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積まれる死、送られる死

作者: TOMMY
掲載日:2025/12/01

人は誰かの死に向き合うとき、たくさんの命を積み重ねる。

手を合わせ、火をくべ、花を飾り、食べ物を並べる。

どうして人間の死だけが、こんなにも多くの儀式を必要とするのだろう。


葬式のために、花は切られ、食べ物は供えられて捨てられる。

それでも、誰も「もったいない」とはあまり言わない。

「そういうものだから」と納得してしまう。


豚の死を積み、魚の死を積み、花や木の死を積む──その山の頂で、人間は空へ旅立っていく。その光景は、まるで古代の埴輪や土偶が、死者の周りを囲んでいた名残のようだ。


私たちは誰のために、何を弔っているのだろう。日常のそれらを、よく考えてみれば、とても不思議だ。


尊い命を悼むための墓地で、先祖の墓石を整えるために、雑草を摘む。そしてカラスや動物を執拗に追い払う。


食事の前には、命に感謝を込めて「いただきます」と告げる。では、供物には何と言う? その手に込めているのは祈りか、それとも免罪か。


人間の死の前なら、他の死が許されるというなら、その線引きが曖昧になる気がしてならない。


もし別の動物が仲間の死を悼んで、他の命を供える儀式をしたなら、

きっと私たちは恐ろしさに身を震わせるだろう。

けれど、私たちはそれを「文化」と呼び、当然のように受け入れている。


死について、たくさん思考してきた。その悼みは理解しているつもりだ。しかし、いろんな死を知れば知るほど、慰霊碑に向けられる花や供物がどこからやって来て、どこに行くのかを想像しなくては気がすまなくなる。


なぜ人は、ひとつの死を送るために、こんなにも多くの命の終わりを重ねずにはいられないのか。

それは人の罪なのか。それとも、悲しみに耐えるための、どうしても手放せない手順なのか。はたまた「残された者」が生を握りしめるための仕組みなのだろうか。


人は、無数の小さな終わりを積み上げながら、

ひとつの終わりを、ようやく見送っているのかもしれない。


その終わりを積む手を、私たちはどこまで自覚しているのだろう。その手が今どこに向いているのか、ときどきわからなくなる。

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