私はだれ?(影、月、海)
どこか遠いところで音がする。 誰かが私を呼んでいるのだろうか?
別に聞こえなくたって構わない。どうせろくな事じゃない。だから、何も聞こえなくても、何も困りはしない。そう考えてしまったせいだろうか? 私の耳は、あまり役に立たない。
ところで、私、誰だっけ?
鏡の中の自分に問いかける。
「あなた、どうしてここにいるの? どうしてまだ生きてるの?」
別に生きる目的なんかない。生きていく必要なんてない。けど、死のうとするのも面倒くさい。だから、とりあえず、積極的には死のうとはしない。それだけだった。
けど、月夜の晩など、自分の影にさえ怯えてしまう。
死ぬのは怖くない、そう言いながら何を怯えているのだろう? けど、その事を考えると、考えようとすると、激しい頭痛がする。
どこかの海、岩場と思われる光景が頭の中でフラッシュして、ただ頭が痛くなり、記憶が跳んでしまう。
なので、それ以上は考えられない。海で何かあったのだろうか? けど、それが何か思い出せない、どうすればいいのかも判らない。
まぁ別に、それもどうでもいいけど…。
そんな私でも、ただ生きていく為に、働く必要があった。 そして、働く、という事は私にとっても好都合な面はあった。
つまり、一日の時間をやり過ごすための暇つぶしだった。何の希望も持たない私にとって、つらい、という感覚はなかったので、何でも言われた通りにこなした。その為か仕事ぶりの評判はよかった。 そして、褒められた時には笑顔で「ありがとうございます」そう返すくらいの事はしていた。心の無い笑顔なら、笑顔に見える表情なら作ることが出来た。
人間関係を一定の状態に保つ事は、面倒ごとを遠ざける為に必要な事だったから。
ただ、その人間関係をその一定以上に踏み込む事はしなかった。
特に男性とは…。 あの時、感じていた幸福の頂点から一気に突き落とされる様な、突き落とされただけではなく、踏みにじられ、徹底的に打ちのめされた。
何があったのか、それは忘れた。いえ、忘れたい。二度と思い出したくない。
幸せさえ求めなければ、希望さえなければ絶望もないのだから…。
少なくとも、この間まではそう考えていた。
けど、その考えに変化が生じ始めた。
たまたま一本早い電車に乗った時だった。見たことのある男性がいると気が付いた。それは、確か中学校の時にちょっと気になっていて、一度だけ話したことがあったけど、卒業と同時に離れ離れになってしまい、なんとなく忘れていた人だった。
彼は周囲の事なんかまるっきり気にしてないみたいで、電車の隅で、壁にもたれてうつらうつらとしていた。 目を閉じるとあっと言う間に寝こけて、口からよだれが垂れてるのを見たとき、私は思わず笑ってしまった。 もちろん、声を出したりなんかしないけど。
自分でも気が付かない内に、あまりに自然に笑っていた。それは作られた笑顔ではなかった。心の底から湧き上がった微笑だった。
そう。そして何となく、その彼が気になった。
だから、私は朝の電車を一本早くした。
毎朝、彼の行動を見るのは楽しかった。どうやら、彼は駅までは自転車のようだった。自転車置き場の方から時間ギリギリに走りこんでくる姿を見つける度に微笑んでしまった。
そうして、しばらく時間が過ぎ、私が彼を見ていることに気が付いたのか、それとも全く別のきっかけなのか、いつしか彼から見られている様に感じるようになった。
そうなると、私としては逆に気恥ずかしくなった。けど、私はそんな状況を受け流す技術にかけては一日の長があった。自分の気持ちを抑え、表情を一定に保ったまま、平然と彼の目を見て、顔を見、そのまま一定の速度で視線を移動させていく。 そうやって、彼と目が合ってしまった時も平然とやり過ごしていた。
そう。その時すでに気が付いても良かったはずだった。長い間眠っていた。止まっていた私の時間が再び動き出している、という事に。
気持ちなんてなかったはずの私なのに、いつの間にか『抑えなければいけない気持ち』が生まれていた。 それが何時からなのか? はっきりと意識したのは、つい最近だった。
そして、私が自分のそんな心の変化を意識したのと前後するかの様に、彼が私に声をかけてきた。その瞬間、何よりも驚いたのは、私がそれを待ち望んでいた事だった。
彼なら私を救ってくれるんじゃないか? 私に、希望を持つ心を取り戻させてくれるんじゃないか?そう考えた。
つまり、私は彼を好きになり始めていた。
今、月夜の晩に歩く時、私の影に寄り添う様に歩く影がある。 時々影が重なるのを見ながら、私は穏やかな気持ちになれる。
これが、人を好きになるって事だろうか?
久しぶりに取り戻したその感覚に、人生を取り戻せる、そう感じ始めていた。