積まれる死、送られる死
人は誰かの死に向き合うとき、たくさんの命を積み重ねる。
手を合わせ、火をくべ、花を飾り、食べ物を並べる。
どうして人間の死だけが、こんなにも多くの儀式を必要とするのだろう。
葬式のために、花は切られ、食べ物は供えられて捨てられる。
それでも、誰も「もったいない」とはあまり言わない。
「そういうものだから」と納得してしまう。
豚の死を積み、魚の死を積み、花や木の死を積む──その山の頂で、人間は空へ旅立っていく。その光景は、まるで古代の埴輪や土偶が、死者の周りを囲んでいた名残のようだ。
私たちは誰のために、何を弔っているのだろう。日常のそれらを、よく考えてみれば、とても不思議だ。
尊い命を悼むための墓地で、先祖の墓石を整えるために、雑草を摘む。そしてカラスや動物を執拗に追い払う。
食事の前には、命に感謝を込めて「いただきます」と告げる。では、供物には何と言う? その手に込めているのは祈りか、それとも免罪か。
人間の死の前なら、他の死が許されるというなら、その線引きが曖昧になる気がしてならない。
もし別の動物が仲間の死を悼んで、他の命を供える儀式をしたなら、
きっと私たちは恐ろしさに身を震わせるだろう。
けれど、私たちはそれを「文化」と呼び、当然のように受け入れている。
死について、たくさん思考してきた。その悼みは理解しているつもりだ。しかし、いろんな死を知れば知るほど、慰霊碑に向けられる花や供物がどこからやって来て、どこに行くのかを想像しなくては気がすまなくなる。
なぜ人は、ひとつの死を送るために、こんなにも多くの命の終わりを重ねずにはいられないのか。
それは人の罪なのか。それとも、悲しみに耐えるための、どうしても手放せない手順なのか。はたまた「残された者」が生を握りしめるための仕組みなのだろうか。
人は、無数の小さな終わりを積み上げながら、
ひとつの終わりを、ようやく見送っているのかもしれない。
その終わりを積む手を、私たちはどこまで自覚しているのだろう。その手が今どこに向いているのか、ときどきわからなくなる。




