第一話 迷惑な英雄譚の始まり
ノクト・ソラリアにとって、世界とは自室の椅子の上であり、眼前に広がる巨大な机に並べられた魔道具の数々であり、そして指先一つで取り寄せられる、完璧な温度のコンソメスープのことだった。
彼の公的な肩書は、ソラリア王国第二王子。そして、かつて魔王を討ち滅ぼした大英雄の血を引く者。
しかし、その英雄譚には、おぞましい後日談が存在した。
初代英雄は、死の間際の魔王から、子々孫々に続く執念深い呪いをかけられたのだ。
「我が血を浴びし英雄よ、お前の血脈は未来永劫、光と大地から見放されるだろう。太陽はお前たちを灼き、大地はお前たちを腐らせる。我が憎しみと共に、永遠の孤独を歩むがいい」
それが、王家に伝わる「魔王の呪い」の正体だった。
この呪いは、血を引く者全てに等しく降りかかるわけではない。
その発現の強弱は、個々が持つ魔力量に完全に比例した。皮肉なことに、魔力が強ければ強いほど、その魔力がアンテナのように呪いを引き寄せ、症状は苛烈なものとなる。
そして、ノクトは生まれてきてしまった。
一族の歴史上、初代英雄をも凌駕するとされる、観測史上最高の魔力を持って。
その結果、彼は呪いの影響を最も色濃く、そして悲劇的な形で受け継ぐことになった。 兄レジスのように、魔力を抑える武具でごまかせるレベルではない。
彼にとって、窓から差し込む間接的な太陽光でさえ、肌をじりじりと焼く苦痛を伴う。
そして、もし素足で大地――土や石、草木に直接触れようものなら、その接触点から肉体が黒く腐り始めるという。
物心ついた頃から、この陽光の届かない塔の一室が彼の世界の全てであり、一歩も外へ出たことがない。
人々はそんな彼を、影で「引きこもりの王子」と呼んだ。
しかし、彼のこの生活は、怠惰や性格の問題などでは断じてない。生きるための、絶対的な防御行為なのである。
もっとも、ノクト自身に言わせれば、それは「合法的に外出せず、誰にも文句を言われずに最高の引きこもりライフを追求できる、神からのギフト」であったが。
彼の玉座は、部屋の中央に鎮座する一脚の椅子。
古代エルフ族の秘術で作られ、長時間座り続けても一切の疲労を感じさせない、まさに「思考するための椅子」だ。
目の前には、黒曜石を削り出した巨大な机が広がり、その上には彼の生活と娯楽の全てが揃っている。
手を伸ばさずとも欲しいものが手元に瞬間移動してくる「グラビティ・ハンド」の術式が常に起動しており、彼の生活圏は、この椅子から半径一メートルで完全に完結していた。
今日も今日とて、ノクトは極上の日常を謳歌していた。
お気に入りのポテトチップス(コンソメ味)の袋を魔術で開封し、コーラ(もちろん魔法で常に最適な微炭酸と温度が維持されている)のグラスを机の端に浮かべながら、机に埋め込まれた最新技術の兵棋盤――彼の世界で言うところの超絶リアルなシミュレーションゲーム――『帝国興亡記VII』に没頭していた。
「よし、敵主力を隘路に誘い込んだ。ここで、温存しておいた竜騎士団を一気に投入…からの、側面から魔導砲で一斉掃射。ふん、素人が。定石通りすぎてあくびが出る」
盤上で繰り広げられる壮大な戦争を、彼はポテチをかじる片手間で完璧にコントロールしていた。
勝利を確信し、最新の拡張パッチで追加された新マップのダウンロード状況を確認しようとした、その時だった。
――ブツッ。
目の前の兵棋盤の光が、不吉な音と共に消えた。
机の隅に浮かんでいたダウンロードの進捗を示す魔法陣も、霧のように掻き消える。
「……は?」
ノクトの動きが、完全に固まった。
この城、いや、王国全土に張り巡らされた「マナ通信網」。
生活魔術の根幹を成し、ノクトにとっては生命線とも言える、いわばネット回線。
それが、完全にダウンしていた。
「……おいおいおい、嘘だろ…? アップデート、98%だったんだぞ…?」
眉をひくつかせ、彼は即座に「遠見」の魔法を発動させた。
机に備え付けられた水盤に、王国のマナ通信網の全体図が青白い光で描き出される。
原因はすぐに特定できた。
王都から東へ三十キロ。
主要なマナ中継点が、赤い警告色で激しく点滅している。
物理的な障害だ。
「面倒くさい…面倒くさすぎる…! なんだって俺が、俺の貴重なプライベートタイムを削って、インフラ整備の心配をしなきゃならないんだ!」
舌打ちし、彼は仕方なく中継点周辺の様子を拡大して映し出した。
そこに広がっていたのは、緑の肌をした小鬼――ゴブリンたちの、実に楽しそうな姿だった。
奴らは、マナ中継点の魔晶石を神輿のように担ぎ上げ、その周りで意味不明のダンスを踊っている。
どうやら、綺麗な石を自分たちの新たなトーテムポールにしたつもりらしい。
「……文明の利器をなんだと思ってるんだ、あの蛮族どもは…」
ノクトがこめかみを抑えたその時、彼の視界の端に、その蛮族の集落へ無謀にも一人で突撃していく人影が映った。
銀色の鎧に、燃えるような赤毛をポニーテールにした、見るからに経験の浅そうな女騎士。
「うおおお! 王国の平和を乱すゴブリンめ! この正義の剣を受けなさーい!」
威勢はいい。
だが、動きが素人すぎる。
単騎で真正面から突込み、あっという間に数の暴力に押されて包囲されていた。
「あー、もう!見ててイライラする! なんでタンクが真っ先に突っ込むんだよ! まず釣って、ヘイト集めて、安全な位置まで引っ張るのが基本だろ!」
思わず、心の声が盛大に漏れた。
普段なら、ただの独り言で終わるはずだった。
だが、マナ通信網の障害により、不安定になった魔力の波が、彼の思考を拾って、あらぬ方向へ飛ばしてしまったらしい。
その声は、空間を超え、ゴブリンに囲まれ死を覚悟した一人の騎士の脳内に、直接響き渡った。
『――なんでタンクが真っ先に突っ込むんだよ! まず釣って、ヘイト集めて、安全な位置まで引っ張るのが基本だろ!』
「……へ?」
泥だらけの顔で、絶望に膝を付きかけていた新人騎士アイリスは、きょとんと目を丸くした。
今、確かに聞こえた。厳かで、それでいてどこか投げやりな、不思議な声。
(…だ、誰…? まさか…これが、お父様が言っていた、騎士を導くという守護神様の声…!?)
敬虔な騎士の家系に生まれた彼女は、その声を神聖な天啓だと、一ミリも疑うことなく信じ込んだ。
一方、ノクトはそんなこととは露知らず、ただただイライラしていた。
このままでは、あの新米騎士がやられて、ゴブリンの対処がさらに遅れる。
つまり、自分のゲーム再開が遠のく。それは、彼にとって世界の終わりとほぼ同義だった。
「仕方ない…! この素人、俺が遠隔で動かす…!」
彼は腹を括り、再びアイリスに思考を飛ばす。
『おい、新人! 聞こえるか! 右前方、デカい棍棒持ってるやつがリーダーだ! まず、そいつの顔面に石を投げて挑発しろ! 話はそれからだ!』
(神様が…私に直接ご神託を…!)
アイリスは感動に打ち震え、近くに転がっていた石を拾うと、渾身の力でゴブリンリーダーの眉間に叩きつけた。
ギャイン!と情けない悲鳴を上げ、ゴブリンリーダーのヘイトが一気にアイリスへと向く。
『よし! そのまま、左手に見える崖まで走れ! 全力でだ! 途中で振り返るなよ!』
(はい、神様!)
アイリスは、神のお告げに導かれるまま、戦場を駆け抜けた。ゴブリンたちが、面白いように彼女の後を追ってくる。
『崖に着いたら、一番大きな岩の影に隠れろ! 奴らが密集した瞬間がチャンスだ! お前の持つ最大範囲の剣技を叩き込め!』
それは、ノクトがゲームで幾度となく使ってきた、敵を集めて一網打尽にする基本戦術だった。
アイリスは指示通りに岩陰に隠れ、ゴブリンたちが眼前に密集した瞬間、教わったばかりのなぎ払い剣技「シルフィード・ワルツ」を放った。
一閃。
風の刃が、密集したゴブリンの群れを一瞬で切り裂いた。
数秒後、阿鼻叫喚の地獄を後に、アイリスは一人、呆然と立ち尽くしていた。
(…すごい…神様のお告げ通りに動いたら、あんなにいたゴブリンが、一瞬で…!)
『ふう、やれやれ。やっと片付いたか』
脳内に響いたのは、安堵のため息だった。アイリスは、神様が自分の勝利を喜んでくれているのだと、胸を熱くする。
その頃、ノクトは、無事に復旧したマナ通信網を使い、中断していた『帝国興亡記VII』のアップデートを再開していた。
「さて、と。戦争の続きだ」
彼は、アイリスのことなどすっかり忘れ、再び快適な引きこもり生活へと戻っていく。
だが、彼はまだ知らない。
この日、一人の騎士に与えた「神のお告げ(ゲーム攻略法)」が、王国中に「奇跡の聖女、アイリス爆誕!」という、最高に面倒くさいニュースとして駆け巡ることになるのを。
彼の完璧な日常は、終わりを告げようとしていた。