第九話 予期せぬ後始末
激情のギルが、アイリスの言葉によって「自我崩壊」を起こしてから、半日が経過した。
砦の魔物たちは、指導者を失い、アイリスの前に完全に降伏。
彼女は騎士として、砦の武装解除と、捕虜たちの処遇の決定という、戦後処理に追われていた。
しかし、その任務は、予想だにしなかった障害によって、著しく難航していた。
「姉御! 朝餉の準備ができました! 昨夜、森で捕らえたばかりの新鮮な『森の主』であります!」
玉座の間に響き渡る、ギルの朗らかな声。
彼が引きずってきたのは、テーブルに乗り切らないほど巨大なイノシシのような怪物だった。
「…ギル殿。お気持ちはありがたいのですが、これは少し、大きすぎます…」
「なんと! 姉御の偉業を祝うには、これでも小さいくらいだと! さすがは姉御、スケールが違う! よーし、今からもう一頭狩ってくるであります!」
「待ちなさい! そういう意味ではありません!」
アイリスが必死に猪突猛進の元・魔王軍幹部を止めようとしていると、広間のあちこちで、新たな問題が次々と発生していた。
「ノン! なんて無粋なタペストリーだ! この玉座には、もっとこう、僕の美しさを引き立てる深紅の布が必要だね!」
ジーロスは、壁にかかっていた魔王軍の旗を引きずり下ろし、玉座のデコレーションを始めている。
「おい、そこの角付き! 正直に言え! この砦で一番高価なもんはどこに隠してあるんだ! 吐かねえと、てめえのその角をサイコロにしてやるぜ!」
テオは、降伏した魔物の副官に、品のない脅しをかけて宝のありかを聞き出そうとしている。
「アイリス様〜、見てください〜。厨房にあったキノコ、食べたらなんだか世界がキラキラしてきました〜」
シルフィは、明らかに毒キノコを食べて、ラリっていた。
アイリスは、ギルをなだめ、ジーロスを止め、テオを叱りつけ、シルフィに解毒薬を飲ませるという、騎士の任務とは到底思えない雑務に忙殺されていた。
(もういやだ…このパーティー…。神様、砦は奪還できましたが、このカオスな状況を、一体どうすれば…!?)
その頃、ノクトの自室では、数日ぶりに訪れた完璧な静寂と、勝利の余韻に満ちていた。
「マナ通信網、接続速度・安定性ともに最高値。素晴らしい」
彼は水盤に表示された魔力計のグラフを見て、満足げに頷いた。
砦から発せられていた邪悪な魔力は完全に消え去り、回線はサクサクと、驚くほど快適だ。
溜まっていたアップデートも、新作ゲームのダウンロードも、全て完了している。
机の端には、ダウンロードが完了した最新作『帝国興亡記VIII』の起動魔法陣が、誇らしげに輝いていた。
「ふぅ、一件落着。これでまた、快適な引きこもりライフが戻ってくる」
ノクトは大きく伸びをすると、椅子のリクライニングを最大まで倒した。
彼にとって、この「クエスト」は完全に終了したのだ。
後は、面倒な後始末を新人騎士に任せて、自分は極上の日常に戻るだけ。
彼は、アイリスとの精神感応を、一方的に断ち切ろうとした。
その、瞬間だった。
『―――神様! お願いです、まだいらっしゃいますか!? だ、大、大変なことになりました!』
切断しようとした回線の向こうから、アイリスの悲痛な叫びが、ノイズ混じりに飛び込んできた。
(…なんだ? まだ何かあるのか? クエストのクリア報告なんて、後でいいんだが…)
ノクトは、心底面倒くさそうに、再び遠見の水盤に意識を戻した。
そして、信じがたい光景を目撃する。
水盤の中では、あの牛頭の魔人ギルが、甲斐甲斐しくアイリスの肩を揉んでいた。
「姉御! 長旅でお疲れでしょう! このギルが、全身全霊で癒して差し上げますぞ!」
「ひっ…! や、やめなさい! 私はあなたの姉御ではありません!」
ノクトは、数秒間、完全に思考を停止させた。
(…なんだ、あれは)
状況が理解できない。
いや、理解したくない。
なぜ、倒したはずのボスキャラが、ヒロインの肩を揉んでいるんだ。そんなバグ、聞いたことがない。
『神様! 聞いてください! ギル殿が、私の舎弟になると言って、言うことを聞いてくれないのです! どうすればいいのでしょうか!?』
アイリスの悲鳴で、ノクトは我に返った。
そして、最悪の可能性に思い至る。
(…まさか、あのまま王都に連れて帰る気か? 魔王軍幹部を? 正気か、この新人は!)
そんなことをすれば、王宮は大騒ぎになる。
査問会だの、事情聴取だの、面倒くさいことになるのは火を見るより明らかだ。
そして、その騒動は、間違いなく自分の元へも飛び火してくる。
彼の安眠が、再び脅かされようとしていた。
『…いいか、新人。落ち着いて聞け』
ノクトは、できる限り冷静な声を装って、アイリスに思考を送った。
『そのギルの処遇など、どうでもいい。砦の機能を完全に停止させ、捕虜たちを解放したら、お前はさっさと帰還しろ。奴は、そこに置いてこい』
最も効率的で、最も波風の立たない、完璧な指示。
だが、アイリスは、初めて神の言葉に、はっきりと反論した。
(そ、そんなこと、できるわけありません! 降伏した者を、理由なくこの地に置き去りにするなど、騎士の誇りが許しません!)
『お前の誇りなど知ったことか。俺の安眠より価値があるとでも言うのか?』
ノクトの苛立ちが、直接アイリスの脳を揺らす。
しかし、アイリスも一歩も引かなかった。
彼女にとって、それは絶対に譲れない一線だった。
二人の思考が、激しく火花を散らす。
その時、二人の会話(もちろん、アイリスが一人で苦悶しているようにしか見えないが)を見ていたギルが、悲しそうな顔で口を挟んだ。
「…姉御。俺のこと、やっぱり迷惑だったんでやすか…? 俺、ここに捨てられちまうんで…?」
巨体をしょんぼりと縮こまらせ、潤んだ瞳でアイリスを見上げる元・魔王軍幹部。
その姿は、雨の日に捨てられた、巨大な子犬のようだった。
「うっ…!」
アイリスは、情に訴えかけるその姿に、言葉を詰まらせる。
その全てを、ノクトは見せつけられていた。
(……面倒くさい……面倒くさすぎる……!!!)
彼は、頭を抱えた。
クエストはクリアしたはずなのに、新たな想定外事態のせいで、最高に面倒な「後始末イベント」が、強制的に始まってしまったのだった。