07. 約束 -Promise at Dawn
07. 約束 -Promise at Dawn
「……随分と、騒がせてくれたな」
玄関のドアが閉まった瞬間、家の中の空気が重く沈んだ。
低くて、感情を抑えた声。
慎は返事が出来ない。
大きな手が慎の顎を掴み、強引に顔を上げさせた。
慎の耳元に、吐息が近づき何かを囁く。
「……や、やだ。それは…」
その言葉に、慎は全身の血の気が引く感覚を覚える。
――また、同じ毎日が繰り返される。
✳︎
ワンボックスの窓に映る自分の顔は、どこかぼやけていた。
腫れが引いた頬も、殴られた跡がまだ薄く残る腕も全部……『昔の自分』を置き去りにしてしまった気がした。
施設に着いたその夜。
二段ベッドの下段に寝転び、低い天井の節目を指先でなぞる。
布団は清潔で、柔らかくて、家よりずっと安全なのに――胸の奥がひどくざわついて眠れなかった。
上段では、小学校高学年くらいの子が静かな寝息を立てている。
知らない子。知らない部屋。
でも、自分と同じで、この子もここに来る理由を抱えているんだと思うと、苦しくなる。
目を閉じると、慎の声がふっと浮かぶ。
――週末は、いつもの駅で待ってるから。
……慎兄、今なにしてるんだろう。
俺のこと、ちゃんと忘れないでいてくれるかな。
布団を握りしめる。
ここでは、殴られもしないし、怒鳴り声も聞こえない。
なのに、不思議と、救われた感じがどこにもなかった。
薄いカーテンから月明かりが差し込んでいる。
その光に向かって、そっと手を伸ばす。
届かない。
掴むうとするたび、慎との距離が思い出されて、心臓がぎゅっと掴まれる。
三日目の夜、ようやく少し眠れた。
それでも、夢の中で何度も、海の見えるあの駅に立っていた。
夏の匂い。潮風。
そして、慎の「大成」と呼ぶ声だけが、何度も波のように押し寄せてくる。
目が覚めたとき、頬が濡れていた。
泣いた理由なんて分かってる。
分かってるのに、言葉にしたら壊れそうで、誰にも言えなかった。
……週末になったら、行かなきゃ。
怒られても、職員に連れ戻されてもいい。
だってあの駅には、逃げた自分を見つけてくれた人がいる。
初めて、大成という名前を“ちゃんと呼んでくれた”人がいる。
それだけで、まだ生きていける。
✳︎
――大成は、どうにかやってるだろうか。
あれから三ヶ月、慎はまだ大成に一度も会えていない。
大成と出会ったあの海の見える駅で、街路樹を隔てるレンガの上に腰を下ろす。
目を開けると、冷たい秋の風が頬を撫でた。
まだ夢と現実の境目が曖昧に溶けた痛みが残っている。
大成は、まだ施設で暮らしているんだろうか。
それとも、別の優しい人に、出会ったのだろうか。
慎は目を伏せる。
本当の意味で……優しい人。
もしかしたら、俺と大成はもう会わない方がいいのかもしれない。
俺は、いつも――疫病神みたく自分と誰かを不幸にしている。
あの日、もし俺が大成にあんなことをしなければ…
遠くで声がする。
名前を呼ばれた気がして前を向くと、はじめて会ったあの日のように、制服姿の大成がこちらに手を振っていた。
「慎兄…!」
大成が三ヶ月ぶりに家に帰ると、部屋には姉が一人だけだった。
この姉とは、家族の中で一番長い付き合いだ。
「姉ちゃん…」
姉は大成を一瞥する。
「あんた……何で帰ってくんの」
姉は昼間なのに酩酊していた。
座卓の上には錠剤が散らばっている。
「姉ちゃん…」
大成は姉の背をさする。
俺が逃げていた間、この細い体であいつらと対峙していたんだ。
「何……気持ち悪いんだけど」
大成は畳に落ちていたカッターナイフをそっと手に取ると、ポケットに入れた。
誰かを守れる力がほしい。
それは、きっと逃げてるだけじゃ手に入らない。
かと言って、そう気付いたところで、現実はすぐには変わらない。
この鈍色の毎日を積み重ねて、生きていかないといけない。
途方もなく、面倒くさい。
慎と大成はひとしきり再会を喜び合った後、並んで歩く。
「慎兄…俺、謝らないとって……思って」
「謝る?」
慎は大成を見る。気のせいか、前よりも身長が伸びたような気がする。
癪だな。
「……なんか、言いづらいこと。わかってよ」
大成は恥ずかしそうに下を見て言う。
「ああ…。あのときの大成、悪い顔してた」
それを聞いて、大成は思わずその場でしゃがみ込む。
上から慎が笑いながら見下ろしている。
「別に気にしないでよ。原因つくったの…俺だし」
「大成、俺、大学生になったら……迎えに行くから。それまで待っててくれる?」
「……俺だって、いつまでもガキじゃないよ。
慎兄も、俺が行くの待ってて」
三ヶ月しか離れていないのに、なんだか頼もしい。
慎は、胸の中に広がる暖かさと共に、世界の見方がほんの少しだけ真っ直ぐに戻るのを感じる。
息を吐く。
「……うん」
秋の昼下がり、紅葉した葉が陽の光を受けて、輝いている。
08. エピローグ
――数年後。
慎は脱衣所の洗面台で顔を濡らすと、鏡に映る自分を見ようとする。
未だに自分の姿をまともに見られない。
瞼の裏に縫い付けられたように、暴力的で、痛みを伴う記憶。
手の感覚で剃刀で髭を剃り、化粧水を顔に含ませるとさっと髪に櫛を通す。
脱衣所の引き戸を閉めるとき、慎は息を吸い込む。
鏡には、いつももうひとりの自分が閉じ込められているようで。
「――大成、充電器、ちゃんと持った?」
「持ったってば!」
大成はアパートの玄関で、片足でスニーカーを履きながら言う。
「いつも忘れて俺に借りてるから言ってるの」
慎が手を差し出すと、大成はその手をしっかり掴む。
その瞬間目が合って、少しだけ照れ臭い。
慎はこの春で大学三年生になり、大成は社会人二年目だ。
約束と少しだけ違うけれど、大成の方が先に慎のことを迎えにきた。
大成は慎が思うよりずっと大人らしく考えていて、先に自分の就職が決まってから、二人で暮らした方がいいだろうと言ってきた。
慎は今すぐにでも家を出て一緒になりたかったが、同時に、あの夏の逃避行が頭を過ぎた。
東京へ向かう電車に二人並んで揺られる。
大成は流れていく景色をぼうっと見つめる。
すぐ隣には大好きな慎がいる。
いつからか『慎兄』と呼ぶのをやめた。
慎が弱い人間だと、分かるようになったからだと思う。
それは見下しているとか、期待はずれとかの類ではなく、自分が確かに慎をひとりの人間として見ることが出来るようになったから。
ただ愛を乞うことをやめた。
それも一重に慎のおかげだ。あの鬱陶しい夏の記憶こそが大成の気づきを促した。
求めるだけじゃ、何も掴めなかったから。
東京駅で高速バスに乗り換える。
「修学旅行以来かな?」
天井の棚に荷物を押し込めながら慎が話し出す。
「あのときはむしろ行きたくなかったな」
「俺たち、友だちいなかったからな」
慎が悪戯っぽい笑顔を見せる。
明日は慎の誕生日だからと、大成が温泉宿に誘ってくれた。
奥日光、中禅寺湖のほとりの宿。
部屋から湖が一望でき、初夏の湖面が穏やかに輝いている。
「すごいな、大成、ここ結構したんじゃない…?」
「だ、大丈夫」
大成の声が少し上擦る。
二人で、湖を眺める。
慎は大成の手に触れる。
大成もその手に指を絡める。
慎が口を開く。
「湖を見に行って…そのあとは、ゆっくりする?」
「ゆっくり、が先でもいいよ」
慎は顔を赤らめる。
それから、手を握ったまま二人向かい合って寄り添う。
窓の外の青に、二人の影が重なった。




