演目5 ドラゴンと聖なる剣
最初は囁くように、それから段々と跳ねるように大きく、ハープシコードの音色が響き出す。
突然、灯りが消えて真っ暗になったかと思ったら、パッと丸盆の中央だけが切り取られたかのように明るくなった。
『皆様、これより当サーカス最後の演目をご覧にいれましょう』
丸盆の中央、スポットライトに照らされていたのは、ハゲの紳士こと団長クラウンだ。
シルクハット、スリーピースにボウタイ、ステッキという出で立ちに見事なカイゼル髭の紳士姿からは、頭の天辺の滑らかさなど想像もできない。
『これよりご覧にいれますのは、凶悪なドラゴンと戦う勇敢な少年の物語。その勇敢な少年とは――あなたでございます!!』
ハゲの紳士がひときわ大きな声を出した途端、目の前が真っ白になった。
目も眩むような強い光に照らされて何も見えなくなったのだと気づいたのは、ようやっと目が慣れてきた頃だ。
「……え?」
桟敷席にいたぼくを、眩いスポットライトが貫いている。
何事かと困惑する間もなく、ずしん、ずしんとお腹の底に響くように地面が揺れた。
少し離れた場所にいるドラゴンが、こちらに近づいてくる音だ。
そうか、これは観客が参加するタイプの演目なんだ。
突然のことで戸惑ったけど、それならそれで楽しもう。
ぼくは立ち上がり、丸盆の上にいるドラゴンを眺めてニヤリとした。
ドラゴンといっても、大きさはせいぜい象くらいなものだ。
朱色のごつごつした皮膚は硬そうで、口の端から覗く牙は鋭く太い。
琥珀のような瞳は、ヘビと同じように縦に開閉しながらぼくを睨みつけている。
ぶしゅうぶしゅうと聞こえてくる不快な音は、喉を鳴らして威嚇しているのだろうか。
こうして見ると、まるで本物のドラゴンの前にいるみたいだ。
『さあさあ! 世に災いを振りまくドラゴンを倒せるのは、聖なる剣のみ! 聖なる剣に選ばれし勇敢な少年は、見事ドラゴンを打ち倒せるでしょうか!?』
新たなスポットライトの下、ぼくの前にひと振りの剣が現れる。
物語に出てくるような豪華な装飾のついた剣が、地面に突き立てられていた。
最後の演目は、観客がこれを持ってドラゴンと戦う筋書きなのだろう。
剣なんて持ったことはないけれど、適当に振り回してみればいいんだろうか。
ぼくは、やたらと装飾のつけられた剣の柄を握り締めて、引き抜こうと力を込めた。
――のだけれど。
「……?」
目の前の剣を手にしたぼくは、戸惑った。
地面から抜こうと力を入れても、抜けなかったからだ。
たくさんの装飾がつけられたその剣はかなりの重さで、両手で持ち上げようとしてもほんの少ししか動かない。
サーカスの小道具のくせに、これはあまりに不親切じゃないだろうか。
ぼくはもう1度、渾身の力を込めて剣を抜こうとした。
だめだ、抜けない。
『さあ、その聖なる剣を手に取ってドラゴンを打ち倒すのです! さもなければ……』
クラウンの口上に合わせるように、ドラゴンが口を開いた。
鳴らしていた喉が開いて、炎の塊が見える。
なんとなく。本当になんとなくだった。
ぼくは剣から手を離して、後ろに下がった。
もしかしたら、無意識のうちに怖くなっていたのかもしれない。
誰かの叫び声が聞こえたのと、目の前が真っ白になるのと、顔がチリチリ痛むのは、同時だった。
何が起こったのかわからず、だけど怖いという気持ちだけが急激に膨れ上がって、ぼくはぺたんと尻もちをついた。
すぐ近くで、鼻をつく焦げ臭いにおいがする。
叫んでいたのは、ぼくだった。
知らず知らずのうちに悲鳴をあげていたらしい。
喉の奥が、ひくひくと痙攣している。
『――さもなければ、命の保証は致しかねます』
焦げ臭かったのは、剣の形をした炭の匂いだ。
ぼくがどれだけ力を込めても動かなかった剣は、ぐらりと傾いでゆっくり倒れていった。
豪華な装飾は見る影もなく、倒れていく途中でボロボロ崩れてしまう。
かさりと空虚な音だけを残して、ドラゴンと戦うための聖なる剣は消え失せた。
あのとき下がらなければ、剣と一緒にぼくも炭になっていたかもしれない。
ぞっとして、息がうまく吸えなかった。
「ひっ……」
ずしんと地面が揺れて、こっちに一歩進んだドラゴンと目が合った。
当然のことだけど、ぼくは今までドラゴンなんて見たことないし、そもそも本当にいると思ったことすらない。
ドラゴンなんて、物語の中にしかいないものだ。
でも、ここにいるのは?
空飛ぶ魚も、妖精も、人魚もこの目で見たばかりなのに、どうしてドラゴンだけが本物じゃないなんて思えるだろう。
ここは夢の中で、現実にはいないおとぎ話の生き物たちもここでは本物なのだとしたら?
夢の中でぼくが死んだら、現実のぼくはどうなってしまうんだろう?
そもそも、ここは本当に夢の中なんだろうか?
楽園のサーカスで、サーカスに囚われたこどもたちは、その後どうなったのだろう。
夢の世界から出られなくなり、サーカスの中で生きるためにサーカス団員になったのだろうか。
それとも……
かち、と奥歯が鳴った。
がちがちがちがちと、奥歯が震えてぶつかる音がやけに耳の奥に響く。
立ち上がらなければと思うのに、まるで脚が言うことをきかない。
怖くて怖くて叫び出したいのに、喉の奥に何かが張り付いたように声が出ない。
物語に出てくるドラゴンは、たいてい『小山のような』とか『城より大きい』なんて書かれているから、象くらいの大きさのドラゴンなんて大したことがないと高を括っていた。
象だって、十分大きいのに。
「たすけ、て……」
やっとの思いで絞り出した声は、肺から漏れる空気の音に混じって言葉にならなかった。
ぼくはここで本当に死んでしまうんだろうか……