第二話:持たざる者
水辺から上がって、数分が経とうとしていた。
辺りは先ほど飛び出して来た川を囲うように、木々がしげっている。
「森...?」
濡れた服をきつく絞りながら、状況を整理しようと試みる。
「なんでこんなトコに..そもそも夜だったよな?」
周囲を見渡すと、やわらかな日差しが木々を縫って差し込んでいた。
「外国か群馬か、はたまた……異世界ってやつなのか」
昔ネットで見た“未開の地グンマー”のネタが頭をよぎる。
さきほどから聴こえる鳥のさえずりや小動物の鳴き声は、聞いたことがないものだった。
アニメを見ながら食事をするのは、俺にとって数少ない幸せだった。特に異世界転生・転移モノが好物で、
最近は異世界で現実世界のメシを作って無双する話をイッキ見したものだ。
まだ断定はできないが、この状況は"異世界転移"に近しいものを感じる。
「とはいえ……特別な力とかそういったのは感じないな」
現実は非情である。
異世界転移といえば、チート級のスキルや魔力を手に入れて無双するのが王道だ。
が、今のところみなぎる魔力も、スキルも、見違えた膂力も頭角を現さない。
ステータスオープンは3回試したところで惨めになって諦めた。
持ち物は増えているどころか、持って出たはずの財布とスマホもなくなっていた。
少し考えて、自分に高尚な使命の類が用意されていることを諦めた。
なにを隠そう、諦めるのだけは早いのだ。
――ふと、川の近くにあった大きな石が気になった。
腰ぐらいの高さはある、表面の平たい石柱。
いわゆる「石碑」である。ところどころ掠れた文字が刻まれていた。
しかし、異世界言語ってやつなのだろう。ミミズが這う様にしか見えなかった。
「自動翻訳くらいしてくれたっていいだろ..ったく」
石碑からかろうじて分かるのは、意味深なシンボルのようなものが描かれていることだけだ。
それは無秩序に点と線が踊る、歪んだ星図のようにも見えた。
中心には、ありえない形状のサイコロが浮かんでいる。
一言で表すとすれば「カオス」であった。
この石碑から得られた情報は、あまり多くなかった。
「ぼーっとしててもしゃあない。少し歩いてみるか」
まだかなり濡れているTシャツに空気を送りながら、森への進行を決意する。
どこまで続いているかはわからない。
向かった先で、水にありつけるかどうかもわからないだろう。
川のあるこの場所を起点に、少しずつ活動範囲を広げていくつもりだ。
※※※
「にしても人っ子一人見当たらないな。まあ森の中だし当たり前か」
俺は独り言が多い。
時と場所を選ぶが、独りになるとかなり饒舌になる。
「頭の中で常に小説が書かれている」と言えばいいのか、自分を物語の主人公だと思ってロールプレイする節がある。
イタイ奴だと自分でもわかっているので、人前では決して見せない部分だ。
「独り言」が出る時は、精神的に追い込まれていることが多い。
向き合わなきゃいけない問題や恐怖から逃れるための、現実逃避。
今だって全力で逃げている。
明日の食い扶持もわからないこの状況で、終点のわからない森の中をさまよっているのだ。
能力も体力もない、「何もしてこなかった者」には荷が重すぎる。
帰りたい。消えたい。逃げてしまいたい。
そんな気持ちを殺して、主人公を演じている。
ガサッー。
「っ!?」
悲劇の主人公を尻目に、エンカウントは突如としてやってくる。
茂みの中から現れたのは、リスのような、ネズミのような。
大きさはモルモットより若干小さい程度だが、齧歯目にしてはかなり大きい印象を受けた。
「はは..!なんだリスか。よしよし、こっちおいで」
胸を撫で下ろし、可愛らしく毛づくろいする齧歯目に手を差し伸べた。
正直オオカミやゴブリンなんか出てきたら詰んでいたので、心底安心した。
「あっつ!」
手を出した瞬間、齧歯目は右手人差し指に噛みついた。
昔飼っていたジャンガリアンの”ハム吉”もよく噛んできたっけな。
リスもご多分に漏れないわけだ。
調子に乗りすぎたことを反省しつつ、慌てて引っ込めた指を労ってやろうとした時だ。
「――は」
優しく撫でてやるはずだったその指は、原型をとどめていなかった。
人差し指は横から大きく齧られており、あるはずの骨まで抉られ、第二関節あたりから無気力にぶらさがっている。
露出した傷口からは赤黒い血が噴き出し、白い神経がピクピクと踊っていた。
状況を飲み込めず呆然としていたが、遅れてやってきた痺れるような痛みに思わず叫んだ。
「い、いぎあああああ!!」
生涯で初めて味わう程の痛み。悶え転げたくなるのもつかの間。
茂みから続けて同種の齧歯目が10匹程顔を出した。
吟味されていたのだ。リスに。今日の食事足り得るかを。
走った。一目散に。
逃げた方角が起点の川と真逆であることも気にせずただ走り続けた。
喰われた?指が?利き手だぞ。どうしてくれる。字も書けなきゃゲームもできない。
あいつ俺を食えると思ったんだ。家族だけじゃなくリスにも舐められるのか?
帰りたい。帰ってアニメの続きがみたい。三日に一回くらいの母の小言が聞きたい。母さんの飯が食いたい。
齧歯目から逃げるのに無我夢中で、血と涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになりながら夢中で走った。
「――っと!」
どれくらい走ったろうかという頃、森が終わった。
目の前には、街灯はないがある程度舗装された道。
一台の荷台付き馬車が、飛び出してきた俺に驚いてブレーキをかける。
「危ない危ない。お兄さん、大丈夫ですかい?」
どうどうと馬を落ち着かせながら、旅人の様な装いの男に声をかけられる。
あのリスは?……追ってきていない様だ。
目の前の男は商人か?と考えを巡らせる。
しかし、こちらに来てから初めての"人"を見つけた安堵感からだろう。
スイッチが切れたように、その場に倒れた。