第二話 英雄爆誕
「ふぅ……完璧だ」
自室の玉座に深く身を沈めたノクト・ソラリアは、目の前の兵棋盤に表示された『アップデート完了』の魔法文字を眺め、悦に入っていた。
マナ通信網、すなわち彼にとっての生命線(ネット回線)は完全復旧。
忌々しいゴブリンの妨害による約15分のロスは、彼の完璧な引きこもりスケジュールにおいて痛恨の極みであったが、今やそれも過去の話だ。
「さて、と。まずは日課のログボ(ログインボーナス)回収からだな」
彼は指先一つ動かすことなく、思考だけで机の端に浮かべていたポテトチップスの袋を手元に引き寄せ、これまた魔法で絶妙な塩加減に調整された一枚を口に放り込む。
カリ、という小気味よい咀嚼音だけが、静寂な部屋に響いた。
数十分前に遠隔で駒のように動かした新人騎士のことなど、彼の意識からは綺麗さっぱり消え去っていた。いわば、兵棋盤の動作を重くする不要なキャッシュファイルを削除したようなものだ。
まさかその「キャッシュファイル」が、今まさに王都全体を巻き込む巨大な勘違いを引き起こしているとは、知る由もなかった。
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「奇跡だ! まさに聖女の御業!」
「あのゴブリン共を、たった一人で、しかも無傷で殲滅したなど…!」
王宮へ続く大通りは、アイリス・アークライトへの賞賛で埋め尽くされていた。
泥と土埃にまみれた鎧のまま民衆の前に立たされた彼女は、四方八方から飛んでくる熱狂的な歓声に、ただただ目を白黒させるばかりだった。
(な、なんでこんなことに…? 私はただ、脳内に響いた謎の声の言う通りに石を投げて、崖まで走って、剣を振るっただけなのに…)
そう、彼女の記憶にあるのは、絶体絶命の状況で突如として聞こえてきた、厳かで、それでいてどこか面倒くさそうな、不思議な神の声だけだ。
『あー、もう!見ててイライラする! なんでタンクが真っ先に突っ込むんだよ!』
『右前方、デカいの! そいつの顔面に石! いいから早く!』[cite: 1]
『よし、そのまま崖まで全力疾走! いいか、絶対こっち見んなよ!』[cite: 1]
(あれはきっと、騎士を導くという守護神様からのお告げだったに違いないわ…。それにしても、随分と具体的で、口の悪い神様だったような…)
そんな彼女の混乱をよそに、話はどんどん大きくなっていく。
玉座の間に召喚された彼女を待っていたのは、感極まった様子の国王と、興奮を隠せない大臣たちだった。
「おお、アイリス! よくぞ戻った! そなたの活躍、騎士団長から全て聞いたぞ!」
「は、はひっ!?」
「単騎で敵陣に乗り込み、地形の利を巧みに利用して敵主力を誘引。そして一撃の下に殲滅する…。まるで、伝説の英雄譚の一節ではないか!」
アイリスはぶんぶんと首を横に振った。このままでは、とんでもない勘違いがまかり通ってしまう。
「へ、陛下! お待ちください! あれは私の力ではございません! 全ては、天からのお告げ…神の御声に導かれた結果なのです!」
正直に打ち明けた瞬間、玉座の間が水を打ったように静まり返った。
そして次の瞬間、国王が玉座からガタリと立ち上がった。
「な…なんと! やはりそうであったか! そなた、神々の声を聞くことができるのか!」「え?」
「おお、我がソラリア王国も神に見捨てられてはいなかった! 神託の巫女にして、鉄槌を振るう聖女の誕生だ!」
(話が違う方向に大きくなってる!?)
アイリスの必死の弁明は、「謙虚さの表れ」あるいは「神聖な奇跡の証明」として、ことごとくポジティブに誤解されていった。
「ちなみに、神様はどのようなお声であった?」と目を輝かせる神官長に問われ、アイリスは必死に記憶をたどる。
「え、ええと…。非常に理知的で、効率を重視されるお方、と申しますか…。時々、何かを齧るような…『カリッ』という音が聞こえたような…」
「なんと! それは神が我らの敵を噛み砕く音に違いない! おお、慈悲深くも猛々しい神よ!」
アイリスのSAN値が、ゴリゴリと削れていく音がした。
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その頃、ノクトは『帝国興亡記VII』のギルドメンバーと共に、高難易度レイドボス「奈落の古竜」との激戦を繰り広げていた。
「よし、全員、最大火力を叩き込め! あと1ミリだ!」
勝利を確信し、チャット欄に指示を打ち込んだ、その瞬間。
―――ブツッ。
ノクトの操る最強の魔導師が、カクン、と奇妙な挙動で固まった。画面の隅には、彼が最も憎むべき魔法陣――『通信環境が不安定です』――が、不吉に点滅している。
「…………は?」
時を同じくして、城内放送用の魔法装置が、やかましく戦果を報じ始めた。
『速報! 神託の聖女アイリス様、次なる任務へ! 魔王軍幹部が巣食う北方の砦を攻略し、王国のマナ通信網を安定させるという、神聖なる使命を受けられました! 王国に栄光あれ! 聖女アイリスに神のご加護を!』
北方の砦。
魔王軍幹部。
マナ通信網の不安定化。
点と点が、ノクトの頭の中で最悪の線となって繋がった。
「……あの、クソ新人がぁあああああああああああっ!」
絶叫と共に、彼は遠見の水盤を起動する。
そこに映っていたのは、民衆から「聖女様ー!」と熱狂的な声援を受け、一人で北の砦へ向かおうとしている、あの迷惑な赤毛の騎士の姿だった。
「ソロで高難易度クエストに行かせるとか、どこの運営だよ!? 戦力を揃えてから挑むのが基本だろ。…なんで俺が、このゲームのパーティー編成まで考えなきゃならないんだ…! 面倒くさい…! 面倒くさすぎる…!」
ノクトはこめかみをピクピクさせながら、荒々しく思考を飛ばす準備を始めた。
「このクソゲー、バランスが悪すぎるんだよ…! まずは、まともな仲間を集めるところからか…!」
快適な引きこもりライフ(安定したネット環境)を守るため、不本意極まりない司令官の、迷惑な英雄譚が、今まさに本格的に始まろうとしていた。