「君の話はつまらない」と婚約破棄されたので、婚活アドバイザーに"聞き方"を習ったら、無口な騎士団長が毎晩話しに来るようになりました
「君の話はつまらない」
五年間の婚約が終わったのは、その一言からだった。
王都の夜会。
華やかな音楽が流れる広間の片隅で、クラウス・ベルトラン様は、私を見下ろしていた。
「エミリア。君と話していても、ちっとも楽しくないんだ」
「……そう、ですか」
「いつも頷いているだけだろう? もっと気の利いたことを言えないのか」
私は、手にしていた小さな手帳を見つめた。
そこには、今夜の出席者の名前が書いてある。
誰がどんな仕事をしているか。
最近、家族にどんな出来事があったか。
話題にしてはいけないことは何か。
クラウス様が人と話す時、困らないように。
五年間、少しずつ書き足してきたものだった。
「今夜も、君は黙って私の後ろに立っていただけだ」
「それは……」
「言い訳はいい。婚約は解消する。父上にも話してある」
近くにいた令嬢たちが、こちらを見た。
誰かが小さく息をのむ。
私は、開きかけた手帳を閉じた。
ぱたん。
その音が、妙にはっきり聞こえた。
「……承知しました」
クラウス様は、少し拍子抜けしたような顔をした。
「それだけか?」
「はい」
「最後まで、つまらない女だな」
そう言い残して、彼は去っていった。
私は、閉じた手帳を胸に抱えた。
泣きたいのか、怒りたいのか。
自分でも、よくわからなかった。
ただ、ひとつだけ。
これからは、誰のためにこの手帳を開けばいいのだろう。
そんなことを考えていた。
◇◆◇
クラウス様と婚約したのは、私が十四歳の時だった。
私は昔から、人前で話すのが得意ではない。
話そうとすると、相手が退屈していないか気になってしまう。
だから、聞くことにした。
クラウス様が商談の話をすれば、最後まで聞いた。
領地の話をすれば、地図を調べた。
誰かに会うと聞けば、その人のことを覚えておいた。
それが、婚約者として役に立つ方法だと思っていた。
けれど。
五年間、一度も聞かれなかったことがある。
『エミリアは、今日は何をしていた?』
そんな、ありふれた質問だった。
◇◆◇
婚約解消の手続きが始まってから三日後。
私は、王都の路地裏にある小さな店を訪ねた。
『縁結び相談所』
『あなたの話を、聞かせてください』
看板には、そう書かれていた。
婚約を破棄されたばかりの私が、縁結びの相談所に来るなんて。
少し、おかしいかもしれない。
でも、誰かに話を聞いてほしかった。
扉を開けると、机の上に緑色のスライムがいた。
『――いらっしゃいませ! パンはお好きですか!?』
「……え?」
『――あっ! 違いました!』
スライムは、慌てたように跳ねた。
『――ご相談ですね! どうぞ!』
「ミドリ。惜しかったね」
奥から出てきたのは、少し疲れた顔をした中年の男性だった。
「いらっしゃいませ。所長の成田和彦です」
男性は、穏やかに笑った。
「今日は、どんなご相談でしょうか」
私は椅子に座った。
そして、勇気を出して言った。
「……私、話がつまらないそうなんです」
成田さんは、すぐには答えなかった。
「婚約者に、そう言われました」
「そうでしたか」
「五年間、ずっと一緒にいたのに。私が話すと、退屈するんだそうです」
言葉にした途端、喉が苦しくなった。
「だから……話が上手になる方法を、教えていただきたくて」
成田さんは、少し考えてから尋ねた。
「エミリアさんは、その方と、どんなお話をしていたんですか?」
「クラウス様のお仕事や、お知り合いのことです」
「エミリアさんご自身のお話は?」
「……あまり」
「なぜですか?」
私は、膝の上で手を握った。
「クラウス様は、お忙しい方でしたから。私の話で、お時間を取らせてはいけないと思って……」
成田さんは頷いた。
「なるほど。相手の時間を、大切にしていたんですね」
私は顔を上げた。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「でも、それなら」
成田さんは続けた。
「あなたの話がつまらないんじゃなくて、聞いてくれる相手がいなかっただけかもしれません」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……私の話を?」
「はい。話すのが得意かどうかと、話を聞いてもらう価値があるかどうかは、別のことですから」
私は、うつむいた。
涙が一粒、膝に落ちた。
◇◆◇
「それでも、誰かと話すのが怖いんです」
私がそう言うと、成田さんは紙を一枚取り出した。
「では、話し上手になる前に、聞き方を少し練習してみましょうか」
「……聞き方、ですか?」
「はい。エミリアさんは、すでに人の話をよく聞ける方だと思います。でも、聞いていることを相手に伝える方法もあるんです」
成田さんは、紙に三つの項目を書いた。
一つ目。
『相手の言葉を、短く繰り返す』
「たとえば『今日は忙しかった』と言われたら、『忙しかったんですね』と返します」
「それだけで、いいんですか?」
「はい。まずは、ちゃんと聞いていますよ、と伝えるんです」
二つ目。
『その時の気持ちを聞く』
「『大変でしたか』『嬉しかったですか』と聞いてみる。ただし、決めつけないことが大切です」
三つ目。
『続きを促す』
「相手が話したそうなら、『それで?』と聞いてみるんです」
私は、紙を見つめた。
「……簡単そうですね」
「簡単です。でも、意外と難しいんですよ」
成田さんは笑った。
「ただ、ひとつ約束してください」
「何でしょうか」
「相手の話を聞くために、ご自分の話を我慢しないことです」
私は、目を瞬かせた。
「聞くことと、黙っていることは、同じではありません」
成田さんは、そう言った。
「あなたが話したい時は、あなたも話していいんです」
私は、紙を大切に折りたたんだ。
帰り際、受付係長だというスライムが、小さく跳ねた。
『――また来てくださいね!』
「はい。ありがとうございます」
『――次は、好きなパンも教えてください!』
思わず、笑ってしまった。
婚約を破棄されてから、初めて笑った気がした。
◇◆◇
その翌週、私は仕事を始めた。
父の知人が、王都騎士団の記録係を探していたのだ。
夜間の巡回報告を整理する、短時間の仕事だった。
父は心配した。
「無理をする必要はないんだぞ」
「大丈夫です、お父様」
私は答えた。
「自分で何かを始めてみたいんです」
騎士団の詰所は、想像していたよりも忙しかった。
隊員たちは交代で巡回に出て、戻るたびに報告をする。
私はそれを記録し、翌朝の担当者に引き継ぐ。
最初の夜。
最後に報告へ来たのは、騎士団長だった。
ヴォルフ様。
二十八歳。
若くして団長になった、王都でも有名な騎士だ。
背が高く、鋭い目をしている。
笑ったところを見た人は少ないという。
「……異常なし」
それが、最初の報告だった。
「承知しました」
私が記録すると、ヴォルフ様は机の上に小さな砂時計を置いた。
「報告は、砂が落ちるまでだ」
「……はい?」
「長く話すのは、得意ではない」
そう言って、砂時計をひっくり返した。
細い砂が、さらさらと落ち始める。
およそ三分。
けれど、ヴォルフ様はそれ以上何も言わなかった。
砂が落ちきる前に、席を立つ。
「以上だ」
私は、慌てて頭を下げた。
「お疲れさまでした」
扉が閉まる。
机の上には、砂の落ちきった時計だけが残された。
◇◆◇
二日目も、報告は短かった。
「西門、異常なし」
三日目。
「市場通り、異常なし」
四日目。
「北の倉庫街、異常なし」
私は、記録用紙を見つめた。
これでは、毎日ほとんど同じだ。
もちろん、異常がないのは良いことだけれど。
五日目。
ヴォルフ様が砂時計をひっくり返した時、私は勇気を出した。
「北の倉庫街は、異常なしだったんですね」
ヴォルフ様が、こちらを見た。
「……そうだ」
「巡回は、大変でしたか?」
「……雨が降った」
「雨、ですか」
「ああ」
私は、成田さんの紙を思い出した。
相手の言葉を繰り返す。
気持ちを聞く。
そして。
「……それで?」
ヴォルフ様の眉が、わずかに動いた。
「……何がだ?」
「雨が降って、それから何かありましたか?」
少しの沈黙。
「……子どもがいた」
「子どもが?」
「荷車の下で、雨宿りをしていた」
「まあ」
「親を探して、家まで送った」
私は、思わず微笑んだ。
「それは、よかったですね」
ヴォルフ様は、何かを考えるように私を見た。
砂時計の砂が、最後の一粒まで落ちる。
「……以上だ」
「ありがとうございました」
ヴォルフ様が帰ったあと。
私は、記録用紙に書き足した。
『北の倉庫街、異常なし。迷子の子ども一名を保護し、家族へ引き渡し済み』
これなら、次の担当者にも伝わる。
私は、少しだけ嬉しくなった。
◇◆◇
それから、ヴォルフ様の報告は少しずつ長くなった。
「東門の兵士が、風邪をひいた」
「風邪をひいたんですね。具合は大丈夫でしょうか」
「熱は下がった。だが、無理をしようとする」
「心配ですね」
「……ああ」
別の日には。
「新入りが、剣の握り方を間違えていた」
「握り方ですか」
「力を入れすぎる」
「それで?」
「何度教えても、肩に力が入る」
「難しいんですね」
「……俺も昔、そうだった」
その言葉に、私は驚いた。
「ヴォルフ様も?」
「ああ」
「どなたに教わったんですか?」
「……恩師だ」
ヴォルフ様は、それきり黙った。
私は、それ以上聞かなかった。
話したくないことまで、聞き出す必要はない。
砂時計が落ちきる。
「……今日は、ここまでだ」
「はい。お疲れさまでした」
ヴォルフ様は、少しだけこちらを見てから帰っていった。
◇◆◇
ひと月が過ぎた頃。
ヴォルフ様は、報告のあとに椅子へ座るようになった。
砂時計をひっくり返し、今日あったことを話す。
私は、聞く。
時々、質問する。
それだけの時間だった。
けれど、不思議なことが起きた。
私が、話すようになったのだ。
「今日、詰所の裏庭に花が咲いていたんです」
「……花?」
「はい。小さな白い花です。誰かが植えたのでしょうか」
「……知らない」
「そうですか。少し気になっていて」
そこで、私は口を閉じた。
しまった。
どうでもいい話をしてしまった。
騎士団長は、お忙しい方なのに。
「……申し訳ありません」
「何がだ?」
「私の話なんて、退屈ですよね」
ヴォルフ様が、砂時計に目を落とした。
「……なぜ、そう思う」
「以前、言われたことがあるんです」
胸の奥に、あの夜の声がよみがえった。
『君の話はつまらない』
私は、無理に笑おうとした。
「……私の話、つまらなくないですか」
ヴォルフ様は、しばらく黙っていた。
やがて、短く言った。
「……続けてくれ」
「え?」
「花の話だ」
私は、目を瞬かせた。
「……よろしいんですか?」
「ああ」
「では……」
私は、少しずつ話し始めた。
花が咲いていた場所。
葉の形。
子どもの頃、母と庭で育てた花のこと。
春になると、母が小さな花束を作ってくれたこと。
話しているうちに、気づいた。
砂時計の砂が、もう落ちきっている。
「……あっ」
私は慌てて口を閉じた。
「お時間を過ぎてしまいました」
ヴォルフ様は、砂時計を見た。
「……そうだな」
「申し訳ありません」
「いや」
彼は、椅子から立ち上がらなかった。
「……その花は、何という名前なんだ?」
私は、思わず笑った。
その夜。
私たちは、砂時計が落ちきってからも、しばらく話していた。
◇◆◇
季節が少し進んだ。
私は、詰所の仕事に慣れてきた。
騎士たちの名前も、ほとんど覚えた。
誰が辛い料理を苦手としているか。
誰の家に赤ちゃんが生まれたか。
誰が、遠くの家族に手紙を書こうとしているか。
私は、以前と同じように手帳に書き留めた。
ただし、ひとつだけ変えたことがある。
手帳の最後のページに、自分のことも書くようになった。
『今日は、白い花が咲いた』
『記録係の仕事を褒められた』
『ヴォルフ様が、少し笑った』
最後の一行を書いた時、私は頬が熱くなった。
……本当に、笑ったのだろうか。
ほんの少し、口元が動いただけかもしれない。
でも、私は確かに嬉しかった。
◇◆◇
ある夜。
ヴォルフ様は、いつもより遅く詰所へ来た。
「……遅くなった」
「お疲れさまです」
私は、お茶を用意した。
彼は椅子に座り、砂時計をひっくり返した。
「今日は、古い剣を整理した」
「古い剣、ですか」
「ああ。亡くなった騎士のものだ」
私は、手を止めた。
「……大切な方だったんですね」
ヴォルフ様は頷いた。
「俺の恩師だ」
以前、剣の握り方を教えてくれた人の話をしていた。
私は、覚えていた。
「その方は、どんな方だったんですか?」
「……よく話す人だった」
ヴォルフ様は、少しだけ目を細めた。
「昔の戦の話を、何度もした。同じ話を、何度でも」
「そうだったんですね」
「若い騎士たちは、途中で席を立つことが多かった」
彼は、砂時計を見つめた。
「俺も、忙しいと言って、最後まで聞けないことがあった」
私は、黙って待った。
「だが、一年前の夜会で……」
そこで、ヴォルフ様は顔を上げた。
「あなたが、聞いていた」
「……私が?」
「ああ」
◇◆◇
一年前の夜会。
私は、会場の隅で年配の騎士と話をした。
たしか、銀色の髪をした、優しそうな方だった。
昔の戦の話。
雪の中を進んだ話。
若い騎士たちが、寒さで手を震わせていた話。
私は、最後まで聞いた。
そして、帰り際に尋ねたのだ。
『その時、一緒にいた方々は、今もお元気ですか?』
老騎士は、少し驚いた顔をした。
それから、懐かしそうに笑った。
『ああ。皆、それぞれの場所で生きているよ』
私は、その夜のことを思い出した。
「……もしかして、あの方が」
「俺の恩師だ」
ヴォルフ様は頷いた。
「あなたが帰ったあと、師は言った」
彼の声が、少しだけ柔らかくなった。
「『あの令嬢は、人の話を聞ける人だ』と」
私は、息をのんだ。
「師は、あなたのことを覚えていた」
「……そんな」
「亡くなる少し前にも、話していた」
ヴォルフ様は、ゆっくり続けた。
「『話を聞いてもらえるのは、ありがたいことだ。年を取ると、特にな』と」
私は、手帳を握りしめた。
あの夜。
私は、特別なことをしたつもりはなかった。
ただ、あの方の話が面白かったのだ。
若い頃に何を見て、誰と笑い、何を大切にしてきたのか。
もっと聞きたいと思った。
「……ヴォルフ様」
「何だ」
「私、あの方のお話が好きでした」
声が震えた。
「もっと、聞いておけばよかったです」
ヴォルフ様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、頷いた。
「……俺もだ」
砂時計の砂は、とっくに落ちきっていた。
それでも、彼は席を立たなかった。
◇◆◇
「ひとつ、聞いてもいいか」
ヴォルフ様が言った。
「はい」
「なぜ、あの夜、師の話を最後まで聞いた?」
私は、少し考えた。
「……知りたかったからです」
「何を?」
「あの方が、どんな人生を歩いてこられたのか」
私は答えた。
「私が知らないことを、たくさんご存じでした。だから、もっと聞きたいと思いました」
ヴォルフ様は、目を伏せた。
「……そうか」
「はい」
少しの沈黙。
それから、彼は言った。
「俺は、あなたを前から知っていた」
胸が、大きく鳴った。
「一年前から?」
「ああ」
「でも、どうして……」
「詰所に来た時、すぐにわかった」
ヴォルフ様は、私を見た。
「師の話を聞いてくれた令嬢だと」
私は、何も言えなかった。
「あなたは、自分の話がつまらないと言ったな」
「……はい」
「俺には、そうは思えない」
彼は、少し言葉を探した。
「あなたは、人の話を覚えている。小さなことも、大切にしている」
私は、手帳に目を落とした。
「……それしか、できないんです」
「それが、できる」
短い言葉だった。
でも、不思議と胸に届いた。
「それに」
ヴォルフ様は続けた。
「俺は、あなた自身の話も聞きたい」
私は、顔を上げた。
「……私の?」
「ああ」
彼は、少し困ったような顔をした。
「花の話も。子どもの頃の話も。今日、何があったかも」
私は、目元を押さえた。
涙がこぼれそうだった。
五年間、聞かれなかったこと。
それを、この人は聞いてくれる。
「……ありがとうございます」
ヴォルフ様は、何も言わなかった。
ただ、私が落ち着くまで、そこにいてくれた。
◇◆◇
その頃。
クラウス様の商談は、思わぬところで行き詰まっていた。
相手は、北方の交易路に大きな影響力を持つ老商人だった。
クラウス様は、以前から取引を望んでいたらしい。
私も、その方のことは知っていた。
奥様を三年前に亡くされていること。
お嬢様が最近、婚約を結ばれたこと。
奥様の名前を、間違えて呼ばれるのをひどく嫌うこと。
以前、夜会でご本人から伺った話だった。
私は、それを手帳に書いていた。
そして、クラウス様が商談へ向かうたびに、必要なことを耳打ちしていた。
けれど、今はもう婚約者ではない。
その日の商談で、クラウス様は老商人にこう言ったという。
『奥様のマリアンヌ様も、お元気でしょうか』
奥様の名前は、マルグリット様だった。
しかも、すでに亡くなっている。
老商人の顔色が変わった。
それに気づかず、クラウス様は話を続けた。
『そういえば、お嬢様にはまだ良いお相手がいらっしゃらないとか。ぜひ、私の知人を紹介させてください』
お嬢様は、すでに婚約されていた。
老商人は、そこで商談を打ち切った。
後日、取引の見送りが正式に伝えられたという。
私は、その話を父から聞いた。
「……そうだったのですね」
それ以上、何も言わなかった。
少し前の私なら、きっと自分を責めていただろう。
手帳を渡しておけばよかった。
先に教えておけばよかった。
でも。
もう、私が引き受ける仕事ではない。
◇◆◇
それから数日後。
詰所の受付に、年配の男性が訪ねてきた。
騎士団への納品の件で、担当者に会いに来たのだという。
私は、受付簿を確認して顔を上げた。
「……まあ。オルブライト様」
北方の交易路を扱う、あの老商人だった。
「お久しぶりでございます」
私が挨拶すると、オルブライト様は目を細めた。
「おや。ハート子爵家のお嬢さんではありませんか」
「はい。今は、こちらで記録係をしております」
「そうでしたか」
オルブライト様は、少し考えるように私を見た。
「……以前、妻の名前を覚えていてくださったのは、あなたでしたね」
私は、胸がどきりとした。
「……はい。マルグリット様のお話を、以前伺いました」
「覚えていてくださったのですね」
「とても、お優しい方だったと」
オルブライト様は、ゆっくり頷いた。
「ええ。私には、もったいないくらいの妻でした」
その声は、少しだけ懐かしそうだった。
「それから、お嬢様のご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます。娘も喜んでおります」
オルブライト様は、ふっと笑った。
「……あなたは、よく人の話を覚えていらっしゃる」
「いえ。そんな……」
「先日の商談では、少々残念なことがありました」
私は、返す言葉を探した。
けれど、オルブライト様は首を横に振った。
「あなたが気にすることではありませんよ」
「……はい」
「ただ、ひとつお伝えしたかったのです」
彼は、穏やかに言った。
「妻のことを覚えていてくださって、ありがとう」
私は、深く頭を下げた。
「……こちらこそ、お話を聞かせていただき、ありがとうございました」
オルブライト様が担当者のもとへ向かったあと。
私は、しばらく受付簿を見つめていた。
手帳に書いたこと。
誰かの話を覚えていたこと。
それは、クラウス様のためだけにしてきたことではなかったのかもしれない。
私自身が、その人のことを知りたかった。
だから、覚えていた。
そして、それを喜んでくれる人がいた。
私は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
◇◆◇
翌日の夕方。
詰所へ向かう途中で、クラウス様に呼び止められた。
「エミリア!」
振り向くと、彼は険しい顔で立っていた。
「君の手帳は、どこにある」
「……手帳、ですか?」
「そうだ。夜会の出席者について書いていた、あの手帳だ」
私は、鞄に手を添えた。
「持っています」
「なら、返せ」
思わず、目を瞬かせた。
「……返す?」
「私の商談に必要な情報が書いてあるだろう」
私は、ゆっくり息を吸った。
「クラウス様。あの手帳は、私が書いたものです」
「そんなことはわかっている!」
「でしたら、なぜ返すのでしょうか」
クラウス様は、言葉に詰まった。
「君は、私の婚約者だっただろう」
「はい。以前は」
「なら、私を助けるのが当然じゃないか」
その言葉を聞いて、ようやくわかった。
この人は、今も私が隣にいると思っている。
何も言わずに頷き、必要なことを調べ、困った時には助ける。
そういう存在だと。
私は、鞄から一通の書類を取り出した。
「婚約解消の書類は、すでに受理されています」
クラウス様が、目を見開いた。
「……何?」
「両家の署名と、所定の手続きが済んでいます。先日、正式な通知をいただきました」
私は、書類をしまった。
「手帳は、私が書いたものです」
「エミリア……」
「これからは、ご自分でお相手の話を聞いてください」
私は、頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
クラウス様は、何か言おうとした。
でも、私は立ち止まらなかった。
怒鳴る必要はなかった。
言い返して、勝つ必要もなかった。
婚約は、終わっている。
手帳は、私のもの。
それだけで、十分だった。
◇◆◇
その夜。
私は、いつもどおり詰所の記録机に座っていた。
けれど、文字がなかなか書けなかった。
クラウス様と話した時、怖くなかったわけではない。
五年間、彼の機嫌を損ねないようにしてきた。
その癖は、簡単には消えない。
それでも。
今日は、自分の言葉で話せた。
私は、手帳の最後のページを開いた。
『今日は、自分のものを自分のものだと言えた』
そう書いた。
すると、扉が開いた。
「……エミリア」
ヴォルフ様だった。
「お疲れさまです」
「ああ」
彼は、いつもの椅子に座った。
机の上には、小さな砂時計。
けれど、今日はひっくり返さなかった。
「……ヴォルフ様?」
「今日は、報告がない」
「そうなんですか?」
「ああ。夜間巡回の報告は、もう済ませた」
私は、首をかしげた。
「では、どうしてこちらへ?」
ヴォルフ様は、少し考えた。
「……話をしに来た」
胸が、どきりとした。
「私と、ですか?」
「ああ」
彼は、砂時計を手に取った。
「最初は、三分も話せれば十分だと思っていた」
私は、黙って聞いた。
「長く話すと、相手を困らせると思っていた」
「……はい」
「だが、あなたと話すようになって、考えが変わった」
ヴォルフ様は、砂時計を私の机に置いた。
ひっくり返さずに。
「これは、もう要らない」
私は、砂時計を見つめた。
細いガラスの中で、砂は片側にたまったままだ。
「……よろしいんですか?」
「ああ」
彼は、少しだけ笑った。
「話したい時に、話したい」
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「私も、です」
◇◆◇
数日後。
私は、もう一度だけ路地裏の縁結び相談所を訪れた。
成田さんは、私の顔を見るなり、少し嬉しそうに笑った。
「エミリアさん。いらっしゃいませ」
『――お姉さん! また来てくれました!』
机の上で、ミドリちゃんが跳ねた。
「今日は、何かご相談ですか?」
「……お礼をお伝えしたくて」
私は、頭を下げた。
「教えていただいた聞き方を、試してみたんです」
「どうでした?」
「最初は、うまくできませんでした。でも、少しずつ話せるようになりました」
成田さんは頷いた。
「それは、よかったです」
「それに……」
私は、少し迷った。
でも、今なら言える気がした。
「私の話を、聞きたいと言ってくださる方ができました」
成田さんは、驚いたように目を丸くした。
それから、穏やかに笑った。
「それは素敵ですね」
「はい」
私は、胸の前で手を重ねた。
「でも、まだお互いのことを、よく知らないんです」
「でしたら、これから知っていけばいいんですよ」
成田さんは言った。
「急いで答えを出さなくても、話す時間を重ねることはできますから」
私は、深く頷いた。
「……はい」
店を出る時、ミドリちゃんが声をかけてくれた。
『――お姉さん! またお話、聞かせてくださいね!』
「ええ。今度は、私からもお話しするわ」
◇◆◇
その夜。
詰所の仕事が終わる頃、ヴォルフ様が迎えに来てくれた。
「……送っていく」
「ありがとうございます」
私たちは、並んで夜道を歩いた。
王都の街灯が、石畳を淡く照らしている。
私は、今日あったことを話した。
相談所へ行ったこと。
受付係長のスライムが、とても元気だったこと。
帰り道で、きれいな花を見つけたこと。
ヴォルフ様は、短く相槌を打ちながら聞いてくれた。
そして、私の話が途切れると、尋ねた。
「……それで?」
私は、思わず笑った。
「ヴォルフ様。それ、私がよく使う言葉です」
「……そうだったか」
「はい」
彼も、少し笑った。
しばらく歩いたところで、私は足を止めた。
「……あの、ヴォルフ様」
「何だ」
「私、話しすぎていませんか?」
昔の癖で、つい聞いてしまった。
ヴォルフ様は、立ち止まった。
そして、私を見た。
「……エミリア」
「はい」
「明日も、話を聞かせてくれるか」
私は、胸がいっぱいになった。
「……はい。もちろんです」
「明後日も?」
「はい」
「その次の日も?」
私は、笑ってしまった。
「そんなに、お話があるかしら」
「なくてもいい」
ヴォルフ様は言った。
「一緒に歩ければ、それでいい」
夜風が、頬をなでた。
私は、そっと頷いた。
「……私も、そう思います」
彼は、私に手を差し出した。
私は、その手を取った。
大きくて、温かい手だった。
かつて、私の話をつまらないと言った人がいた。
けれど、今。
私の話を、明日も、その先も聞きたいと言ってくれる人がいる。
ヴォルフ様は、つないだ手を少しだけ握った。
そして、私を見て言った。
「君の話は、一晩では足りない」
――完――
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