第二十五話 氷の森のピクニック
魔大陸を進むアイリス分隊の前に、新たな風景が広がった。
ねじくれた枯れ木は姿を消し、代わりに、全てが氷の結晶で作られた、ガラス細工のような森が、月光を浴びて青白く輝いている。
それは、死の世界でありながら、同時に、常軌を逸した美しさをたたえていた。
「…なんて、素晴らしいんだ」
ジーロスが、うっとりとため息を漏らす。
「これは、レイラとか言ったかな。彼女の芸術作品だ。この森そのものが、彼女の美術館なのだよ」
「呑気なことを言っている場合か」
テオが舌打ちする。
「この濃密な魔力、一歩間違えれば、俺たちもあの氷像の仲間入りだぜ」
その時、アイリスの脳内に、ノクトの、どこか楽しそうな声が響いた。
『その通りだ、新人。我々は、今、観客として、レイラの劇場に招き入れられた。ならば、こちらも、役者として、最高の演技を披露してやろうじゃないか』
(パフォーマンス…? ですか?)
『ああ。これより、対レイラ戦、第二段階に移行する。題して「可愛いもので心を乱せ」作戦だ』
ノクトの作戦は、アイリスの理解を、いつも通り、遥かに超えていた。
氷の森を進むと、道の脇に、精巧な氷の動物たちが、まるで生きているかのように佇んでいるのが見えた。
小鳥、ウサギ、鹿。
それらは、レイラの監視用の使い魔だった。
『いいか、全員、今から俺の指示通りに動け。これは、戦闘だ』
ノクトの、奇妙な戦闘指示が始まった。
『まず、ギル。お前の出番だ』
ギルは、道端で震えている、小さな氷の精霊を見つけた。
敵意はない、ただの弱い魔物だ。
「姉御! こいつ、やっちまっていいですかい!?」
『馬鹿者。殺すな』
ノクトの声が、アイリスを通じて飛ぶ。
『その精霊を、両手で、優しく、包み込んでやれ。そして、お前の体温で、少しだけ、温めてやれ』
「…は? はあ…」
ギルは、戸惑いながらも、その巨大で、節くれだった手で、小さな精霊を、そっと包み込んだ。
彼の無骨な手のひらの中で、小さな精霊は、最初は驚いていたが、やがて、その温もりに、安心したように、身を寄せた。
ギルは、その精霊を、近くにあった氷の華の上に、そっと、逃がしてやった。
その一部始終を、氷の動物たちが、じっと、見ていた。
『次だ、ジーロス、アイリス、ゼファー』
ジーロスが、指を鳴らす。
彼の指先から、蝶のように、キラキラと輝く、小さな光の玉が生まれた。
『新人、ゼファーに、あれを追わせろ。じゃれさせろ』
「ゼファー、おいで!」
アイリスが声をかけると、巨大なグリフォンは、まるで、子猫のように、その光の玉にじゃれつき始めた。
ゴロゴロと喉を鳴らし、巨大な前足で、光の蝶に、じゃれつく。
その姿は、魔獣の威厳など微塵もなく、ただ、無邪気で、愛くるしい、巨大なペットのそれだった。
『次はシルフィの番だ。新人、シルフィに、森の氷の枝をいくつか集めさせろ。そして、それで冠を作らせろ』
シルフィは、器用な指先で、キラキラと輝く氷の枝を編み上げ、可憐な、氷の冠を作り上げた。
『よし。それを、ギルの頭に乗せろ』
「ええっ!?」
アイリスとギルが、素っ頓狂な声を上げる。
「姉御! 俺の頭に、こんな、女子みてえなものを!」
『いいからやれ。これは、作戦だ』
ギルは、涙目になりながらも、その巨大な頭に、シルフィが作った、可愛らしい氷の冠を、ちょこんと乗せた。
強面で、筋骨隆々の大男と、可憐な氷の冠。
その、あまりにもシュールな光景を、氷の動物たちは、やはり、じっと見ていた。
その頃。
遥か北にある、氷の城の一室。
魔王軍四天王、「氷の人形遣い」レイラは、巨大な水晶の鏡に映る光景を、無表情に、見つめていた。
「……」
最初に、ギルが、氷の精霊を助けた時。
彼女の、完璧に整えられた眉が、わずかに、ピクリと動いた。
(…野蛮な魔人のくせに。下らないことを…)
次に、ゼファーが、光の玉と、子猫のようにじゃれ始めた時。
彼女の、血の気の失せた、白い頬に、ほんのりと、朱が差した。
(な…なんて、愛らしい…! いけないわ、ゼファーは私の完璧なコレクション。あんな、はしたない姿…!)
そして、ギルが、氷の冠を、頭に乗せられた時。
彼女の心の中で、美学と、別の何かが、激しく衝突した。
(醜悪な男に、可憐な冠…! 美的センスの欠片もない! …だ、だが、この、ミスマッチ感…! なぜか、目が、離せない…!)
彼女の冷静さは、少しずつ、だが、確実に、乱れ始めていた。
『…食いついたな。とどめだ』
ノクトの、冷たい声が、アイリスに届く。
『新人、全員に命令。今すぐ、ピクニックを始めろ』
「…………はい?」
(ぴ、ぴくにっく、ですか…!? この、敵地の、ど真ん中で!?)
『そうだ。これは、最終兵器だ』
アイリスは、もはや、思考を放棄した。
彼女は、指示通り、分隊員たちに、ピクニックの準備をさせた。
ギルが、器用な手つきで、布を広げる。
テオが、聖書を読み上げながら、干し肉とチーズを、綺麗に並べていく。
ジーロスが、食事が美味しく見えるように、暖色系の、柔らかなムード照明を、魔法で作り出す。
そして、一行は、氷の森のど真ん中で、和やかに食事を始めた。
「姉御! この干し肉、うめえでありますな!」
「ノン! この照明! 我ながら、最高の出来栄えだ!」
その、あまりにも平和で、あまりにも場違いな光景。
レイラは、水晶の鏡に映るその光景に、ついに、我慢の限界を超えた。
「許せない…!」
彼女の、静かな声が、氷の間に響き渡る。
「私の、美しく、冷酷な、芸術の世界で…ピクニックですって…!? ふざけないで…!」
彼女の感情が、激しく、高ぶる。
「そして…! そして…! なんて…尊いの…!」
完璧な美と、完璧な秩序を愛する彼女にとって、その、あまりにも平和で、愛らしい光景は、猛毒だった。
彼女の魔力が、制御を失って、荒れ狂う。
その瞬間、彼女が展開していた、全ての監視用の氷の動物たちが、一斉に、ピキ、ピキ、とひび割れ、砕け散った。
そして、彼女の居城から、魔力のパルスが、空へと放たれた。
その、微弱な、しかし、決定的な魔力の乱れを、ノクトは、見逃さなかった。
彼の塔にある、魔大陸の地図の上に、一つの、赤い点が、灯る。
『…見つけたぞ、人形の家』
アイリスの脳内に、満足げな声が響いた。
『全軍、食事中断。進路変更。これより、人形遣いの工房を、直接叩く』
アイリスは、口に含んだチーズを、危うく、吹き出しそうになった。
可愛いもので、敵の心を乱し、その隙に、居場所を特定する。
これが、ノクトの、対レイラ戦の、全容だった。
(…敵の弱点を突く。戦いの基本だ)
ノクトは、一人、自室で、頷いていた。
(相手が「可愛いもの好き」なら、こちらも、全力で可愛くなるまでだ。実に論理的な作戦だったな)
彼の、あまりにも歪んだ論理は、今、また一人、魔王軍の幹部を、破滅へと導こうとしていた。




