきて欲しいだけなの。私は手が離せないし。お釣りで好きなものを買ってきても良いから。ね?」
「………」
黎貴は、少し申し訳なさそうな目をしたが、大きく首を振った。深陽は、更に目を丸くする。
「黎貴ちゃん…?」
「……外に、出たくないのだ…」
うつむいて、黎貴は呟いた。
「あら、どうして? お外はとっても良い天気なのに」
深陽は、首をかしげる。心底不思議なのだろう。悪いと思いながらも、黎貴は、それ以上は何も言わずに首を振るだけだった。
彼女は、先日の自分の大暴走を知らない。知っていたら、どんな顔をするだろうと思うと怖くなってくる。
恐怖は、過去は克服しなければならない、と思うが、実際にあんな言葉を投げつけられると、心の底が凍えて壊れてしまいそうになる。
不思議そうな顔をしていた慧と脩一を思い出す。
あれから、彼らは何も聞かない。聞いてくれたら良いのに、と思う。
そして、別れなくては、と思う。もう、この優しい人たちとはいられない。一緒にいれば、この前のように傷付けてしまう。今の内に、離れてしまった方が良いのだろう。
暗い顔で何かを必死に考えている黎貴を見て、深陽は、小さく息を吐く。その溜息に、黎貴は過剰反応してハッと深陽の顔を見た。
深陽はその反応に目を軽く見張ったが、にっこりと笑いかけてみせる。
「…じゃあ、私はちょっと卵を買いに行ってくるわね。留守番、お願いね」
「………」
こくりと肯いた黎貴を心配そうに見てから、深陽は居間を出ていった。
「ただいまー。あ、母さん」
コートと鞄を持って玄関に行くと、慧が帰ってきた。深陽は、慧の元に駆け寄る。
「あっ、慧。おかえり」
「出かけるの?」
「ちょっと卵を買いにね」
「卵くらい、黎貴に買いに行かせれば良いじゃない」
慧の問いに、深陽は居間を振り返ってから、慧へと身を屈めた。
「ねぇ、ちょっと慧。どうしたの? 黎貴ちゃん」
「どうしたって…。まさか黎貴、何かしたの?」
不穏な顔をする慧に、深陽は首を振る。
「何もしてくれないからよ。いつもなら、夕食のお手伝いもおつかいもしてくれるのに。『外に出たくない』んですって」
思い当たる事のある慧は、目を半眼にした。
どうせ、落ち込んでいるだけだ。
「行かせようか?」
黎貴を、と言う慧に、深陽は首を振る。
「私が行くから大丈夫よ。それよりも、黎貴ちゃんをお願いね。何か思い詰めてるように見えたから」
「分かってるわ。気をつけてね」
慧は、にっこりと笑う。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ヒラヒラと手を振って母を送り出し、慧は居間を覗いた。黎貴は、身動きすらせずに黙ってテレビを見つめていた。
「黎貴。ただいま」
玄関での声で慧が帰ってきた事も知っていただろうに、黎貴は慧の声に今気付いたかのようにふっと顔を上げた。
「…おかえり、慧」
暗くて、明らかに様子がおかしい。慧は、ようやく深陽の言っていた事が分かった。
これは、確かにただ落ち込んでいるだけではないかもしれない。
おつかいにいかなかった事を責める気は、とうになくなってしまっていた。じっと見つめられるのが居たたまれないのか、黎貴は体をもぞもぞとさせ始めた。
仕方ない、あんな事があった後だ、と慧は内心溜息を吐く。
「あー。今日も疲れたわー。着替えてこよっと」
凝り固まった首をコキコキ鳴らしながら、慧は独り言を言って居間を出て自分の部屋へと行った。
部屋の前に、白い塊が待っていた。慧の足音に気付くと、顔を上げて甘えた声を出した。自然に、慧の顔が綻ぶ。
「ムーン。ただいまぁ」
愛猫を抱きかかえ、そのまま部屋に入る。
部屋に入ると、ムーンは慧の腕からスルリと抜け出して床に降り立つと、ベッドの定位置に着いた。慧は、机の上に鞄を置くと制服を脱いで着替え始める。
「ホント、困っちゃうわよね~。…黎貴にも」
独りごちると、ムーンが何事かと顔を向けてくる。慧は、笑いかける。その笑顔は、少し苦しいものだった。
黎貴が苦しんでいるように、慧だって心を痛めているのだ。佳影にあんなにもひどい事を言われながら、驚くばかりで何も黎貴のために出来なかった事を。一発殴っておくんだった、と慧は今更ながら物騒な事を考える。
着替え終わった慧は、ムーンを抱き上げるとその艶やかな毛並みを撫でながら呟いた。
「やっぱり…。辛くても、はっきりさせておくべきだよね…」
*****
――次の日の、昼。
「――ねぇ、アヤヤ。この前、電話掛けたのに出なかったでしょ。しばらく学校休んでたしさ。忙しかったの?」
慧は、何気ない様子で訊いた。
「あぁ…。それはごめんね。うん、あの時はちょっと連絡取れない所にいてね」
「ううん。別に良いのよ。多分、あの場面でのアヤヤの出番はなかっただろうし。ただ…」
文也が、申し訳なさそうな顔をしたので慌てて首を振りながら、慧は言葉を濁らせた。文也が、すっと目を細める。
「脩一先輩から聞いたよ。黎貴君、大暴走しちゃったんだって?」
その言葉に、慧は弾かれたように隣を見たが、すぐに深い溜息を吐いた。
「大暴走なんてモンじゃないわよ。天候まで操っちゃうなんて…。幸いな事に、タッキーが打撲と切り傷だけで済んだんだけど、酷かったわー」
「打撲と切り傷だけって…。しばらくは病院通いする羽目になったんだからな! かなり痛かったし。少しは心配しろよな、慧」
それまで黙っていたタッキーこと、脩一が口を尖らせて言った。
「今は、もう良くなったんだから良いでしょ。私なんか、未だにお腹の痣が取れないんだから」
「あ…。そうだな…」
脩一は、慧も同じく怪我をした事を思い出して、何も言えなくなった。
先日、龍嫗からの要請で、行方不明になった黄龍の佳影を探す事になったのだが、その時に怪しげな二人組とやり合った挙句、その佳影にトラウマを持っていた黎貴が、あろう事か大暴走してしまったのだ。
慧の腹の痣は甲乙コンビと一戦を交えたからなのだが、脩一は、黎貴を止めようとして神気に吹き飛ばされて壁に叩きつけられた挙句に黎貴の鎌鼬で全身を裂かれてしまったのだ。
神としての通力など使えた事がないと言っていた黎貴にそんな力があった事にも驚いたが、分からない事が多すぎて、二人はこうして博識な文也に聞こうと学校の屋上まで呼び出したのだ。
風に、制服が翻る。晴れている上に風が強くて、慧のスカートも際どい所まで見え隠れする。慧は、この二人の前なので隠すつもりも押さえるつもりもないらしいが、脩一は気になって仕方ないようだ。
文也は、気にしていない様子で慧に話しかける。
「二人とも大変だったんだね。…じゃあ、黎貴君も、相当落ち込んでるんじゃない?」
「そう! そうなのよ!!」
慧は、ここぞとばかりに食いついた。
「ずーっと引きこもっちゃってさ、外にも出ないし、笑いもしないのよ! いっつも泣きそうな顔して…。嫌になっちゃう」
「俺たちは大丈夫だし、気にしないって言っても、ダメなんだ。何とかなんねぇのかなぁ」
脩一も、呆れたように続ける。しかし、慧も脩一も、黎貴の気持ちなどお見通しなのだ。それが分かっているから、自分たちが慰めても効果がないと肌で感じている。
自分さえいなければ、脩一は傷つかなかった。もっと言えば、慧を危険な目に曝す事もなかった筈だ。二人が命の危険を感じるような事を、よりにもよって自分がしてしまった。その自責の念は、おそらく黎貴自身が吹っ切れない限り、なくなる事はない。
そして、謎がある。それは、黎貴自身に関わる事だ。
慧は、ふと訊いた。
「ねぇ、アヤヤ。黒龍ってなんだろう」
「黒い龍、って事でしょ」
「茶化さないで」
鋭く、慧が言う。脩一はハッとし、文也は、いつも絶やさない爽やかな笑みをスッと引っ込めた。
あの時、佳影は言った。
『お前など、神ではない! 厄災を招く呪われた黒龍だ!!』と。
確かに、あの後黎貴が見せた力は、凄まじかった。しかし、それだけで「神ではない」と罵られるだろうか。黎貴のあの反応と言い、黎貴と佳影の間には何か因縁があるのだろう。それを文也から訊こうとは思わないが、最低限の黒龍の知識は欲しい所だ。
黎貴にとっては禁句。しかし、神仙である自分たち二人が知らない訳には行かないし、こんな事態にまでなれば尚更だ。
「あんたは陰陽師でしょ。だったら、知ってる筈よ」