第四十九話 真の神との対面
光の奔流が止んだ時、アイリスたちが立っていたのは、もはや禁書庫ではなかった。
そこは、始まりも終わりもない、無限の空間だった。
床は磨き上げられた鏡面で、自分たちの姿と、頭上に広がる、本物の星々がきらめく宇宙を映している。
空気はなく、しかし呼吸はできる。
音はなく、しかし思考は伝わる。
世界の法則そのものが、作り変えられたかのような、絶対的な静寂と、荘厳な美しさが支配する空間。
「…ここは…」
ジーロスが、初めて、自らの芸術論を忘れて、呆然と呟いた。
ギルは、姉御であるアイリスを守るように、その前に立ちはだかる。
ゼノスは、魔王としての本能で、この空間の主が放つ、底知れぬ魔力に、ただ震えていた。
(神様…! 神様! 聞こえますか!?)
アイリスは、心の内で、必死に呼びかけた。
だが、返事はない。
これまで、どんな時も彼女を導いてくれた、あの不遜で、怠惰で、しかし絶対的な安心感を与えてくれた声が、完全に、途絶えていた。
ノクトとの繋がりが、断ち切られたのだ。
彼女の心に、初めて、本当の孤独と、絶望が、冷たい霧のように立ち込めた。
『―――ようこそ、我が遊戯盤へ。哀れで、勇敢な、駒の諸君』
声は、空間そのものから響いた。
男でも、女でもない。
老いても、若くもない。
ただ、絶対的な存在だけが持つ、感情のない、美しい響き。
星空の中心が、ゆっくりと、人の形を取り始める。
その声に応えるかのように、彼らが立つ鏡面の遥か前方、空間の中心とおぼしき場所が、ひときわ強く輝き始めた。無数の星屑が、まるで意思を持ったかのように、その水平線上の一点へと引き寄せられ、渦を巻いていく。
やがて、その光の渦は、一つの壮麗な形へと収束した。
―――光で編まれた、巨大な王座。
そして、その玉座の上に、残った光の粒子がゆっくりと集まり、人の形を、銀色の髪を、そして、全てを見下ろす退屈そうな瞳を、形作っていった。
混沌の神。
この世界の、運営者。
『君たちには、心から、感謝しているよ。本当に、楽しませてもらった』
神は、心から、そう言っているようだった。
『魔王を倒すのではなく、経営コンサルで更生させる聖女。金とスリルで、平気で雇い主を裏切る神官。いやあ、私の想定を超えた、素晴らしいエンディングだった。このゲームの、最終章にふさわしい』
「ゲーム、だと…?」
アイリスが、震える声で、絞り出す。
『そうだよ。君たちの、命も、悲しみも、喜びも、全てが、私の退屈を紛らわすための、最高の娯楽だった。だが、どんなに面白いゲームも、いつかは飽きる。だから、破壊する。そして、また、新しいゲームを、始めようと思うんだ』
彼は、まるで子供が、遊び飽きた玩具を捨てるかのように、無邪気に、そして、残酷に、告げた。
『君たちは、最後のプレイヤーとして、この世界の終焉を、特等席で見せてあげる。それが、私から君たちへの、最大限の、感謝のしるしだ』
絶望。
その一言が、その場の全てを、支配した。
仲間たちは、あまりに巨大すぎる、絶対的な存在を前に、戦う気力さえ、失っていた。
剣も、魔法も、届かない。
そもそも、戦うという概念そのものが、この神の前では、意味をなさない。
アイリスもまた、その場に、膝から崩れ落ちそうになった。
(…もう、だめだ。ノクトが、いない。私には、何もできない…)
彼女は、ただの、新人騎士だった。
聖女でも、英雄でもない。
ただ、神の声に導かれて、ここまで来ただけの、操り人形。
糸が切れた今、彼女には、もう、立つことさえ、できなかった。
その時だった。
彼女の脳裏に、これまでの旅路が、走馬灯のように、蘇った。
―――『姉御! このギル、生涯をかけて、姉御に尽くしやす!』
自分の言葉を信じ、どこまでも真っ直ぐに、ついてきてくれた、不器用な舎弟の顔。
―――『ノン! 君こそが、僕の真のプロデューサーだ!』
自分の言葉に、新たな芸術の可能性を見出し、目を輝かせていた、ナルシストの顔。
―――『ひひひ…。あんたの船は、退屈しねえ』
自分の言葉がもたらす、予測不能なスリルに、心から楽しそうに笑っていた、不徳の神官の顔。
―――『森が、あなたを、信じろと、言っています』
自分の言葉を、ただ、純粋に信じてくれた、心優しきエルフの顔。
彼らは、ノクトを信じていたのではない。
彼らは、ノクトのお告げを代行する「聖女アイリス」を、信じてくれていたのだ。
そして、いつしか、自分も、ノクトの操り人形であることを、忘れ、リーダーとして、彼らを導こうとしていた。
あの、真の神に反旗を翻した、作戦会議。
仲間を、見捨てたくない。
その想いは、ノクトから与えられたものではない。
紛れもなく、自分自身の、心からの叫びだった。
(…私は、操り人形なんかじゃ、ない)
アイリスは、震える足で、ゆっくりと、立ち上がった。
彼女は、剣を抜き、その切っ先を、目の前に座す神へと、まっすぐに、向けた。
その瞳に、もはや、迷いも、恐怖もなかった。
「…あなたのゲームは、もう終わりです」
その声は、まだ、か細く、震えていた。
だが、その声には、確かな、意志の光が宿っていた。
「私たちは、あなたの、駒じゃない。自分の意志で、ここに立っている!」
その、あまりにも無謀な、しかし、あまりにも真っ直ぐな宣言に、仲間たちが、はっ、と顔を上げた。
彼らの目に、再び、光が宿る。
「姉御…!」
「フン、面白い。最後まで、美しく足掻こうじゃないか」
「ひひひ…! 神相手に、大博打か! 最高に、燃える展開だぜ!」
彼らは、それぞれの武器を、構え直した。
もはや、彼らを率いるのは、ノクトの声ではない。
目の前で、たった一人、神に立ち向かおうとする、一人の、聖女の背中だった。
『…面白い』
神は、初めて、その表情を、変えた。
退屈そうな笑みが消え、純粋な、好奇の光が、その瞳に浮かんでいる。
『操り糸が切れた人形が、自らの意志で、踊り始めたか。いいだろう。見せてみろ。君たちの、最後の、無様なダンスを』
アイリスは、振り返り、仲間たちに、叫んだ。
それは、彼女が、初めて、自らの意志で下す命令だった。
「―――全員、総攻撃! 私に、続いてください!」
その頃、ノクトは、自室の塔で、水盤に何も映らなくなった後も、じっと、その表面を、見つめていた。
彼の顔には、焦りと、苛立ちと、そして、ほんのわずかな、期待の色が、浮かんでいた。
(…アイリス。お前は、俺が育てた、最高のキャラクターだ)
彼は、まるで、祈るように、呟いた。
(…クリア、してみせろ。この、理不尽な、クソゲーを)
彼の不本意な英雄譚の、本当の結末は、今、彼の手を離れ、一人の少女の、その両肩に、託された。




