02. 兄弟 -Kindred
02. 兄弟 -Kindred
「もうやめて……やだ」
昨夜の記憶。
『誰か』の息遣いと湿った気配に、慎は全身を支配されていた。
寝室を、間接照明だけが静かに照らす。
ビデオカメラのレンズが、脚を開かされ拘束された慎の身体をじっと捉えている。
こんなことしたくない…。
慎は斜め下、自分の肢体とカメラが目に入らない方へ、顔を背ける。瞑った目にぎゅっと力が加わる。
「ほら、ちゃんと前見ろ」
いやだ…。
そのとき、あらかじめ取り付けられていた、グロテスクな玩具が激しく動き出す。
「うあぁ…っ」
頭を振って腰をよじる。
気持ち良くなんてない。
こんなこと、いつまで続けるんだろう……。
動かない頭で、考える。
浅く息をしながら、涙を溢さないよう上を向く。
『誰か』の気配がすぐ近くにある。
…気持ち悪い。恥ずかしい。どうしてこの人はこんな――
中を埋めていた玩具が一気に引き抜かれ、慎の思考が真っ白に中断された。
✳︎
大成と初めて会った日は、夏はもう少しだけ先だというのに、暑さですっかり体が汗ばんでいた。
昨夜の熱がまだ肌の奥に残っているようで、これ以上思い出さないように、慎は目をぎゅっと瞑る。
涼しさを求めて、二人で改札前のスーパーに入る。
冷房の風が頬をなでるたびに、体温が少しずつ戻ってくる。
「ああー!涼しい」
大成が大げさに笑う。
慎もつられて、ほんの少し口角を上げた。
まだ呼吸の仕方を探っているみたいに、二人の間に少しの間が生まれる。
「アイス、食べる?俺買ってくるよ」
慎は何となく目に入った冷凍ケースを見ながら言う。
「え、じゃあお金…」
大成が黒のショルダーバッグに手を掛けるのを、慎は制止する。
「俺の奢り。俺の方が年上なんだから」
大成の顔がぱっと明るくなる。
慎はその無邪気な笑顔を見て、自分も少しだけ、ぎこちない笑顔を作ってみせた。
✳︎
きのうかおととい…二日前か、三日前――。
大成は団地の部屋の隅に丸まっていた。
大柄の男が、襟元を掴み大成を立ち上がらせる。
「いや…、やだっ!ごめんなさい!」
すぐに拳が頬を打つ。
「叔父さん、いい加減にしないと、そいつ死んじゃうよ」
血の繋がらない姉がこちらを一瞥すると、夕飯の食器を片付けながらぶっきらぼうに言う。
大成は畳に転がりながら、縋るように姉を見る。
台所で水が流れる音と、食器が触れる音が重なってる。
「こいつせっかく正輝にやった小遣いパクりやがってよ」
正輝は大成の腹違いの弟だ。
「盗ってないっ!」
大成が泣きながら叫ぶと、腹に蹴りが飛ぶ。
身体を打ち付ける鈍い音と、大成の泣き声混じりの嗚咽が何度も繰り返される。
「…ったく、うっせぇんだよ。どいつもこいつも…」
姉が悪態をついてもう一度大成を見た。
「…姉ちゃん」
台所の蛍光灯がちらついた。
姉はもうこちらを見なかった。
言い様のない無力感。孤独が、大成の胸に染み付いていく。誰も大成を見ない。助けない。
✳︎
街路樹を隔てるレンガに座り、二人で棒付きアイスを食べながら話をする。そよ風のたびに、木々の影が二人の足もとを揺らした。
「くろねこさんは、家ってどんな感じ?」
「慎……でいいよ。俺、如月慎」
大成は嬉しそうな顔をする。
「俺、西原大成!」
「そのまんまだね」
慎はふっと笑う。
「だって、思いつかなくて」
――家、……か。
この人になら話せる気がする。お互いに、そう思う。
「学校と同じ…かな。自分だけ、そこにいないみたいな」
慎はアイスの棒に張り付いた最後の一欠片を口に入れる。
「大成は?」
「うん……。これ、家で殴られるんだよね」
慎は少しだけたじろぎながら、大成を見る。
その方がいいかと思って、気付かない振りをしていたのに。
「………」
慎は言葉を探す。
「あっ、まぁ、別に平気だけどね」
沈黙を破るように、大成は明るい調子で言う。
慎は大成の、袖からのぞく腕の痣にそっと触れる。
それから優しく撫でる。
「ごめん……」
慎の伏せた目に長いまつ毛が掛かる。
辛そうな顔。
「……あ、慎?」
慎は大成を見上げる。
白い肌色に掛かる長い前髪の黒が、妙に大成の心を揺すった。
「大成、血が滲んでる」
「あっ、ほんとだ。でもこれくらい――」
慎は大成の唇に人差し指を添える。
「ちゃんと手当しないと、痕がのこるよ」
それから、さっきのスーパーの横にあるドラッグストアで、絆創膏やガーゼを買う。
慎は不器用な手つきで絆創膏のシートを剥がすと、大成の腕に貼り付ける。
内出血がひどい箇所には、ガーゼを当てる。
「……ありがとう」
大成が照れながら小さく呟く。
「うん…」
慎の顔は、まだ辛そうだった。
「なんか、お兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなって思った」
「大成は、お兄さん欲しい?」
「そしたら俺、今日から大成のお兄さんになるよ」
大成はいきなりのことに驚いたように目を瞬かせる。
言葉の意味を頭の中で何度も繰り返す。
「いや……、かな」
「やじゃない!嬉しい!」
大成が慎の胸に抱き付く。
慎も大成も、心の隙間が少しだけ、温かい何かで満たされるのを感じていた。




