嬉しい時間(ネコ、すべり台、自動販売機)
今、僕は、神様でも仏様でも、となりのおじさんにだってさえ、とにかく感謝の気持ちでいっぱいだった。
どうして? それは、すごく単純だったけど、彼女が出来たからだった。
僕の彼女居ない暦二十五年にとうとう終止符が打たれた。 やってる事自体はこれまでと大して変わりはないけれど、朝、駅前で待ち合わせる様になったのは、気持ちの上ではとても大きな変化だった。
遠くから見ていると、彼女は、時としてまるで魂が抜けてしまったかの様な無表情で佇んでいる事があった。 けど、僕が手を振り、彼女が僕の存在に気が付くと、花が咲くような笑顔を浮かべて、手を振り返してくれた。
なので、僕は何の疑問も感じなかった。 彼女が障害を負っている事も、まして、心に深い傷を負っている事も感じることが出来ずにいた。
そうして、朝は毎日の様に待ち合わせて同じ電車に乗り、会社帰りも、お互いの都合がつくなら、時間を合わせて駅前の喫茶店に寄り、そして時には、駅から彼女の家までを、少し時間をかけて歩いて行ったりした。
月夜の晩など、二人の影が並んで伸びるのを見るのはくすぐったい感覚があった。
そして、何より変わったのは、休日の過ごし方だった。
これまで、部屋でごろごろするしか能がなかった僕だったけど、彼女とデートする様になったのだから、それこそ最高の休日って感じだった。
同じ中学出身なのだから、当たり前のようにお互いの自宅はせいぜい自転車で行き来できる距離で、思いついた時に電話して、近くの公園を一緒に歩く、なんて事をした。
ある日、公園を歩いていると、一匹のネコが昼寝をしていた。
ネコっていうのは、大抵は人見知りが激しくて、近付いていくと、ある程度の距離で警戒し始めて、さらに近付いていくと、身を翻して走り去ってしまう。
普通はそうだった。
けど、何故かそのネコは違った。
近付いても逃げないばかりか、僕たちが撫でると、のどを鳴らして、嬉しそうに目を閉じたりした。 それどころか、抱き上げても抵抗せず、思わず「おまえ、本当にネコか?」と疑問をぶつけてしまった。
それでも、そのネコが愛嬌たっぷりにしていたのは確かだった。
「この子、お腹すいてるんじゃない?」
彼女のそんな言葉に、近くの自動販売機でパック牛乳を買ってきて、僕の手から飲ませてみると、ぺろぺろと、一心不乱に飲んでしまった。
「あわてるなよ、まだあるから…」
必死になって僕の手をなめるネコが可愛くて、つい表情がゆるんだ。
「ほらあ、やっぱりお腹がすいてたのね。 この子、野良ネコなのかなぁ」
「そうかもね…。 うちで飼おうかな…」
それは何気なく言った事だった。僕の母親が割とネコは好きなはずだし、そんなに反対はされないだろう。って思いもあったし…。
「優しいのね…」
「え?」
突然のそんな言葉に、彼女に視線を向けると、何故か頬を染め、瞳に涙を浮かべた彼女が僕を見つめていた。
「ど、どうしたの…?」
突然の彼女の涙は、訳がわからなかった。
「な…、何でもないわ!」
彼女は突然そう言うと、急に走り出し、すべり台の上に駆け上がってしまった。
訳が判らなかったけど、でも、とにかく彼女を追った。 すべり台の上で僕に背中を向けてしまった彼女に向かって、僕は必死に話しかけた。
「ホントにどうしたの? 何か変なこと言った?」
けど彼女は、そんな僕の言葉などにはまるで構わず、突然振り向くと話し出した。
「ううん。 でも、怖いの」
「自分の気持ちが怖いの…、この気持ちが大きくなると、大きくなればなるほど、なくした時が怖い…。 あなたを信じたい、けど私は……。 なのに、気持ちが止まらない…」
その不思議な告白に僕は戸惑った。そして、その時初めて、彼女には何か事情がある事を感じた。だとしたら、僕は彼女を支えたかった。好きだったから。
「僕も怖い…。 でも…。 でも、君を好きな気持ちは止めたくない…」
そう言いながら、彼女のとなりまで登り、随分と迷ったけど、そっと彼女を抱き寄せた。実のところ、これまでも二人の気持ちは同じはず、そう感じながらも勇気が出せず、もう一歩を踏み出せずいた。
それを彼女がもどかしく感じてるだろうか? などと、色々考えたりしたけれど、考えれば考えるほど、どうすべきかなんて判らなくなって、結局どうする事も出来ずにいた…。
けどその時、やっと踏み出したのだった。
そうして、超オクテの僕は、やっと想いを告白し、その日は、記念すべき、僕たちが初めてキスを交わした日になった。
結局、ネコは彼女の方が飼う事になり、彼女に言う処によると。
「あのネコには、あなたと同じ名前を付けたから、あなたが私を怒らせると、私はあのネコにやつあたりするからね? だから、あのネコを大事に思うなら、私を大事にしてね?」
という事だった。
理屈はさっぱり判らなかったけど、僕も、彼女も、笑顔で一杯だった。