第二十三話 魔王城への道
ノクトによる地獄の特殊訓練が終わりを告げ、アイリスたちは、つかの間の休息を与えられた。
来るべき魔王城への潜入任務に備え、「装備のメンテナンスを行え」というのが、ノクトからの指示だった。
もちろん、その指示を、まともに受け取る仲間は、誰一人としていなかった。
アイリスは、自室で、黙々と愛剣の手入れをしていた。布に油を染み込ませ、刃を磨き、柄の革を確かめる。この、無心になれる時間だけが、騎士としての自分を取り戻せる時間、今の彼女にとって、唯一の安らぎだった。
その隣で、ギルも、巨大な戦斧を熱心に磨いていた。
「姉御! このギル、準備万端であります! 姉御の進む道に立ちふさがる全てのものを、この斧で微塵切りにしてご覧にいれましょう!」
彼は、アイリスの分の武具まで、ピカピカに磨き上げてくれていた。
その忠誠心はありがたいが、彼女の予備の兜は、磨きすぎたせいで、鏡のように光を反射し、もはや隠密行動には全く使えない代物と化していた。
一方、ジーロスは、武器の手入れなどには一切興味を示さなかった。
「フン、戦いの準備かね? 結構なことだ。だが、僕にとっての準備とは、最高のパフォーマンスのための、イメージトレーニングに他ならない」
彼は、部屋に持ち込んだ巨大な鏡の前で、来るべき魔王城での戦いを想像し、「我が名はジーロス! 美を司る魔術師なり!」などと、決めポーズの練習に余念がない。
その手には、戦闘用の杖ではなく、光を乱反射させるための、お洒落なプリズムが握られていた。
テオは、早々に城を抜け出し、城下町の裏通りへと足を運んでいた。
「へっへっへ…旦那、いいブツは入ったかい?」
「おう、テオ様よ。あんたのために、とっておきを用意しといたぜ」
彼が闇商人から仕入れていたのは、ポーションや解毒薬などではない。
複数枚のカードが、巧妙に一枚に貼り合わされたイカサマカードや、重心が偏ったサイコロなど、彼の「交渉術」に不可欠な装備の数々だった。
彼にとって、戦いの準備とは、いかに相手を出し抜くかの、仕込みの時間なのだ。
そして、シルフィは、自分の部屋で、真剣な表情で、矢筒の中の矢を一本一本、検分していた。
その隣では、グリフォンのゼファーが、巨大な体を窮屈そうに丸め、彼女の手元をじっと見つめている。
彼女は、故郷の森から持ってきたという、小さな壺に入った黄金色の樹液を、指先に少量だけ付けると、祈るように、一つ一つの矢尻に、丁寧に塗り込んでいた。
「…シルフィ殿、それは?」
いつしか部屋に入ってきていたアイリスが、不思議そうに尋ねる。
「あっ、アイリス様…。これは、『安らぎの樹液』です。私の故郷の森で、古くから伝わるもので…」
シルフィは、少しだけ、悲しそうな顔で微笑んだ。
「これから、私たちは、誰かの命を奪わなければならないかもしれません。…それは、とても悲しいことです。だから、せめて、この矢で射られた命が、苦しむことなく、安らかに、森へ還れるように…と」
それは、戦いを放棄する甘えではない。
避けられぬ殺生に対する、弓の名手としての、そして、自然を愛するエルフとしての、彼女なりの、覚悟の示し方だった。
翌日、夜明け前。
深く、冷たい空気が支配する王城の中庭に、アイリス分隊は、静かに集結していた。
彼らのための、盛大な見送りはない。
世界の命運を賭けたこの任務は、王国の最高機密。
知る者は、ごく一握りだ。
ただ一人、その場に、彼らを見送る人影があった。
騎士団長アルトリウス。
彼は、馬上の人となったアイリスの前に立つと、一つの、重々しい羊皮紙を手渡した。
「国王陛下からの、正式な任務命令書だ」
その声は、固く、感情がこもっていない。
「アイリス分隊長。王国の、いや、世界の命運は、貴官のその不可解な戦術にかかっている。…必ず、任務を完遂せよ」
彼の目に宿るのは、信頼ではなかった。
理解不能なものに対する、畏れと、そして、最後の望みを託すしかない、という諦観。
アイリスは、その視線を、まっすぐに受け止めた。
「…御意に」
彼女が短く応えると、アルトリウスは、それ以上何も言わず、踵を返して、闇の中へと消えていった。
王都を、音もなく抜け出した分隊は、魔大陸へと続く、北の街道をひた走っていた。
アイリスはゼファーの背に乗り、上空から先行偵察。他の者たちは、馬を駆る。
旅芸人一座だった頃の、陽気で騒がしい雰囲気は、そこにはなかった。
彼らは、ノクトのスパルタ訓練によって、一つの、特殊作戦部隊へと生まれ変わっていた。
『…新人。これより、魔大陸への最短ルートを進む。道中の町や村には、一切立ち寄るな。これまでのショーは、全て忘れるんだ』
脳内に響くノクトの声もまた、いつになく、真剣だった。プロデューサーではなく、司令官の声だ。
『シルフィ、目隠しをしろ。三十キロ先に、オークの斥候部隊の反応がある。最短で、かつ最も安全な迂回ルートを、お前の感覚で探れ』
「…はい!」
シルフィは目隠しをすると、まるでナビゲーションシステムのように、淀みなく、進路を指し示した。
『ギル、先行して、前方の斥候を無音で排除しろ。茶器を扱えたお前なら、魔物の首の骨を折るくらい、音も立てずにやれるはずだ』
「お任せを、姉御!」
ギルは、その巨体からは想像もつかないほどの静かさで、闇の中へと溶けていった。
『ジーロス、周囲に幻術の霧を張れ。我々の姿を、ただの旅人に見せかける。だが、派手な演出はするな。地味にやれ』
「…フン。君のセンスのなさは、相変わらずだね」
ジーロスは文句を言いつつも、分隊の姿を、風景に溶け込ませる、極めて高度な幻術を、瞬時に展開してみせた。
彼らは、強かった。
個々の能力の高さは、言うまでもない。
だが、ノクトという絶対的な司令塔を得た彼らの連携は、もはや、人間の部隊のそれとは、次元が違っていた。
ギルが、敵の斥候を、音もなく始末する。
シルフィが、敵の罠を、完璧に予知して回避する。
ジーロスの幻術が、万が一の遭遇を、未然に防ぐ。
テオは、その聖職者としての知識(皮肉にも)で、魔大陸特有の、呪われた土地や、毒の沼地を、的確に見抜き、進路から外していった。
それは、あまりにも、効率的で、冷徹で、そして、完璧な進軍だった。
その日の夜。
分隊は、予定よりも、遥かに早いペースで、魔大陸の入り口まで到達していた。
無駄口一つなく、完璧な分担で、野営の準備を進める仲間たち。
アイリスは、その光景を、少しだけ離れた場所から、静かに見つめていた。
(…すごい。これが、神様の、本気の指揮…)
そこには、以前のような、ドタバタとしたコミカルさは、なかった。
ただ、一つの目的のために、最適化された、美しいまでの、機能性だけが存在する。
彼女は、その完璧さに、畏敬の念を抱くと同時に、言い知れぬ、肌寒さを感じていた。
その頃、ノクトは、塔の自室で、水盤に映し出された魔大陸の地図を、満足げに眺めていた。
「移動段階は、極めて順調。予定より、三時間も早い。このペースなら、三日を待たずに、魔王城の麓に到着できるな」
彼の指が、地図の上で、一つの点を、なぞる。
魔王城、最下層。
「…待っていろよ、『夢織りの枕』。俺の最高の安眠は、もう、すぐそこだ」
彼の不純な作戦は、ついに、最終章の舞台へと、その駒を進めたのだった。




