第三十七話 最高の戦利品
魔王城、最下層。
そこは、上層階の、どこか生活感と疲弊感の漂う雰囲気とは、全くの別世界だった。
ひんやりと、澄んだ空気が肌を撫でる。
壁は、人の手によるものではない、自然の岩盤がそのまま利用されており、その表面には、長い年月の間に、魔力を含んだ水滴が、鍾乳石のような美しい模様を描いていた。
一行を案内するのは、もはや魔王の威厳などかなぐり捨てた、見た目はただの人の良い中年男性、ゼノスその人だった。
「…この先だ。初代英雄が、先代魔王を封じたという、禁断の間だ」」
彼の声には、この場所に対する、純粋な畏敬の念がこもっている。
アイリスは、ごくり、と喉を鳴らした。
世界の歴史が、大きく動いた場所。
その中心へと、今、自分は足を踏み入れようとしている。
仲間たちもまた、それぞれの思いで、この荘厳な空間を見上げていた。
「ノン! この建築様式…古代ドワーフ族のものか! 無骨でありながら、計算され尽くした構造美! まさに、用の美の極致だね!」
ジーロスは、芸術家としての興奮を隠せないでいた。
「ひひひ…これだけ厳重に封印されてるってことは、とんでもないお宝が眠ってるに違いねえぜ…」
テオの目は、いつも通り、物欲の色に輝いている。
その中で、シルフィだけが、どこか不安そうに、一点を見つめていた。
「…なんだか、とても、悲しい力が眠っている気がします…」
彼女の、エルフとしての鋭い感受性が、この場所に残された、古代の闘いの記憶を、感じ取っているのかもしれない。
やがて、一行は、最深部にたどり着いた。
そこは、巨大な円形のドーム状の空間になっていた。
天井には、巨大な魔法陣が、今もなお、青白い光を放ち続けている。
初代英雄が遺した、大封印術。
そして、その魔法陣の、ちょうど真下。
空間の中央に、一つの、石造りの台座があった。
そこに、それは、あった。
ぽつん、と。
何の変哲もない、一つの、枕が。
豪華な装飾があるわけではない。
禍々しいオーラを放っているわけでもない。
ただ、月光のような、柔らかな銀色の布地でできた、ふかふかとして、極上の寝心地を約束してくれそうな、ごく普通の、しかし、最高級の枕が、そこにあった。
『…あった』
アイリスの脳内に、今まで聞いたこともないような、熱に浮かされた、歓喜の声が響いた。
それは、もはや「神」の声ではなかった。
長年探し求めた、お目当ての限定グッズを、ついに見つけた、一人のオタクの、魂の叫びだった。
『あれだ…! あれが、「夢織りの枕」…! 見ろ、あの完璧なフォルム! あの、ふかふかとした質感! そして、いかなる悪夢も安眠に変えるという、伝説の寝心地…!』
アイリスは、脳内に響き渡る、あまりの熱量に、若干、引き気味だった。
彼女は、ノクトの、興奮しきった指示に従い、ゆっくりと、台座に近づいた。
そして、その枕を、そっと、両手で、持ち上げた。
ふわり、と。
羽のように軽く、そして、吸い付くように、手に馴染む。
その瞬間、アイリスの脳内で、ノクトが、人生最大級の、勝利の雄叫びを上げていた。
『手に入れたぞぉおおおおおおおおおおっ!!!』
その、あまりにも平和な光景に、魔王ゼノスは、完全に、呆気にとられていた。
「…え? あの…師匠?」
彼は、恐る恐る、アイリスに尋ねた。
「あなた様が、命を懸けて、この魔王城の最深部まで、求めてきたものとは…その、枕、で、ございますか…?」
「はい」
アイリスは、ノクトの歓喜の余韻が残る頭で、こくり、と頷いた。
「…ま、枕…?」
ゼノスは、膝から、崩れ落ちそうになった。
自分の、長年の悩み。
魔王軍の、経営不振。
娘との、確執。
その全てを、この聖女は、解決してみせた。
その、最終目的が、ただの、安眠用具だったという、この、矮小な結末。
「…ははは…」
乾いた笑いが、彼の口から、漏れた。
「そうか…枕か…。もう、世界征服など、どうでもいいな…」
彼は、何か、大きなものから、解放されたかのように、すっきりとした顔で、天を仰いだ。
魔王による世界征服は、うやむやのうちに、回避された。
歴史上、最も気の抜ける形で。
こうして、アイリス分隊の、本来の目的は、達成された。
『新人、任務完了だ。帰るぞ』
ノクトは、最高に、上機嫌だった。
『これより、王都へ帰還する。魔王城の改革プロジェクトは、ゼノスに丸投げしておけ。我々は、もう、関係ない』
(は、はい…!)
アイリスは、安堵のため息をついた。
長かった、この、奇妙な旅も、ようやく、終わる。
彼女は、最高の戦利品を、大事そうに抱え、仲間たちと共に、地上へと戻るべく、踵を返した。
人間と、魔物。
その、長きにわたる戦いの歴史に、一つの、奇妙な終止符が打たれた。
世界は、英雄の剣でも、聖女の祈りでもなく、一人の引きこもりの、不純すぎる動機によって、ひとまずの、平和を取り戻したのだった。
その頃、ノクトは、塔の自室で、最高の笑顔を浮かべていた。
「ふふふ…。今夜からは、この枕で、八時間分の睡眠を、十分でチャージできる。つまり、俺の自由時間は、七時間五十分も増える、ということだ…!」
彼は、これから始まる、完璧な引きこもりライフの、再開を夢見て、ほくそ笑んだ。
この世界の、本当の危機が、すぐそこまで迫っていることなど、今の彼が、知る由もなかった。




