第一話:名前を呼ばれるのが嫌いだった
時計の針は、午前2時を回っていた。
部屋の中は、PCのやたらうるさいファンの音とキーボードの打鍵音だけが鳴り響いている。
外は真っ暗。開け広げた窓からは、よくわからない虫が騒いでいる。
だが俺の夜は、まだこれからだった。
長野翔真、二十七歳、無職。
ニート歴、累計六年。
働いては辞めるの繰り返し。そのすべてがいわゆる「バックレ」である。
辞めるスピードも凄まじく、初日に根を上げて逃げ出した仕事も少なくない。
後先考えず辞めて、遊ぶ金がなくなったら渋々働く。
社会不適合者のラベルは、もはや自他ともに認めるものとなっていた。
別にブラック企業だったわけでも、パワハラがあったわけでもない。
それでも、ある日突然「もうダメだ」と思って、足が止まる。
自分でもなんで辞めたのか、よくわからない。
わからないまま、考えるのも面倒になって、大好きなゲームの世界に逃げ込む。
「考えることからも逃げてる」とは母の言葉だ。
五才の時に父と母は離婚し、ずっと母親一人に育てられてきた。
今も実家に寄生して、母の炊いた飯を食って、ネットの中にしか友達がいない生活。
母が起きてる時間は部屋から出ない。顔を見るたび小言を言われるからだ。
罪悪感なんてとうに擦り切れて……は、いない。毎日自責の念に押しつぶされそうだ。
大人になるまでパートと家事を両立しながら一生懸命に育ててくれた結果がこれだ。仇で返すどころの話ではない。
今も母は、もう五十になろうというのに毎日パートに勤しんでいる。
頭では「こんな状況よくない」と思っていても、どこか奥底で「まだ大丈夫」の気持ちが抜けてくれない。
どうしようもない、親不孝者である。
「……ちょっと、メシ買ってくるわ」
いつものフレンドとの通話をミュートにして、PCの電源はそのまま。
財布とスマホをポケットに突っ込んで、玄関のドアを開ける。
梅雨明けの夜の空気は湿気を含んで重く、街灯の下には夏虫が這っていた。
コンビニまでの五分ほどの道のりは、決まって人生の反省会。
マイナスなことばかり浮かんで、これからの事を考えては泣きそうになり我に返る。
自分でも気づかないうちに、何かを諦めるのが癖になっていた。
努力も、夢も、希望も……そして、自分の名前に込められた願いすらも。
“翔真”。まっすぐに羽ばたいてほしい。
自分の名前には、そんな願いが込められてるらしい。
名前負けなんて生易しいもんじゃない。
親の願いに対する、俺の人生は皮肉でしかない。
高校生までは順調だった。
友達もいて、周りにいじめも起きない。
恋人はいなかったが、そんな所も友達と笑い合えていた。
狂い始めたのは、大学に進んでからだ。
Fランの大学に入って、出会った仲間とつるんで、サボり癖がついて。
気づけば単位は全く足りず、やむなく自主退学した。
そこからは堂々巡りだった。金の為に働き、面倒になってサボり、それが増えて辞める。
そんな事を続けていたら、20代の半分が終わっていた。
嫌、こんな一文で彼の波乱の数年が語りきれるハズもないが、ここでは割愛する。
とにかく、こんな事をコンビニ行くたび思い返すのだ。
「――昔はよく、白線の上から落ちないように歩いたっけ」
もちろん、ノスタルジーに浸ることもある。
小学生の頃、路側帯を綱渡りのように踏みながら歩いて、落ちたやつは罰ゲームだなんてやったものだ。
ふいに、アスファルトに広がる水たまりが目に入った。
ガキの頃なら、喜んで踏み抜いていただろう。
今なら靴下が濡れ、イヤな気分になるだけだ。
でも、この夜だけは――なぜか、気まぐれで、足を出した。
――バシャッ。
音がしたのは一瞬だった。
でも、その瞬間、足が「落ちた」。
「えっ……?」
踏み込んだ右足は、水を切る感触もなく、ずぶりと沈む。
地面なんてなかった。体が傾き、バランスを崩す。
倒れる、と思った時には、もう全身が水の中に沈みかけていた。
ただの水たまりのはずだった。
だが、それはまるで、生き物のように俺を引きずり込む。
もがいた。必死に腕を動かした。
だけど、水は異様に重く、まるで泥のようにまとわりつく。
肺が焼ける。視界が暗くなっていく。
――このまま死ぬのか?
そう思った瞬間、ぐいと何かに引きずられた。
体が、ぐるぐると回転して――
視界が、いきなりひらけた。
「は……? な、何……?」
目を開けると、そこはもう、さっきまでの深夜の街ではなかった。
水辺。木々。空。
太陽が高く昇っていた。
蝉でも、カラスでもない、知らない鳥の声が頭の上で響いている。
濡れた体をなんとか岸に引き上げながら、俺はただ呆然とその景色を見上げていた。