まだ心の準備が
朝の柔らかな光が差し込む部屋に穏やかにブラシの音が響く。
「グレイスお嬢様、本日のお召し物はいかがいたしますか?」
大きな鏡の中には、クレアに長い髪を手入れされている自分が写っている。
腰まである波打つ髪は銀色で、瞳はグレー。下がり眉に大きなたれ目が印象的な顔は、よく言えば控えめで落ち着いた印象といったところだが、グレイスは自分ではぱっとしない顔だと思っていた。
「今日は特にご予定ございませんでしたから、お嬢様のお気に入りのワンピースにいたしましょうか」
丁寧に梳かし終えるとクレアはにこっと笑い、手慣れた動きでサイドの髪をみつあみにして、ハーフアップにまとめてくれる。何度見ても器用だと思う。グレイスも自分でやろうとしたこともあるが、ウェーブが強く広がる髪は一つにまとめて紐で結うことすら難しかったのだ。
「そうね、なんでもいいのだけれど、今日は特に予定がないからあのワンピースに……」
言いかけてふと口をつぐむ。
昨日の夜、アルバート様に言われた言葉を思い出したのだ。
貧相で地味で、幽霊みたい。
突然黙り込んだグレイスに、クレアは怪訝そうに手を止めた。
「お嬢様?」
「ねぇクレア、正直に言ってほしいの。私の見た目ってもしかしたら、その、貧相かしら?幽霊みたいだったりする?」
目を伏せながら伝えると、背後からはブラシが柔らかなカーペットに落ちるぽすんという音が聞こえた。
「お嬢様、とんでもない!何を言ってらっしゃるんですか!」
焦ったようにクレアが叫ぶ。
「ああ、貧相!?幽霊!?だなんて、まさか誰かにそんなことを言われたのですか?誰に……ってあのクズしかおりませんね!?お嬢様、クズ王子の言うことなんて真に受ける必要はございません!」
メイドとしてはしたないほどに大きな声で、公爵家メイドとしてあるまじき発言をしながらも、自分以上に腹を立てていることがひと目でわかるクレアの様子を見ていると、ようやく頬が緩み笑みが浮かんだ。
「もう、クレアったら。だめよそんな言葉遣いして」
くすくすとこらえきれないように肩を震わせるグレイスを見て、クレアも落ち着きを取り戻したようだ。
「失礼いたしました、お嬢様。でも、本当にお嬢様は貧相なんかじゃありませんからね。自信を持ってくださいませ」
ブラシを拾い上げながら言う。
「ありがとう。そんなこと言ってくれるのはクレアだけよ。でも我ながらもう少し華やかな顔だったらよかったのにって思うわ。そうしたら素敵なドレスだって着こなせるのに」
ハーフアップにしてくれた髪を右手で一房つかみ、指先でくるくるとねじる。梳かしたばかりだというのに、強くウェーブのかかった髪は指に絡みつき広がる。
どんなにケアしても憧れの直毛ストレートとは程遠い髪は、コンプレックスの一つだ。
以前、アルバート様と散歩をしているときに強風で髪が乱れてしまったときに、まるで鳥の巣だなと言われたのを今でも覚えている。
「銀の髪にグレーの瞳なんて、地味な色合いだもの」
口に出すと思っていた以上に子供っぽくすねたような言い方になってしまい、少し恥ずかしくなって鏡から目をそらした。そんなグレイスを見てクレアはにこっと鏡越しに微笑んだ。
「誰がなんと言おうと、グレイスお嬢様はとっても可愛らしいです。でも、お嬢様もお年頃ですもの。見た目に興味を持っていただけたのは喜ばしいことですわ。ご存知ですか?最近城下では、ご自分の肌の色や瞳の色から似合う色を見繕ってくれるサロンが人気だとか」
クレアは鼻歌でも歌うようなかろやかな足取りで、続きの衣装部屋から、持っている中では一番華やかな深いスミレ色のワンピースを手にとると楽しそうにグレイスにそっと当てた。
「お嬢様、もし本日ご予定がまだお決まりじゃないのなら、行ってみますか?色合わせ以外にも化粧品などもございますし、最近は城下にも降りていませんでしたでしょう?気晴らしになるかと思いますよ」
「うーん、どうしようかしら。サロンなんて美しい方ばかりが集まるんでしょう?まだ心の準備が……」
「いいえ、お嬢様。きれいになりたいと思ったときがそのときです。私のお嬢様を貧相だなんて、二度と言わせませんわ。では午後はサロンに参りましょうね。そうと決まればさっそく手配して参ります」
にっこりと有無を言わせぬ圧の強い笑顔で押し切られ、グレイスは曖昧に微笑んだ。歳も近いクレアはグレイスにとって頼りになる姉のような存在だが、今まであまり自分の見た目に拘ってこなかったグレイスにとって突然のサロン訪問なんて緊張のイベント以外の何物でもなかった。