雨上がりと君の溝
ほんのちょっぴり、不思議だった。
高校の帰り。駅で友達と別れ、帰路に着く途中で、僕は路地裏に目をやった。
町を薄い霧のような水玉が包んで、静けさが身を摘まむ中、彼女はそこにいた。うちの高校のものではない制服に身を包み、年齢は微かに僕よりも上に見えるそのお姉さんは、マンホールの上で、つま先をとんとんと打ち付けていた。
「ん……」
不意にお姉さんの視線が上がる。ぱちりと大きな瞳と目が合って、数秒間僕たちは見つめ合ってしまった。
少しだけ気まずそうに、垂れ下がった髪を耳にかけながら、お姉さんは視線を逸らす。
「通りにくくてごめんね。すぐに退くから」
「あ、いや……」
すぐに正気を取り戻したお姉さんとは違って、僕はまだ惚けていた。だからつい素直に、正直に言ってしまったのだ。
「僕は、マンホールを」
「......マンホール?」
次の瞬間、お姉さんは傘を投げ捨てて、大股でこちらに近づいてくる。
「ッ……」
動揺を隠しきれないまま、僕は壁に追い詰められた。
転んで、傘を落として、ぴちゃりと雫が跳ねて、見上げる。
お姉さんは僕を見下ろし、勢いよく壁に両手を着いて────
────時が止まった。
本当に一秒ぐらい、時間が。
「......君、何者?」
「───」
傘で隠されていて見えなかったけれど、お姉さんは、とても特徴的な外見をしていた。
宝石を埋め込んだような大きな黒い瞳。キッと上がった眉。幼さを残した、綺麗なラインの顔立ち。その全てに、僕は目が離せなくて。
何より。
世界を染めた、純白の髪に。
降りしきる雨を受けてもなお輝く、カーテンのようにぶわりと広がった白に。
十七年生きてきた僕の感性は───敗北していた。
「何でマンホールって言ったの? 何か知ってるの?」
捲し立てられても、僕は見惚れてしまってまともな返事が思いつかなかった。だから同じように、素直に吐いたのだ。
「ナ、ナルニアが……好きなんです」
「……ナルニア?」
「ナルニア国物語です! クローゼットの奥から不思議な世界に迷い込んじゃうっていう、あのナルニア。小さい頃から僕、そういう話が好きで。だから扉の隙間とか、使われてない教室とか、雨の流れるマンホールの溝とか、よく見ちゃうんです」
我ながら変な理由だとは思う。それを初対面の人に言っているという状況は、もっと。でも真実なのだ。僕がこの路地裏を訪れたのは、マンホールを眺めて、その先に何かがあるんじゃないかって思っただけで。
「何それ」
お姉さんは壁にやっていた手を離して、マンホールを少しの間、眺めた。
「……おもしろ」
言った後、『しまった』という風にお姉さんは口を開いた。そう言ってしまった以上、強く出れないという風な、無意識の降参だった。
悔しそうに頭を搔いて、「あ~~~……」と悩ましそうに呟き、お姉さんは勢いよく手の平を合わせた。
「ごめん! 突然追い詰めて壁ドンしたりして、ほんっっとうにごめん!」
「あ、いえ……」
見惚れていたから別に。なんて流石に言えない。
「君、名前は?」
「碧、です。星奈碧」
「良い名前だね」
ゆっくりと傘を拾い上げて、お姉さんは僕を内側に入れてくれた。
「私、花譜華。渡辺カフカ。変な事しちゃったお詫びにさ、そこのファミレスでも行かない? 一杯奢るよ。なんてね」
◆
「へぇ、名門校じゃん! 星奈くん頭いいんだね」
「まぁ……そうですね」
「おっ、謙遜しないタイプだ」
自己紹介と、ドリンクバー。
窓の外は灰色から動かない。カランと氷が音を立てる中で、僕は頷いた。
「勉強、頑張ったんです。なるべく素直でいようと思っているので、謙遜しても仕方ないかなって。それに僕、嘘上手じゃないですから」
「ふぅん?」
「だからほら、ついほんとの事言っちゃったんです。マンホールって」
「あ~~~。理由聞いて納得したけど、正直驚いたよ。めっちゃ変な子じゃん! って」
「それを言うならカフカさんも、なんであんなところにいたんですか?」
路地裏にやってくる理由はそう多くない。通るためではなく、居続けていたのなら尚更だ。
僕がそう尋ねると、カフカさんは窓の外を見た。
「……人のいないところにいたかったの。ちょっと悩みがあったんだよ」
こちらに振り返って、片目ウィンク。
「人間関係とか、勉強とか」
「……じゃあ、壁ドンしたのはなんでなんですか?」
「う~~~ん……」
カフカさんは視線を迷わせていた。
僕はなんとなく察して、微かに笑う。
「答えたくないなら、大丈夫ですよ」
「……ほんと?」
「はい」
容易に話せる内容ではないから、カフカさんは路地裏なんて場所にいたのだ。きっと壁ドンに罪悪感を感じているだろうから、突けば理由を話すのかもしれないけれど……この人にそんな事をしたくない。
この綺麗な人に、嫌われたくない。
カフカさんは僕の言葉に、少しだけ申し訳なさそうに唇を尖らせて、笑った。
「ありがとう。優しいね」
その時、僕のスマホが震えた。現代人特有の素早い仕草で確認すれば、親からのメッセージだ。学生の放課後に親からくるメッセージなど、内容は一つしかない。
「すいません、僕そろそろ帰らないと」
「あ……そう?」
視線を横に逸らして、カフカさんはスマホを持っていた手を下げた。スマホの角が机の下に引っ込む。
「じゃあそろそろ解散しよっか。さっきは色々とごめんね。ズボンとか本当に大丈夫?」
「全然大丈夫です」
「そっか」
含みを感じる三文字だった。
その理由を僕は察する事は出来ない。カフカさんとは出会ったばかりで、彼女の事を僕はまだまだ知らないから。
でも、逸らされた視線と、声色で、僕はなんとなくざわっとした。
そして気づく。
カフカさんの意図ではなく、僕自身の感情に。
どういう感情かは、正直まだ分からない。その中身を確かめるのは今じゃない。
けれど僕は今、この純白で綺麗な人に、どうしようもなく惹かれているのだ。
カフカさんの手が伝票に伸びる。僕はそれを先んじて奪った。
「えぇっ?」
「これ、さっきの分のお詫びですよね」
「え、うん。そうだよ?」
「じゃあ代わりに」
スマホを操作して、アプリを起動させる。それは日本人ならば誰でも利用するメッセージアプリだ。
僕はその『友達追加』と書かれた画面を表示して、伝票の代わりに突き出した。
「『次』、奢ってください」
ふわりと、広がった髪が綺麗な花弁を描く。
「あはは! 上手だね、君っ」
カフカさんは机の下からスマホを取り出して、そのまま僕の画面に表示されたコードを読み取った。
「いいよ碧くん。また遊ぼ!」
その言葉に、僕は笑って頷いた。
挨拶代わりのスタンプを送って、たわいのない会話を交わしながら、僕たちは外へ出て行く。
傘はもう、必要なかった。
◆
それから僕たちは、連絡を取り合うようになった。妙な出会いのせいか、暇があれば遊ぶ関係になったのだ。縁が一度では途切れなかった。僕はその事実がただ嬉しい。
そんな、とある天気の良い日の午後。
僕はカフカさんの部屋で、勉強をしていた。
「中間終わったばかりなのに勉強するの?」
ベッドの上で仰向けになりながら、カフカさんは参考書をぺらりとめくっていた。染めるのが大変だと言っていた純白の髪が花弁のように散らばっていて、控えめに言って上から眺めたい気分だ。
「まぁ、はい」
「なんで? 碧くん成績良いよね?」
「う~ん……笑いませんか?」
「あはは! はい、話して~」
「先に笑ったからってのはセーフとかないですけど!?」
理不尽だ。
けど僕は、ため息をつきながら話し始める。……勿体ぶっておいてなんだけれど、抵抗感が薄い。きっと僕は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「手、抜きたくないんです。僕は違う世界とか、ちょっと不思議な体験とか……そういう『空想』に憧れますけど、そっちに現を抜かして『現実』を妥協していい訳ではないじゃないですか」
「まあ、うん」
「むしろ逆だと思うんです。ちょっとでもいいから苦労して、『現実』に向き合ってるからこそ、そういう『空想』ってあり得るんだって思うんです。勉強ってその代表例だと思ってますし」
『現実』と『空想』は別のところにあるのではなく、どちらも延長線上にあるのだと、僕は思っている。
「そう思うと手が抜けないんです。それに、色々疎かにしてカフカさんと過ごせなくなるのも嫌ですからね」
ページをめくる音が、少しの間止んだ。
「……花丸」
「なんですか?」
「そこの問題全部合ってるから花丸だーって言ったの」
「ありがとうございます」
本で隠された表情を想像しながら、僕という確信犯はペンを走らせた。
「ねえ碧くん。碧くんさ、超能力とか魔法とか好きだよね?」
「はい」
「そういうのって、良いものだと思う?」
「……真面目な話ですか?」
答えないまま、ぺらり。
数週間の付き合いで、続きを待っている事が僕には分かった。
「まあ、一応? もちろん人を傷つける物もあると思いますけど、夢があってやっぱりテンション上がっちゃいます」
「ふぅん」
微妙に曇り始めた空を横目で見ながら、カフカさんは「でもさ」と言った。
「魔法使いに憧れるのだけはやめときなよ」
「何でですか?」
「……魔法使いなんて、子どもをさらって奴隷にしたり、殺し屋として訓練させたり、その果てに神様殺そうとしたりするから。それに魔法は便利だけど、制約が厳しいし、適性のない魔法は使えないし。とにかく、憧れるようなものじゃないって」
色のない表情で、カフカさんは言った。
……なんで。そんなにリアルなんだ。嘘に聞こえないんだ。僕は少し怖くなって、生唾を飲みこんでしまう。
本当は気づいていた。カフカさんは、そうなんだ。
「カフカさん」
「な~に」
「………………その参考書、ラノベでしょ」
「ぶわーーーーー!! ばれたっ!!」
カフカさんが跳ねた拍子に、本のカバーが取れて表紙が露わになる。僕がずっと参考書だと思っていたそれは、大判本のライトノベルだった。
カフカさんは僕がナルニア国物語を貸した時から、ライトノベルなどのファンタジー物にハマってしまったのだ。
悔しい。カフカさんが真面目に参考書読んでる! なんて思っていたのに……!
「やっぱり魔法使いものじゃないですか……また僕の部屋から勝手に取って! さっきのやつキャラの台詞ですよね!?」
「あっはは! ごめんよ、一度ぐらい言ってみたくて!」
片目ウィンク。
可愛さに負けそうになったが、代わりに僕は鼻を鳴らした。
「来月の新刊、貸しません」
「あっ、ごめんってばー! 私が悪かったよう!」
結局、僕がお願いに屈してしまったかどうかは……言うまでもないだろう。
◆
最近、気になる後輩が出来た。
出会いは偶然。でも、妙に話が合って、色々詳しくて、小さな子供みたいな夢を抱いてる子。ただファミレスで駄弁るだけでも楽しいし、勉強を教えてほしいと言われた時は嬉しかった。
だから私は、彼と繋がりを求めてしまう。互いにかどうかは正直……そうだったら嬉しいなとは思う。
そんなある日、誰もいないローカル線。
茜色の差し込む第二号車で、私たちは揺られていた。
「それで、友達が突然……」
「……」
「カフカさん?」
碧くんの言葉をあえて無視して、私は作戦を実行する。
高鳴る心臓を抑え、首を揺らして、目を細めて。……ちょっぴり躊躇って、覚悟が決まったからゆっくりと頭を彼の肩に預けた。
「カフカさん」
「……」
「寝ちゃった……?」
髪越しに伝わる布の感触と、その奥にある確かな体温。偶然を装う事でしか生まれない、この微かな触れ合いを喜ぶ私がいた。
「……」
見なくても分かる。彼は少し困ったように、考えて、頭の位置がずれて私が起きないように、しっかりと座り込んだ。
受け入れてくれた、気遣ってくれた。その事実が何より嬉しくて、心に手足が生えていたのなら悶えていただろう。
「まつ毛なが……」
碧くんは呟きながら、私の前髪を後ろにもっていった。
み、見られてる……! 多分前髪を弄ったのは、顔が良く見えなかったからだろう。うう、あまりにも恥ずかしい……
肌ではなく、髪に触れられているだけ。それがくすぐったくて、じれったくて……でも今更起きるのもなんか違うし!
結局、私はずっとされるがままだった。
「カフカさん」
「ん……」
揺さぶられ、同時に聞こえてくるのは、碧くんの最寄り駅についたというアナウンスだ。
頭から離れる熱を名残惜しく感じながら、私はわざとらしくまぶたを擦った。
「あれ、ごめん寝ちゃってた!?」
「ぐっすりでしたね」
「ありゃ、気づかなかった……」
片目ウィンク。
「それじゃあまた。時間あったら夜にでも通話しましょう」
「うん、またね」
手を振って、碧くんは電車を降りた。
電車の出発音が鳴る。上半身が陰に隠れる中で、彼は静かに言った。
「……カフカさんって」
「うん」
「照れると、耳赤くなりますよね」
一瞬言われた意味が分からなくて、きょとんとした顔を晒してしまった。
「っ……!?」
思わず耳に手をやった。
もう片方の手でスマホを取り出して内カメで確認するけれど……別に赤くなんかなってない。
どういう事かと顔を上げてみれば、碧くんは、にひっと笑っていた。
「やっぱり」
「え、ぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~……!!」
「いつもからかわれてるから、仕返しです」
「ちょ、ちょ、も~~~~!!」
独特な空気の音で、扉が閉まる。
「またね、カフカさん」
満足気に、彼は改札へと向かっていった。
「っ~~~~……」
茜が鳴りを潜め始めた、誰もいない二号車の中。
私は緩みきった顔がとても恥ずかしくって、顔を下に向け、手で覆った。
「嘘、上手じゃんかよ~……!」
約一か月の短い付き合いだけれど、碧くんは人にこういう事をする人ではない。
という事は、この『仕返し』は……私だけに向けられた行動、感情で。それを嬉しく思ってしまう私がいた。
いつもはちょっと気弱なのに、素直で、時々こうして強く出て来る。
そんな碧くんに──私はどうしようもなく惹かれてしまっていたのだ。
◆
それは、友達と遊んだ帰り道だった。
赤信号で立ち止まる、ほんの少しの時間。私がスマホを弄っていると、通行人の二人組の会話が聞こえてきた。
「ねえねえ、不審者情報聞いた?」
「え、知らない」
「なんかね、黒づくめでフード被ってる集団がいるんだって。誰か探してるらしんだよね!」
「───」
……視界がぼやける。耳鳴りと、それ以外の音が遠くに響く。
大嫌いだ。
鳥肌の立つ、この感覚が嫌い。
信号が青に変わる。
いても経ってもいられなくなって、私は走り出した。
「……………ッ」
現実が、追いついてくる。
もちろん、私はそうならないように色々と工夫をしてきた。
私は、世界に馴染んでいるはずだ。
けれど万が一がある。もしかすると、逃げきれないかもしれない。もしかすると、碧くんが危険な目に遭うかもしれない。
それだけは───
「……ぁはは……ッ」
そこで、気づいてしまった。
なんだ。
ああ。
私、碧くんの事心配するんだ。……心配、しちゃえるんだ。
自分よりも、あの子の事を……ッ。
でも、だからどうするというのだ。
何をすれば、救われるのだろうか。
「………」
自分が暗雲の下にいる事に気づいた。
もうすぐ雨が降るだろう。
それでも私は止まる方法を見つけられないままに、走り続けた。
◆
「カフカさん、どうしたんですか……」
「……」
「悩みがあるなら聞きます。聞かせてください。……僕は、そんなに信用できないですか?」
返事はない。
でも僕は、カフカさんの悩みについて少しだけ予想がついていた。
きっとそれは、初対面で僕を壁ドンしたのと関連がある事なのだ。カフカさんはずっとずっと、一つの事について不安を拭えず、悩み続けている。
傘を差さないまま、僕はカフカさんに寄り添う。
すると彼女は、ぽつりと呟いた。
「……なんで君は、私の事を心配するの?」
「───」
尋ねられて、僕は考える様に黙った。
……嘘だ。
答えなんて最初から出ている。僕が未だ答えてないのは、その言葉を言うのが怖いだけに過ぎない。
でも、僕は言う。カフカさんが良いという僕は、多分そういう僕だから。いつの間にか、素直でありたいという僕自身の願いを、それは上回っていた。
「カフカさんが好きだからです……」
小さな、水玉に吸い込まれるような告白。
でも、水玉でいい。劇的である必要なんてどこもにないのだから。
「……クスっ」
「わ、笑われた……!?」
「碧くんが超狼狽えてるの、なんか面白くって」
「あぁもう、からかわないでくださいよ……!」
「ん? 違うよ?」
ガラスのような綺麗な瞳が、僕をじっと見つめていた。頬は赤く染まり、唇は艶やかに濡れている。頬には隠せない緩みがあった。
「これは心臓どきどきしてやっばいから必死に誤魔化してるだけ」
「え」
驚いて、開いた口が柔らかい感触で塞がれた。
啄むような、ぎこちない何の誤魔化しのない、感情のままのキスだった。
「カフカ、さん」
「私も……君の事が好きだよ」
カフカさんは僕の胸に頭を押し当てて、にやけた顔を隠した。
咄嗟に抱きしめてしまう。だってこのまま顔を上げられたら、僕も顔を隠さないといけなかったから。
体が熱い。雨のせいで濡れているはずなのに。
「……悩んでた事ね、本当はもう大丈夫なんだ」
「そうなんですか……?」
「うん。後はもう、私が頑張るだけなんだ。でも勇気が出なくて」
華奢な体が震えている。今、カフカさんは何にも偽っていない。触れ合った感触からそれが伝わってきた。
「でも、君がいてくれたら勇気が出るかもしれない」
「……」
「だから」
ゆっくりとカフカさんは顔を上げる。潤んだ瞳と、高揚した表情を僕に向けて。
「だから、今日は一緒にいて……?」
◆
このままではいられない。
私はもう、彼を置いてはいけないのだ。手を引いて逃げる訳にはいかないのだから、立ち向かわなければならない。
碧くん風に言うのなら───限りなく『空想』に近い『現実』に。
私はこれから立ち向かう。勇気は、もう貰った。
「───」
灯りのない真っ暗な部屋の中で、静かな寝息を立てる彼に口付けを落とす。
震える手を抑え、一度だけ深呼吸をしてから、私は。
───窓から、飛び降りた。
逆向くネオンとすれ違う中で、『カフカ』は原点へ還る。
◆
連絡がつかない。
夜中にふと目覚めて、ベッドにあるはずの熱がない事に気づいた。
「カフカさん……」
思いつめた顔をしていたけど、最後にカフカさんは吹っ切れた顔をしていた。それはつまり、勇気が出たという事だ。……何かを行動に移す、勇気が。
悩んでる事の詳細は、起きてから聞こうと思っていた。カフカさんもそのつもりなんだと、勝手に思っていた。
話さず消えるだなんて、悪寒が止まらない。
僕は上着を羽織り飛び出した。
雨が降っていたけれど、気にする余裕なんて微塵もなかった。
「はっ……は……!」
夜の道を駆け抜ける。必死過ぎて時々人にぶつかりながら。
なんとなく予想はついていた。カフカさんは悩んだ時、必ず人のいないところを目指す。あの人は大勢を好まない。
だから、もしいるとすれば、それは出会った時のような、薄暗い小道で──
「っ……!」
遠くから聞こえてくる複数の足音に、思わず急停止した。
角に身を縮こませ、口を抑えてやり過ごす。
「どこへ行った……」
「まだそう遠くへは行ってないはずだ」
短い会話を交わしながら、黒づくめでフードを被った人間たちは散らばっていく。その足音が遠のき、気配が消えるまで、僕は呼吸を止めていた。
「はぁ……ッ! はぁ……はぁ」
息を整えて、僕は周囲を見る。
「あれ、ここ……」
小路を探して走っていれば、辿り着いたのは見覚えのある場所だった。つまりここは、通学路からほど近い場所だ。
「そうだ、あの時もこんな風に」
濡れるアスファルトを踏みしめながら、僕は進む。
路地裏に目をやった。
町を薄い霧のような水玉が包んで、静けさが身を摘まむ中、彼女はそこにいた。
──その足元を大量の鮮血で濡らしながら、カフカさんは壁に寄り掛かっていた。
「……カフカさん……………………?」
足元の水に、別の物が混じる。目の前の現実が信じられない。
だって、なんで、カフカさんが、え、え。
え?
「カ、カフカさ………カフカさん、カフカさん!!」
走り寄って、倒れるカフカさんの体を支える。流れる血液は、彼女の腹部に空いた大きな穴からのものだった。
ぎょっとする。拳一つぐらい入りそうな穴が空いていて、こんなの、とても現実とは思えなかったから。
「あーあ……なんで、見つけちゃうかなぁ……」
カフカさんは口から血を吐いて、光のない瞳を僕に向けてくる。焦点は定まっていなかった。多分、あんまり見えてもない。
それでもカフカさんは、懸命に…上手に笑えてないけど、微かに口元を動かしていた。
「ごめんねぇ、どじっちゃった。こんなはずじゃなかったんだけどなぁ……報い、かもね」
「とにかく、救急車……!」
「碧くんさ」
ゆらりと、顔だけをこちらに向けてくる。
「この前の話聞いても、魔法、好き?」
この前の話。……ラノベの話してる時の、魔法使いだけは駄目だっていう、話。
不思議と、印象に残っていた。
僕はカフカさんを見た。この人は悪戯好きだけど、こんな時に冗談を言う人じゃない。真面目に聞いているんだ。
「……好きです」
「なんで?」
「例え魔法使いが酷い存在でも、もし『現実』ぐらい希望なんてなくても……でも、僕は憧れるし、好きであり続けると思います。じゃないと……面白く、ないと思うんです」
「そっか」
カフカさんは目を逸らして、空を見ながら、もう一度。
「……そっか」
何か、肩の荷が下りたような、吹っ切れたような声色だった。
「まだ、望みはあるんだね」
「なにを、んむっ……!?」
カフカさんは急に上半身を起こして、僕の後頭部を掴み、キスをした。
触れ合う口腔。
体に生暖かい物が触れて、それが血液だと理解してか、もしくはキスをされた事の衝撃か、心臓が強く一度脈打った。
強く、強く唇が押し付けられる。
数秒程度のキスが続いて、カフカさんは僕から離れていった。
反射的に分かってしまう。それは、上体を維持するだけの力が失われていっているからだという事実を。
「カフカさッ」
唾を飲み込み、僕は叫ぶ。
「待って、僕はまだ何もッ!!」
「君が」
力なく、片目ウィンクをして。
「魔法使いに……ならなければ、いいのに……ッ」
ふっと閉じる。
壁にぶつかりそうになる頭を静かに抑えて、その体から、完全に力が消えたことを知った。
「───」
心音とそれを煽るような雨音だけが、空間を木霊している。
黒を孕んだ雫がカフカさんの髪を濡らし、その純白は薄汚れていった。
「──死んだか、逃亡者カエティタス」
煩い靴の音が響いた。
視線だけを向ければ、路地裏の入口に黒いフードを被った人間が立っている。
一人が、僕に手を差し出した。
「少年、悪い事は言わん。遺体を渡せ」
脊髄を撫でられるような、不快な声だった。ノイズにもほどがある。内側からふつふつと感情が湧き出る感覚がした。
「お前ら、が……」
違う。
湧き上がっていたのは、感情だけではない。気持ちに呼応して、明確な”何か”が湧き上がってきた。
指先が白い光を帯びる。
「お前らが、カフカさんを───ッ!!」
光が弾けた。
まるで波のようにして灰色の世界を漂白し、フードの男たちへ向かって迫っていく。
男は掌をこちらへ向けた。
瞬間溢れ出したのは、黒い真逆の光だ。
「───」
ばちんッ! と大きな音が頭の中で響いた。
何かが弾けた痛みを自覚したのは、僕が光りに呑み込まれて吹き飛び、地面を何度も転がった後だった。
男の黒い光は、僕の白い光を歯牙にもかけなかった。
そして僕は、すぐに悟った。
「ッ……」
力を受け取ったとか、仇を取るための奮起だとか───そんな幼稚で都合の良い抵抗では、現実を打ち砕く事は出来ない。
その手段を、僕は取る事が出来ない。
(ダメだ……ッ、この方法は、違う……!)
───君が、魔法使いにならなければいいのに。
カフカさんはそう言った。
考えろ。
考えろ考えろ考えろ!
なぜカフカさんは、そんな事を──
「……!」
軋む体を抑えて、顔を上げる。
勢いよく僕は振り返った。
見覚えのある景色が、そこにある。
「向き合ってるからこそ、そういう『空想』が……」
過去を反芻する。
同時に背後で、音がした。それは先頭の男が、光を放つ寸前の音だ。
「───」
迷っている暇はない。
信じない理由もない。
怖いけれど、僕は力と意志を受け取った。ならば僕はそれを絶やしてはいけない。
例え向かう先が地獄だとしても、歩みを止めてはいけない。
いつか追いつかれた時に、立ち向かえるように。
「……ッ」
光が迫る。
世界が、灰ではない漆黒に染まる。
だから僕は、微かにズレたマンホールの蓋を、不思議と湧く力で退かして。
転ぶように体勢を後ろに倒し。
その中へ、飛び込んだ。
「……カフカさんッ」
寒気と空気の音が全身を包む。
──孔に混ざる雨の中に、逆さの雨が降っていた。
薄れゆく光の中で、僕は誓う。
「僕は、魔法使いになります」
星奈碧は、形跡を絶った。