09 体温
全部忘れて、飲んじゃおう! と、調子こいたのがいけなかった。
久々の、ビール・日本酒・ウイスキーのチャンポンは、浮かれた脳細胞にやたらと効いて効いて、効きまくり――。歓迎会がお開きになるころには、私は、ここ最近になく『酔っぱらって』しまっていた。
それも、あまり良い酔い方じゃない。はっきり言って悪酔いだ。
「……うえっぷ。きぼじばるい……」
うわぁ、トイレの床と天井が、グルグル回ってる。
いくら何でも飲みすぎだわ、こりゃあ。腰が立たないぞ。
「はぁっ……」
洗面台の前で、床にしゃがみ込んだまま立てなくなってしまった私は、酔いの回った頭でひとり、反省モードに突入していた。
何、やってるんだか。ああ、私って……。
「相変わらず、要領の悪いヤツ」
背後から聞こえてきた声に、アルコールで既にフル回転状態だった鼓動が大きく跳ねまわり、ただでさえヅキンヅキンしているこめかみに、更に負荷をかけていく。
ああ、うるさい。もう、いい加減に慣れても良いのに、この心臓め。
低い声音には、あの頃と同じ響きがあった。
からかいと。そして、そこに垣間見える優しさ。
なんで、こんな所に顔を出す?
下腹にぐっと力を込めて、私は、何とか立ち上がった。
「あによ。二十八歳の大人の女を捕まえて、その言いぐさはないんじゃない? 私は、もう、アンタが知ってる、十八歳の、女の子じゃないんだから!」
そう言い放ち、振り返る視線の先には、東悟の真っ直ぐな瞳。谷田部課長じゃなく、大好きだった『東悟』の真っ直ぐな瞳。そこには、社交辞令の笑顔は張り付いていない。
「大人ってのは、自分の酒量限度を知っている人間を指して言うモノだと思うね、俺は」
「……嫌いよ」
ああ、これは、きっと。飲み過ぎたアルコールのせい。じゃなきゃ、仮にも上司に対してこんなセリフは吐けやしない。
「知ってた? 私……、アンタなんて、大っ嫌いっ!」
今まで必死に押さえていた危うい理性という名の『タガ』は、いとも簡単にすっ飛んで、剥き出しの感情が口から溢れ出していく。
酷いことを言っている。そう言う自覚はあるけど、一度口から飛び出してしまった言葉は、もうどうしようもない。
たぶん、私は彼を怒らせたいんだ。
大人ぶった『谷田部課長』の仮面をはぎ取って、あの頃の東悟に戻って欲しい。そう、心の何処かで思っている。なのに東悟は、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ私を見詰めている。くだを巻く私を、ただ真っ直ぐな眼差しを向けて見詰めている。
なによ。なにか、言いなさいよ、この薄情男!
今まで聞きたくても聞けないでいた、あの時の失踪理由。とっくりと、聞いてやろうじゃないの。あの後、私がどんな思いであなたを捜したか。理由さえ言ってくれれば、思い切れたかも知れないのに。それさえもなく、姿を消すとは、なんて悪行三昧。この、人でなしっ!
この際だから、一切合切ぶちまけてやるうっ!
と、力いっぱい睨み付けていたら、あまりに変な力が入ったのが原因か、急に鳩尾の辺りから酸っぱいモノが込み上げてきた。
「うっぷ……」
ヤバイ……吐きそうっ。べ、便器プリーズ!!
いくら酔っぱらっていても、『洗面台で吐くわけにゃいかない』と妙な理性が働き、口を両手で押さえてトイレに行こうとするけど、体が思うように動かない。
一歩、足を踏み出した所で、ぐるんと世界が一回転した。首筋の辺りから、すぅっと一気に血の気が引いていく。
ああ、もうダメかも。
ここで床に頭を打ち付けて、ゲロにまみれて死ぬんだわ、きっと。
高橋梓、享年二十八歳。
新任課長の歓迎会にて、事故死。
そう、朦朧とした意識の下で、覚悟した。
なのに。
いつになっても、頭の痛みも、冷たい床の感触も伝わってこない。
あれ?
もう、既にあの世行き?
それにしては、フワフワと心地が良い。
そうか、これが天国というヤツかも……。
「やだ、梓センパイどうしたんですか!?」
あれ、美加ちゃんの声がする。
ゴメンね。
美加ちゃんが幹事の歓迎会で、迷惑かけてゴメンね。
「少し、悪酔いしたみたいだから、このまま送っていくよ。どうせ、同じ方角だからね」
ん? なんで東悟の声がするんだ?
あの史上最大の薄情野郎は、理由も告げずに私を捨てて行って、何処に居るのか分からないのに。
「そうですか? じゃあ、よろしくお願いします、谷田部課長」
谷田部課長?
誰だっけ、それ?
すうっと意識が遠のいて、次に気が付いたのは、タクシーの中だった。
体に伝わる、微かな振動音。
窓の外には、半分眠りに就いた夜の町が、ゆっくりと流れ去っていく。
そして。頭の下には、『誰かさん』の広い肩――。
背広越しに感じる微かな体温は、妙に温かくて、急に鼻の奥に熱いモノが込み上げてきてしまう。
「っ……」
一生懸命、押しとどめようとするけど、無駄な抵抗で。
ポロポロと、後から後から溢れ出す涙。
泣き上戸じゃなかったはずなのに。
涙が止まらない。
この肩の温もりを、体温を、愛おしいと思う自分に気付いてしまったから。
涙が止まらない。
「俺の前で、あまり無理をするな……」
優しい囁きと共に、そっと触れた彼の指先が、頬を伝う涙を拭っていく。
お願い。
優しくしないで。
私に、あなたを好きでいてもいいって思わせないで。
私は、もう嫌なの。
あの時みたいに、
自分の半身が裂かれるような、あんな思いをするは嫌なのよ――。