第二十二話 最終試験
ノクトによる、地獄のスパルタ式スケジュール管理が始まってから、一週間が経過した。
アイリス分隊が、当初抱いていた反発や不満は、もはや影も形もなかった。
彼らの心にあったのは、ただ、目の前の課題をこなすことへの集中と、そして、この非人道的なスケジュールから一秒でも早く解放されたいという、切実な願いだけだった。
だが、その効果は、誰の目にも明らかだった。
王城の中庭は、今や彼らの専用訓練場と化し、そこで繰り広げられる光景は、常人の理解を遥かに超えていた。
巨大な元・魔王軍幹部ギルは、もはや茶器を割ることはない。
彼は、その巨体と怪力からは想像もつかないほどの精密さで、アイリスが投げた豆粒を、箸で正確に掴んでみせていた。
その集中力は、もはや達人の域に達している。
アーティスト魔術師ジーロスは、「アートとは、スピードだ!」などと、以前の彼なら聞いたら卒倒しそうなことを叫びながら、目まぐるしく変わる的へ、詠唱破棄した光の魔法を、寸分の狂いもなく叩き込んでいる。
不徳の神官テオは、流れるような手つきでカードをシャッフルしながら、聖書の一節を、一言一句間違えることなく暗唱していた。
その姿は、不気味な聖性と、胡散臭い俗っぽさが同居する、唯一無二の存在感を放っている。
そして、シルフィ。目隠しをされた彼女は、アイリスが城内のどこかに隠したハンカチの場所を、「北東へ、三十七歩! 鎧飾りの、右腕の中!」と、まるで見てきたかのように言い当てていた。
彼女は、もはやノクトの、遠隔操作用の精密な手足と化していた。
その全てを、アイリスが、疲労の滲む顔ながらも、鋭い視線で監督している。
彼らは、不本意ながらも、確実に、一つの部隊へと、変貌を遂げつつあった。
「―――アイリス分隊長」
その、静かだが、有無を言わさぬ威厳に満ちた声に、訓練場の空気が、ピシリと凍りついた。
声の主は、いつからそこに立っていたのか、騎士団長アルトリウスだった。
彼は、この一週間、アイリス分隊が繰り広げる奇妙な訓練を、遠くから、黙って観察し続けていた。
そして、今日、ついに、自らの疑念に決着をつけるべく、姿を現したのだ。
「魔王城へ向かう、我が国、いや、世界の命運を左右する部隊の準備状況を、この目で、直々に、確認させてもらう」
それは、査察であり、そして、最終試験の始まりを告げる、号砲だった。
『…余計なことを。スケジュールが乱れるだろうが』
ノクトが、面倒くさそうに舌打ちする。
『だが、ちょうどいい。こいつに、俺のプロデュースの成果を、見せつけてやれ』
アイリスは、頷いた。
「謹んで、お受けいたします。団長」
アルトリウスは、多くを語らなかった。
彼は、ただ、訓練場の中心に立つと、その抜き身の剣を、アイリスに向けた。
「…かかってくるがいい」
王国最強の騎士が放つ、凄まじい闘気。
並の騎士なら、そのプレッシャーだけで、足がすくむだろう。
だが、アイリスは、動じなかった。
いや、彼女の脳内のノクトが、動じなかった。
『面白い。模擬戦か。ならば、こちらも、それ相応の戦術で応えよう』
アルトリウスが、大地を蹴った。
常人には目で追えぬほどの、神速の踏み込み。王国騎士団最強と謳われる、彼の剣が、アイリスの喉元へと迫る。
『ギル、阻止。ただし、剣には触れるな』
アイリスが叫ぶより早く、ギルが、彼女の前に立ちはだかった。
彼は、アルトリウスの剣を、武器で受け止めはしなかった。
ただ、その剣を振るう、アルトリウスの右腕の手首を、人差し指と、親指の、二本だけで、つまんだ。
ピタリ、と。
王国最強の一撃が、まるで嘘のように、完璧に、静止した。
「な…!?」
アルトリウスの顔に、初めて、驚愕の色が浮かぶ。
その、一瞬の隙を、ノクトは見逃さない。
『ジーロス、幻惑』
ジーロスは、もはや、ポーズも、詠唱も必要としなかった。
彼が指を鳴らすと、アルトリウスの目の前で、太陽が爆発したかのような、強烈な光が炸裂した。
「ぐっ…!」
幻惑され、たたらを踏むアルトリウス。
『テオ、詠唱妨害』
テオが、まるで賭場のディーラーのように、前に進み出た。
「さあ、お立ち会い! 神は、こう言っておられる!『光あるうちに、光を信じなさい』! そして、こうも言っておられる!『賽は投げられた』、と! あなたの次の一手、天国か地獄か、張った、張った!」
聖句と、賭博の符丁が入り混じる、意味不明の口上。
それは、アルトリウスのような、実直な剣士の集中力を削ぐには、十分すぎるほどの、精神攻撃だった。
「…貴様ら、ふざけているのか!」
アルトリウスが、怒声と共に、体勢を立て直そうとする。
『シルフィ、武装解除』
その指示が下された瞬間、訓練場の端で、目隠しをしたまま待機していたシルフィが、矢を放った。
風切り音。
矢は、アルトリウス本人には、一切の危害を加えることなく、彼が握りしめていた剣の、柄頭の部分を、正確に、撃ち抜いた。
カラン、と。
乾いた音を立てて、王国最強の騎士の剣が、地面に転がった。
静寂が、訓練場を支配した。
アルトリウスは、武器を失った自分の右手と、涼しい顔で立つアイリス分隊を、交互に、呆然と見比べた。
負けた。
剣を交えることすらせず、まるで、赤子のように、あしらわれた。
これは、彼が知る、どんな戦術とも違う。
個々の能力は、確かに高い。
だが、それ以上に、この連携は、異常だ。
まるで、一つの頭脳が、五つの体を、同時に、完璧に、動かしているかのようだった。
彼は、ゆっくりと、地面に落ちた自分の剣を拾い上げると、静かに、鞘に収めた。
そして、アイリスに向かって、騎士の、最上級の礼をもって、頭を下げた。
「…見事だ。私の不明を、恥じる。諸君らの準備が整っていること、しかと、確認した」
彼は、それだけ言うと、一言も、振り返ることなく、訓練場を去っていった。
その背中を見送りながら、アイリスは、安堵のため息をついた。
(…神様。やりました…!)
『当然の結果だ。俺の指示通りに動けば、あの程度の騎士、模擬戦のボスにもならん』
ノクトの声は、どこまでも、尊大だった。
『…だが、予定外の戦闘で、皆の疲労度は想定以上だ。今日の午後の訓練は中止。代わりに、装備のメンテナンス時間に充てる。明日の早朝、魔王城へ向けて、出発する』
その言葉に、ギルたちが、「おお!」と、歓声を上げる。
アイリスは、北の空を見上げた。
長かったような、短かったような、王都での日々が終わる。
そして、いよいよ、この世界の運命を左右する、本当の戦いが、始まろうとしていた。
その頃、ノクトは、満足げに、羊皮紙の最後の項目に、チェックを入れていた。
「最終試験は、評価Sプラスでクリア。キャラクターたちのステータスも、目標値に達した」
彼は、椅子から立ち上がると、塔の窓から、魔王城があるであろう、遥か北の空を眺めた。
「…いよいよだな、『夢織りの枕』」
彼の顔には、英雄の決意など微塵もない、
ただ、最高の安眠グッズを手に入れることを夢見る、一人の男の、欲望に満ちた笑みが浮かんでいた。




