第四話:商品
湿った石の冷たさが、背中をじわじわと蝕んでいた。
翔真は、かすかに開いた瞼を持ち上げ、まず暗さに驚いた。
薄暗がりの中、鼻に刺さる腐敗臭――血のような、湿った石に染み付いた生肉の残り香。そして、糞尿とも区別がつかないような何か。
「...ここは...」
声を出すと、自分の喉がひどく乾いていることに気づく。
視線をさまよわせると、目の前には錆びた鉄格子があり、その奥に、苔に染まった石壁が続いていた。
薄汚れた藁の上で、翔真は寝かされていた。右手は包帯の下でまだ鈍い痛みを主張してくる。
ゆっくりと体を起こすと、鎖が小さく引きずられる音を立てた。
足首に、重い鉄環がはめられている。
「……は?」
混乱が、焦燥に変わる。頭の中で状況をなぞる。
森。バルミッチ。逃走。そして――
馬車。ゼブ。あの親切な笑顔。傷を手当てしてくれた。水をくれた。寝かせてくれた。
考えたくもない予想に翔真が足踏みしていたときだ。
足音が近づく。硬く乾いたブーツの音が、石床にコツコツと響くたび、翔真の胸がひゅっとすぼまる。
暗がりの向こうから現れたのは、灰色の外套を羽織った中年の男だった。肩幅は広く、腹が出ている。片手には鍵の束、もう一方には革鞭のようなものをぶら下げている。
「よう、お目覚めかい」
男の声は思ったよりも低く、妙に穏やかだった。その分、言葉の裏にある何かが翔真の背筋を凍らせる。
「ど……どういう……ことだよ、ここ……どこだよっ」
声が上ずる。喉が渇いているせいか、派手にビビっているせいか。言葉がうまく続かない。
男はそれを楽しむように笑みを浮かべ、鉄格子の前で立ち止まった。
「ここは“現実”だ、兄ちゃん。お前さんは落とし子か、それともただの田舎者か...まあどっちでもいい。ここにいるってことは、買い手がつくってことだ」
「は、買い手...? なんの、話だよ」
翔真の目が泳ぐ。男の言葉の意味が、じわじわと体の芯に染み込んでくる。
「わかんねえか? お前さんは“商品”だ。見たこともねえ服を着て、この辺りの知識もからっきし。
落とし子ってのは、かもしれねえってだけで高値がつくもんなんだよ」
男が鍵の束をカチャカチャと鳴らす。その音が、なぜか笑い声のように聞こえる。
「ゼブって奴に、随分高く売りつけられたぜ。『拾い物の逸品』ってな。...いい目利きだ」
翔真の目が見開かれた。ゼブの名を聞いた瞬間、怒りと悔しさと、信じた自分への憎しみが一気に込み上げる。
「あいつ、最初から……」
男は薄ら笑いを浮かべながら、鉄格子に手をかける。
「今はゆっくり考えな。たっぷり時間はあるさ。次に檻から出られる時は、買い手の前だ」
言い終えると、男はくるりと背を向け、足音だけを牢に残して去っていった。
翔真は崩れるようにその場に座り込んだ。肩が震えていた。
「……ふざけんなよ……ふざけんなよ……!」
誰に向けてでもなく、何に対してでもなく、そう呟くしかなかった。
ゼブの顔が、脳裏に浮かぶ。
無邪気で、朗らかで――だが今思えば、あまりにも作られた笑顔だった。
信じたくなかった。人を疑う術を持たない自分は、最後の一縷にすがるように、否定を繰り返した。
ふと、右手を見た。包帯の処置は雑ではない。むしろ丁寧すぎる。
だが、それが余計に、恐ろしい。
牢の奥に再び静寂が戻る。
翔真は目を見開いたまま、固まっていた。頭の中で、男の言葉がぐるぐると何度も反芻されている。
商品。
落とし子。
買い手。
――奴隷。
「……は、ぁ……は、あ……?」
喉が痙攣する。息が苦しい。足が震える。どうして自分がこんな目に――
「ちょ、待ってくれよ……なんで、なんでだよ……!」
翔真は壁に手をつき、立ち上がろうとする。だが足元がおぼつかず、腰が抜けたように崩れ落ちた。
「意味わかんねぇ、意味わかんねぇよ!なんだよ商品って!冗談だろ?嘘だろ?こんな、こんなのおかしいだろッ!」
目に涙が滲んできた。悔しさではない。ただ、理不尽な現実が暴力のように押し寄せてくることへの恐怖。
「帰してくれよ……俺、ただ、メシ買いに出ただけなんだよ……!? なんでだよ……なんで俺なんだよ!」
壁を殴る。石の冷たさが指を痛めつける。右手の包帯がじんわりと赤く染まっていく。
「クソッ……っ、ふざけんなよ……なんなんだよこの世界!!」
叫ぶ。怒鳴る。泣く。言葉にならない嗚咽が漏れ、視界がぼやけてくる。
「帰りてぇ……なんでだよ……俺、なんで……」
声が涙に濡れて途切れる。
翔真はその場に崩れ落ち、背を丸め、肩を震わせた。
冷えきった石床に触れていることさえ、もはや感じなかった。
嗚咽がまだ残る。呼吸は浅く、肩が小刻みに震えている。
翔真は蹲ったまま、目をぎゅっと閉じて、現実そのものを拒絶していた。
――その時だった。
「ずいぶん、賑やかだったわね」
空気を割るような、しかし静かな女の声。
誰かがいる。誰かが、近くに。
翔真ははっとして顔を上げる。だが、自分の牢には誰もいない。代わりに、向かいの闇の奥に人影があった。
格子の向こう、そのまた向こうの牢――。
「誰、だよ……?」
情けない声を漏らすと、その人影がゆっくりと動いた。わずかな月明かりが差し込み、そこにいたのが若い女性だとわかる。
「"商品"よ。あなたと同じ、ね」
髪は肩まで伸び、やや赤みがかっている。
表情は読めないが、緑の瞳だけが、暗闇の中で静かに光を返していた。
背筋はまっすぐで、薄汚れた服を着ていても、どこか気品を感じさせる。
「あなた、落とし子なんでしょう?」
その言葉に、翔真は肩をびくりと震わせた。
「……聞いてたのか」
「あれだけ大きな声で喚いてたらイヤでも気づくわよ」
落とし子の可能性ありと、「商品」として騙されてやってきたこと。
彼女は、翔真の錯乱を最初からずっと聞いていたのだ。
「それに、その服。この世界で出回っている生地じゃない。
言葉遣いも癖がある。……瞳の奥にある、世界の見え方も、ね」
「なんだそれ。意味わかんねえ」
まるで、全部見透かされているようだった。沈黙を嫌うように、翔真が続ける。
「落とし子って、そんなに珍しいもんなのか……?」
「珍しいわよ。でも“いない”とは思っていない。だから、あなたみたいなのが現れても、私は驚かない」
また、少しの沈黙が落ちる。
頭の中で、まだ混乱と恐怖が交錯している。
それでも、目の前の誰か。
向かいの牢のこの女だけは、はっきりと“生きている人間”として感じられた。
「……名前は?」
翔真がようやくそう聞いた時、女は少しの間だけ、言葉を返さなかった。
「今はまだ、必要ないでしょう?」
女の真っ直ぐな答えに、どこか少し、自分と似たものを感じた。
「..じゃあ、あんたはなんで”商品”に?あんたも"落とし子"なのか?」
「いいえ。少し生まれが特殊で、あとは女だから。それ以上の理由がある?」
一瞬期待したが、徒労に終わった。
この世界の奴隷がどういったモノなのかハッキリわかっていなかったが、
女の回答から使い道は容易に想像できた。
「でも、落とし子って貴重なんだろ?商品として買われても、丁重に扱われないもんかな」
「もちろん、大事に管理されるでしょうね。落とし子は未知の領域。調べたい学者や術師は多いはずよ」
「だったら――」
「一歩も動けない檻に厳重に保管され、毎日実験でしょうね。
解剖されたり、痛みへの耐性を調べたり、元素魔法の耐久性を――」
「わかった!わかった!もういい……!」
動物園のパンダくらいには大事に扱ってくれると思ったのがバカだった。
それすら、甘すぎた。
「どちらにしてもこのまま奴隷として売られれば未来はないわ。あなたも、私も。なら――」
女は少し俯いて語る。
何かの決意を固めたかのように顔を見上げて、言った。
翔真自身、その言葉を期待していた。
いつだってそうだ。自分じゃ大事な決断も出来ない。
ただ他人に流され、楽な方へ、気持ちいい方へ向かうだけなのだ。
「一緒に逃げ出さない?」
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