ふたりの異邦人…Ⅰ
倉橋慧、龍の雛に会う。崇敬されるはずのその龍の仔どもは、しかし、大変な臆病者だった!全てが始まる、出会いの話。
『史記』秦始皇本紀
「齊人徐市等上書言、海中有三神山、名曰蓬萊・方丈・瀛洲。僊人居之。」
(斉の国の人、徐市が始皇帝に申し上げました。「海の真ん中に三つの神山があります。名前を蓬莱、方丈、瀛洲と言い、仙人がいる場所です」と)
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柚富高校に、季節外れの、そして、全く前例のない転校生が来たのは、秋も深まった十一月の事だった。
この時季は、そろそろ期末考査の影も忍び寄ってくるかと言う頃だし、そんな時季に転校してきても、考査が終われば冬休みだ。
転校してくるには、不自然。
それに何より、この柚富高校は、転校生を受け入れていないのだ。
しかし、そんな事には一人を除いて誰も気付いてはいないようだった。
「ちょっとねぇ、慧! 聞いてる? 転校生男の子だって!!」
「ハイハイ、聞いてます。聞いてますってば。耳にタコが出来るくらい聞きました」
倉橋慧は、はぁと息を吐いて友人の松永和世を呆れたように見遣った。
しかし、和世は慧の言う事など聞いちゃいなかった。ますます興奮したように言い募る。
「転校生、男の子なのよ。男の子! 絶対、格好良いに決まってる。どうやってお近付きになろうかしら!」
「絶対カッコ良い、って…。和ちゃんだって顔見た事ないんでしょ? 何でそんな事断定出来るのよ?」
「何言ってるのよ、慧! 転校生よ、転・校・生! そんじょそこらの男子とは訳が違うんだから!!」
一緒じゃん、と言う慧の心の中の呟きは、幸いな事に口をついて出る事はなかった。
和世の顔が、なぜか輝いて眩しい。
「転校するって事は、きっとお父さまの仕事の関係よね。あ、って事は、きっと貿易商か何かだわ。そこの一人息子なんだから、これまでは家庭教師か何かが付いてたのよ。でも、彼は同じ年頃の友達が欲しかった…。だから、お父さまにお願いするの。
『私は、高校に行きたいのです!』
『いやいかん、我が息子よ。我が息子であるからには、私の傍で勉強すべきだ。高校など行っても、堕落したヤツしかいない。私は、お前に跡を継いでほしいのだ』
『お父さま、そんな言い方はあんまりです!』
そう言って、彼は家を飛び出し、この柚富高校に――」
「ちょ、ストップ、ストーップ!」
永遠のごとく続く和世の話を、慧はかろうじて止める事が出来た。
和世は、きょとんと首を傾げて見せた。
「なに?」
「『なに?』じゃない! 和ちゃん、それ、ただの妄想でしょ。声色や身振り手振りまでして、演劇部の本領を見せてくれなくても良いから」
和世は、少しばかり残念そうな顔をする。
「えー。これからが良いところだったのにー」
「分かったから。いちいち妄想しなくても、転校生ならすぐ見れるじゃない。来るの今日なんだから」
「ハーイ」
間延びした返事をする和世に、慧はただ項垂れるしかなかった。
和世は、見た目はどこにでもいるような普通の女子高生なのだが、中身ときたら、暴走族も脱帽するほど妄想が暴走するのが常だ。さしずめ、妄想族とでも言っておこうか。
妄想する本人は至って元気いっぱいなのだが、付き合わされる慧の身としては、あまりに細部にまで妄想が及ぶので、一瞬真実かと思って気が休まらない。
結局のところ、精気を吸い取られてしまうのだった。
予鈴が鳴って、それと同時に、いつもは授業が始まるギリギリ前にしか現れない担任の社会科教師の堀内が入ってきた。生徒を一人連れて。
「皆、席に着けー」
教室は、すぐに静寂に包まれた。生徒全員が、転校生に注目している。
堀内は、コホン、と咳払いをした。
「今日から、新たに入る事になった岩井だ。…じゃ、簡単に自己紹介して」
はい、と転校生はうなずいた。
「初めまして。岩井文也と言います。一応、京都から来ました。これから、よろしくお願いします」
にっこり。
文也は、背後に花が飛ぶかと言う勢いで微笑んだ。
健康的な白い肌、男の子にしては少し長い髪、そして、妙に深い瞳。可愛らしい顔をした文也は、見た目通りの笑顔をした。
女の子たちはうっとりと見つめている。
しかし、慧だけは違った。
どこか、冷めた目で、これから級友になるその男の子を値踏みしていた。
文也が可愛らしいほどの童顔なのは、百歩譲って許せる。
だが、華奢な手足と言い、軟弱そうな雰囲気と言い、どうもいけ好かない。要するに、胡散臭いのだ。
「皆、慣れない事もあるだろうから、教えてやれよ。じゃ、席は――」
堀内は、そう言葉を切って教室を見回した。女の子たちは、無言で熾烈な圧力をかけ合う。
誰もが、この可愛い転校生の隣になって、あわ良くば友達になりたいのだ。
慧だけが、もう興味を失ったかのようにそっぽを向いていた。
「――倉橋!」
「え? はい」
急に名を呼ばれて我に返ると、堀内は、爽やかに微笑んでいた。
「お前の横、空いてるだろう。しばらく面倒見てやれ」
「…分かりました」
女の子たちの痛い視線に辟易しながら、慧は、うなずいて文也が来るのを待った。
少し大きめの真新しい制服に身を包んだ転校生は、席に着くとにこりと笑った。
「名前、何て言うの?」
「倉橋慧」
無愛想に短く答えると、文也は「これからよろしくね」と更に笑みを深めた。
しかし、その笑みは、すぐに引っ込んだ。何かに気付いたかのように、じいっと慧の顔を見つめる。
「な、なに?」
あまりにじっと見つめられるので戸惑って訊くと、文也は、妙に確信ありげに、真剣な顔付きで呟いた。
「良い相だ」
「は?」
「倉橋さん。今日、きっと良い事あるよ」
極上の笑みを頬に乗せて、文也は慧に言った。
何を言っているのか、意味がさっぱり掴めない慧は、文也に聞き質そうとした。
「ちょ、それって――」
「――授業始めるぞー」
堀内が、ちょうどタイミング良く口を開けた。
しんと静まり返る教室で会話をしては、目立つ。慧は、文也に訊きたいのをぐっと堪えて黙った。
本日の第一限は、中国史だ。蓬莱史と中国史は必須教科で、その内の中国史は、大抵高二で学習する。四千年以上もの膨大な歴史を、事細かに覚えなくてはならないので、結構大変だったりもする。
しかし、慧は、先程の文也の言葉が気になって、なかなか集中できなかった。
「うっわー。すっげぇ女子の山~」
慧は、机に頬杖を付きながら投げやりに呟いた。
一限が終わった直後から、文也の周りには女の子が群がっていた。
それは、放課後になってからも衰える気配はなく。
寧ろ、他学級からも集まって、収拾がつかない状態になりつつあった。
隣の席の慧は、目の敵にされ、完全に蚊帳の外だ。
もともと、加わる気は更々なかった慧としてはありがたいのだが、正直、女の子たちが自分の席にまではみ出していて、女子の群れから出られない。
言葉遣いも雑になろうと言うものだ。
「なんだ。転校生って、お前のクラスだったんだ」
不意に耳元で囁かれて、慧は、息が止まるほど驚いて振り返った。
そこにいたのは、慧と同じ生徒だった。
胸の校章の色が違う事から、慧より一学年上の三年生である事がわかる。
従兄だとわかると、慧は、目を据わらせた。
「驚かさないでよね、タッキー」
「タッキーって言うな! タッキーって!!」
タッキーこと、瀧沢脩一は、唇を尖らせて文句を言った。
巷を騒がせているアイドルと、名前と容姿が似ている事から付けられた渾名を、彼は、倦厭していた。
と言っても、内心では得意になっているから、本気でその渾名を正そうとした事はない。
慧も、それを分かっているから、からかってそう呼び続けているのだ。
「仮にタッキーって呼ばないとして、じゃ、何て呼べば良いのよ?」
慧がそう訊くと、脩一は、ふんぞり返って言った。
「敬意を込めて『先輩』と呼べ」
「はいはい。瀧沢センパイ」
慧は、馬鹿にしたように言ってやる。
脩一は、自分で言っておきながら、慧があっさりと「先輩」と呼んだ事に――しかも、名前ではなく、名字の方で――予想外のショックを受けていた。
ガァン、と言う効果音が聞こえてきそうだ。
肩を落として、脩一は呟いた。
「…やっぱ、いい」
「なにが? セ・ン・パ・イ?」
慧は、白々しく「先輩」と呼ぶ。勿論、嫌がらせ以外の何物でもない。
そんな従妹の性格を誰よりも把握している脩一は、遊ばれていると分かって、拗ねたように言った。
「従妹のお前にまで先輩って呼ばれるのは、やっぱり不愉快だ。もう、タッキーだろうが、脩一だろうが、好きに呼べよ」
慧は、あまりに可哀想だったので、くすくす笑って脩一をからかうのをやめた。
「で、脩一。何の用?」
「…一緒に帰ろうと思って、迎えに来ちゃ悪いのかよ?」
「そんな事言ってないってば」
半ばいじけ気味な脩一の機嫌を取るように、慧は言って、やれやれと息を吐いた。
従兄とは言え、学年は一つ、年は二つしか離れていないのだ。
お互い、気安い間柄でもある。だから、脩一は、こんなに情けない姿を慧に見せているのだろう。
「…って言うのは、さて置き」
脩一が、不意に真面目な顔をして、改めて慧に向き直った。慧も、大人しく話を聞く姿勢になる。
「今日、父さんがウチに来いってさ」
「伯父さんが?」
うん、とうなずく脩一を見て、慧は、首をかしげた。
明日だったら、どうせ脩一の家に行く予定だったから、特に驚かなかったが、今日わざわざ呼ばれるのは解せない。
「やっぱアレかなー。ホラ、今日って、俺の誕生日だから!」
覚えてるか、覚えてるよな?
そう、迫ってくる脩一に「ハイハイ、おめでとう」と、全く心のこもっていない祝いの言葉を贈る。
明日なら、脩一の誕生日会をするから、呼ばれても納得できるのだが。
一体何の用だろう。
慧は、教科書を鞄に詰め始めた。
教科書類は律儀に全部持って帰っているから、結構重量はある。
しかし、それを物ともせず、慧はひょいっと肩に鞄を掛けると、生返事されて落ち込んでいる脩一に声をかけた。
「用意できたよ。帰ろ」
慧は、声をかけ、脩一を置いてさっさと出て行こうとする。
その後を、脩一が復活して追いかけていく。
「おい、待てよ。絶対そうだって! やっぱ、俺の誕生日だからだって! なぁ、慧。なぁってば」
「あーもぅウザイ」
軽く耳を塞ぎながら、慧は、半ば本気で呟く。
何だかんだと言いながらも仲良く二人で教室を出て良く後ろ姿を、転校生がじっと見送っていた。
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華王朝が清王朝に変わってからは、九十五年以上がゆうに過ぎている。
ここ蓬莱列島は、中国の東の端にある列島である。
中原の人々からは『東の蓬莱、西の崑崙』と並び称されている神獣と神仙の住まう国とされている。
しかし実際のところ、住んでいる人々の内でその神話を知っている者など、数えられるほどしかいない。
科学が発達し、神獣と言った非現実的な生物の存在などは、オカルト雑誌やテレビのワイドショーくらいでしか持て囃されないのだ。
しかし、慧は知っていた。
その神話が決してただのお伽話ではないという事を。
「…いつ見ても、大きい家ねぇ」
脩一の家を見る度に、慧は、溜息を吐いてしまう。
瀧沢家は、知られてはいないが相当の名家だ。
それこそ、蓬莱国が出来る前――秦始皇の時代から、形ながらもあったと言う。
そうして、内々に代々の天皇、ひいては、中国皇帝の保護を受けてきた。
なぜ、そのように保護を受けてきたのかといえば、それは、瀧沢家の司る裏の職種にあった。
それは、古代から現代に至るまでの最大の秘事だ。国家機密でもある。
「まぁ、坊ちゃま。慧お嬢ちゃまも。お帰りなさいませ」
出迎えたのは、家政婦の清美だった。
瀧沢家は、広いから、お手伝いがいないと管理できない。
勿論、彼女も、代々瀧沢家で家政婦をしているのだ。
そうした環境で成長した脩一は、にこやかに「ただいま、清美さん」と返したが、慧は、いつまで経っても慣れなかった。
「こ、こんにちは。清美さん」
清美は、ペコリと頭を下げた慧に微笑んだ。
「まぁまぁ、丁寧にありがとうございます。慧お嬢ちゃま」
「お嬢ちゃまは止めて下さい~」
いつも言ってますけど、と慧は眉を下げる。
はいはいと清美は生返事をするだけで、清美は聞かなかった。これも、いつもの遣り取りだ。
「旦那様。お帰りになりましたよ」
清美は、奥に声をかける。