【ふた――伝え、】
◇◆◇
体腔の奥にある肺を満たし、行き来する呼吸。
持ち上げた前の肢を内より外へ、外より内へと回らせて。
地を踏みしめた後ろの肢は、身に潜む力を支え保持し増強する。
閉じた目の代わりに、泡立つ膚が世界を感知する。――耳も、鼻も、口唇さえもが、世界の気配を捉えた。
ゆるりと動かしたその肢体は、地に這う龍の気配に相似していた。
「……独特だよね。佳永姉の動きは」
ぽつんと呟いたのは、バランさまの息子であるトラオム・バランさま。――16歳。
「むにゅ。……うごいてりゅかげ、…なの」
その膝の上でご機嫌に言葉を紡いだのは、同じくバランさまの息子であるガ―プ・バランさま。―――3歳。
生まれた時から人の姿へと転化できる竜族ではあるが、それでも本態はあくまでも人形にはなく竜形にある。第二の姿形である人形ではあるが、竜族の幼生期において好まれるのは当然のように本態である竜形だ。
まだまだ幼いガ―プさまのお姿は、白色の竜体に赤色の混じった背びれを負った、それはそれは愛らしいものである。
ブラコンと呼んでも語弊が生じない程度には兄弟愛に満ちたトラオムさまの表情は、実にメロメロとかでれでれとかそんな言葉で表わすのに適したものに違いなかった。
かげ。―――世界を模倣する影の、動き。
ガ―プさまの言葉で、ふと感じるものがあった。
「―――そうですね。武とは、―――― 世界に歩み寄るための一つの道であったのかもしれません」
おそらくは、世界に添うこと。――――――きっと、それが祖父に学んだ武の本質の一つめだった。
まだ朝日が昇りきらぬ時間、持てあました突然の休みを修業にあてようと庭に出て古武術の一連の型を行っていた私を見つけたのは、散歩に出ていたトラオムさまとガ―プさまでした。
ガ―プさまはともかく、トラオムさまはもう16歳。――丁度成長期にさしかかり、竜形の不便さを実感し出すお年頃です。
「見ててもいい? 佳永姉」
「む。ぼくもみりゅ…よ?」
まだまだ人形での動き方に慣れていないトラオムさまが、古武術という人体の動かし方を極めたものを教えてほしいと言われた頃から、なぜかトラオムさまは私のことを「佳永姉」と呼んでくださるようになりました。(正直、可愛いなあと思いましたが。兄弟姉妹が羨ましいと思ったことは確かにありましたからね)
「かまいませんよ。どうぞ」
既に庭の片隅にあるベンチに腰掛けたトラオムさまへ答えました。
中庭を囲む木々の発する空気はとても気持ちがよいものでした、
「……よければ、トラオムさまにも手伝ってもらってもよろしいですか?」
「僕も? …うん、やるよ!」
手伝う!
少しだけ、膝に座っていたガ―プくんへ眼をやってからトラオムさまは立ち上がりました。
「ぼきゅも…したかったー」
不満そうに呟くミニマムドラゴンは可愛かったです。
つい抱き上げにいきそうになるくらいには。
いかん、発作が起きそうだ。
「佳永姉、ほんとうに竜が好きだよね?」
「トラオムさまも人のこと言えないと思います」
立ち上がった後、一度は私の方へ走りかけていたにも関わらず弟の呟きを聞いた瞬間にだっこに戻ったトラオムさまには絶対人のことは言えません。
「えー、俺の場合はただの弟大好きお兄ちゃんなだけだもんね」
ニコニコ笑顔で弟を撫でまくるトラオムさまでした。
……超ブラコン健在。
「むが。……にいさまくしゅぐったいー」
愛されるガ―プさまは、不動の可愛さを保持しています。是非お持ち帰りをお許し願いたい。
ハグして寝たい。
むにゃむにゃと抗議するガ―プさまを見つめて、ほんわかと微笑む我々の心は一つでした。
ああ、癒される。
「では、これを」
トラオムさまと向き合いました。
念のために軽い体操をトラオムさまにして頂き、その後から始めたそれは訓練などというものではなく、身体遊びというのがきっと正しいものであったのでしょう。
けれど、それはとても楽しいことです。
もとより、苦しみながら修めることではなかったのですから。―――我らの武とは。
「力を入れる必要はありませんよ」
ですがそうですね。―――足裏と骨盤と肩甲骨を意識して頂けるとよいかもしれませんね。
2枚の用意したタオルの端と端をお互いに握ります。
「ルールは一つだけ。―――お互いに向き合い片足立ちになって勝負します。両足がついたり、立っている足の位置がずれたりしたら負けです」
「はーい」
楽しそうにトラオムさまが返事をされました。どうやらやる気はあるようです。
「ガ―プさまは、そちらで合図とどちらの足が地面についたかを見ていてくださいね。とても大切なことですので」
「みゃい!!」
こちらも同じく、嬉しそうに返事をされました。
緊張のあまりか返事の言葉が猫語になっています。――――――萌え殺す気ですか。
しばらく、ふるふると悶える両者のために勝負は若干遅れて開始されました。
だから、癒しは可愛いんですってば。
古武術と呼ばれるものの原理の面白さは、その躍動性と展開の豊富さにある気がします。
じつは古武術と呼ばれるものに、唯一絶対の正解は存在しません。
因果応報、類型、組織化、命題、―――― 技術であると同時に、己の肉体を模索する術―――それは一つの概念であったのです、きっと。
「ちょ、待って。佳永姉」
「……どうしました?」
何も難しいことはしてませんよ?
「いや、だって。……なにこれ!!?」
「……にいしゃま?」
8度目のトラオムさまの負けを告げたガ―プさまが不思議そうに首をかしげていました。
……かわいいなあ、いいなあミニマムドラゴンかわいいなあ。
つい空気が和んでしまいました……迂闊。
「…で、何に驚いてたんですか? トラオムさま」
「……あっ。――だって、だって佳永姉、この遊びすごくないか?」
ブラコンの権化といえるトラオムさまもまたそんなガ―プさまに心を奪われていたようでしたが、声かけで我に返ると酷く驚いた様子で言われました。
「………どう感じましたか? トラオムさまは」
「…なんだか、二人で一つの生き物になったような。……羽が生えたような気がした」
俺、いまは人形なのに!
呟く少年は、本気でそう思ったようでした。
「……重心移動を力むことなく行えたとき、人形でも羽は生えるのですよ、きっと」
失われた人々の知恵は、きっと鳥になることも可能にしたのだろう。
不安定は力になる。
揺らしとシンクロ、構造、重心移動、バランスコントロール、体幹内処理、足裏の垂直離陸。――――6つの原理から生まれる知恵。技術。
おじい様、貴方の与えてくれた技術は私の生きるための術となって、いまもこの身の内に息づいていますよ。
……きっと、貴方がそう願ったように。
「――――カナ、きれい」
ね。
「………ガ―プさま?」
突如呟いたガ―プさまに尋ねました。
「……うごいてりゅカナ、……きれいにゃの」
きらきらなの。
「――――――ガ―プ、さま」
気づけば、涙が溢れていました。
「ありがとう、ございます」
「?」
「佳永姉?」
噛みしめるように、その言葉の意味を辿る。
――――― この世界でも、私が愛してきた武は……許されたのだ。
「…カナ? イタイ? ……くりゅしい? 」
「佳永姉? …… つらかったの? 」
優しい竜族の子供たちに慰めの言葉を貰いました。
「いいえ。………すごく、幸せだなあと思ったのですよ」
答えた言葉は、本当のこと。
―――― 私を育んできた世界が、いまとても近くに感じられたのです。