第三十二話 魔王との対面
アイリス分隊は、魔王城の玉座の間を目前にしていた。
扉の向こうから聞こえてくるのは、世界の終焉を告げる邪悪な呪文ではない。
あまりにも生活感に満ちた、父と娘の、くだらない親子喧嘩だった。
(…え? これが…魔王…?)
アイリスの脳裏に、最大の疑問符が浮かぶ。
その時、彼女の脳内に、苛立ちを隠せないノクトの声が響いた。
『…もういい。茶番は終わりだ。突入するぞ』
彼の目的は、ただ一つ。
この城のどこかにあるはずの、「夢織りの枕」。
そのためなら、魔王だろうが、ただの父親だろうが、関係ない。
『ギル、扉を破れ』
「御意!」
ギルは、その巨大な黒曜石の扉に、渾身の力で、肩からぶつかっていった。
ゴオオオオン!!!という、城全体が揺れるほどの、凄まじい轟音。
分厚い扉が、蝶番を弾き飛ばし、広間の中へと、吹き飛んでいく。
アイリスは、砂塵の中、剣を構え、決め台詞を叫ぼうとした。
しかし、彼女が口を開くよりも早く、玉座の前から、甲高い絶叫が響き渡った。
「ば、馬鹿者ぉおおおおおっ!」
魔王ゼノスは、侵入者そっちのけで、吹き飛んだ扉の残骸を指差し、憤慨している。
「我が玉座の間の扉が! ソレは、特注品の黒曜石で出来ていて、一枚で飛竜が一頭買える値段なのだぞ! 弁償しろ! 今すぐ弁償しろぉ!」
その、あまりに威厳のない姿に、アイリスは、決め台詞を叫ぶタイミングを、完全に失っていた。
「…何?この人たち…」
ゼノスの横で、娘のディアナが、心底、軽蔑したような目で、アイリスたちを一瞥した。
「その鎧、全然可愛くない。パパ、ああいうダサい格好の者は、玉座の間には入れないでって言ったでしょ!」
アイリス分隊は、完全に、毒気を抜かれていた。
ゼノスは、はぁ、はぁ、と肩で息をしながら、ようやく、侵入者たちの顔をまともに見た。
「…ああ、君たちが、ギルを倒したという、『聖女』一行かね。君たちのおかげで、ただでさえ厳しい我が軍の財政は、火の車だよ。あの砦の修理費、誰が払うと思っているんだ」
彼は、悪の首魁の演説ではなく、ただの、部長クラスの愚痴を、こぼし始めた。
「ギルは報告書も出さずに敵に寝返るし、レイラは勝手に領地を氷の公園に改造し始めるし、ミストは『サプライズ用の小道具』と称して意味不明な備品の経費申請ばかりしてくるし…。もう、やってられんよ…」
アイリスは、剣を構えたまま、かける言葉を、失っていた。
だが彼女は、自らを、そして、この場の空気を、断ち切るように、叫んだ。
「問答無用! 世界の平和のため、あなたを、討ちます!」
そして、ゼノスに向かって、一直線に、突撃した。
ゼノスが、面倒くさそうに、防御魔法の詠唱を始める。
だが、アイリスの剣が、彼に届くことはなかった。
一人の男が、二人の間に、滑り込み、その剣の刃を、二本の指で、寸分の狂いもなく、挟み止めていたからだ。
「―――テオ殿!?」
アイリスは、信じられない光景に、目を見開いた。
テオは、ただ、彼女の剣をつまんでいる。
だが、その剣は、まるで、鋼鉄の万力に挟まれたかのように、微動だにしなかった。
アイリスが、全身の力を込めても、引くことも、押すことも、できない。
ただの神官。
ただの賭博師。
そのはずの男が、王国騎士である自分の、渾身の一撃を、指先二本で、完璧に、封殺している。
「…て、てめえ、姉御に何しやがる!」
ギルが、その異常事態に、戦斧を構える。
ジーロスとシルフィも、驚きに、目を見開いていた。
テオは、やれやれ、と、首を振った。
「どっちも、俺の雇い主だ。あんたらの喧嘩に、俺を巻き込むんじゃねえよ」
彼は、ゼノスに向き直った。
「魔王様。潜入任務は、これにて完了です。見ての通り、連れてきましたぜ、聖女様ご一行を」
そして、アイリスに向き直った。
「で、聖女様。こいつが、俺たちの最終目標だ。どうする? やっちまうのか?」
ゼノスは、混乱していた。
「テオ! お前、なぜ、こいつらの味方をするような口を…」
アイリスは、裏切りに、声を震わせた。
「テオ殿! あなたは、魔王軍の…!」
「ストップ、ストップ」
テオは、両手を広げ、二人を制した。
「俺は、どっちの味方でもねえよ」
彼の顔には、いつもの、胡散臭い笑みが、浮かんでいた。
「魔王様、あんたは、俺に『英雄の懐に潜り込め』と言った。報酬は、金貨千枚。聖女様の頭の中にいる誰かさんは、俺に『魔王を倒せ』と言っている。報酬は、古代王家の財宝。俺は、賭博師だ。より、割りのいい方に、賭けるのが、俺の主義でね」
彼は、アイリスと、魔王ゼノスを、値踏みするように、交互に見た。
「さあ、交渉の時間だぜ、魔王様、そしてそこの『神様』。俺を、この最強の戦力を、完全に味方につけるには、いくら、払う?」
最悪の、三つ巴。
アイリス分隊の仲間たちは、この、あまりの展開に、ついていけていない。
ただ一人、ノクトだけが、全てを、理解していた。
そして、彼の脳内は、今、人生で、最大級の、怒りに、燃え上がっていた。
(…この、クソ賭博師が…!)
彼の声は、怒りで、震えていた。
(俺の、俺の枕探しの、最後の、最後で! 最高に、面倒事を、増やしやがって…!)
彼の不純な作戦は、味方であるはずの、最大のイレギュラーによって、破綻の危機に、瀕していた。




