08 微熱
切なる願いは、誰にも聞き届けられることはなく。
就業時間も終わった午後七時。私は、ますます困った状況に陥っていた。
「それでは、谷田部、新・工務課課長の着任を祝って、乾杯ーっ!」
こういうシーンでは断然張り切りモード全開になる美加ちゃんの音頭で、近所の和食料亭において、めでたく谷田部課長の歓迎会が執り行われていた。
今日は、花の金曜日。おまけに、気前が良いことに会費は全額会社持ち。これで盛り上がらない訳がない!
私だって、こういうお祭り騒ぎは嫌いじゃない。
職場の仲間とわいわい楽しくお酒を酌み交わす。おおいにけっこう、大歓迎! だけど、このポジションはどうよ?
「さあ、さあ、梓センパイ! 谷田部課長も、どんどん飲んでくださいよー。帰りのタクシー代も出ますから、思う存分本性だしちゃってOKですよ! まずはビールビール!」
本性って、美加ちゃん。どんな、本性よ?
とばかりに、人聞きの悪いことを言う美加ちゃんに半眼でジト目を送るけど、正直なところ、私の全神経は左側面に集中している。
なぜなら、『私の左隣』には、実に人当たりが良いニコニコ笑顔を浮かべている、新任課長様が鎮座されているからだ。
そう。よりによって『私の隣』。
補佐役の私は、『課長のお隣』。
何だか、瞬く間に、工務課内でそう言う暗黙の了解が出来てしまったみたいで、当たり前のように私の席は課長の隣に用意されていた。
なるべく課長から遠く離れて、こっそり影を薄ーくして目立たないでいようと言う私の企みは、かくも儚く砕け散ったのだった。
それにしても。これって、拷問に近いんですけど?
「高橋さん――」
「は、はいっ、なんでしょう」
「君には、当分面倒をかけてしまうが、改めてよろしく頼みます」
って、課長は柔らかい笑みを浮かべて、ビール瓶を差し出した。
今日は、お酒を控えよう。
そう思っていたけど、社会人として、これを断る訳にはいかない。そもそも、部下の私の方が先にお酌してしかるべきなのだ。
「いいえ、こちらこそ。まだまだ未熟者ですが、私に出来ることでしたら、なんでも言いつけてください」
ニコリ。
ちょっと引きつり気味の笑顔を作ってみたけど、成功しているか甚だ怪しい。
「ビールで良いですか? 後は、日本酒とウイスキーもありますけど」
「そうだな、じゃあ、薄目の水割りを貰おうかな」
「はい、水割りですね」
思えば――。
東悟と付き合っていた頃、私はまだ十八、九歳で。
缶ビールを美味しそうに飲んでいる東悟の傍らで、いつもオレンジジュースを飲んでたっけ。
悪戯心で舐めたビールの、ほろ苦い味。
こんな苦いモノをどうして『美味しい』というのか、不思議だったけど。今じゃ、その味も分かるようになった。
「はい、どうぞ。良かったら、食べて」
ビールをちびちび舐めながら遠い昔に思いを馳せていたら、低い囁き声と共に隣からスッと大きな手が伸びてきて、白い小鉢を私のお膳に置いてすぐに引っ込んだ。
私の好きな、『ホウレンソウのゴマ和え』。
ああ、もう。
こういうことするのか、このお人は。
火に油を注がないでよ。
胸の奥でくすぶり続けていた埋み火が、にわかに熱を帯びていく。
その温度を下げようと、思わず私はビールを飲み干した。
「おお~、梓センパイ、さすがに酒豪! 良い飲みっぷりっ!」
誰が、酒豪だ人聞きの悪い。
景気のいい美加ちゃんの声とともに、空になったコップに、再び黄金色の液体が満たされる。それは実に魅惑的に、私の目には映った。
……まあ、いいか。今日ぐらい。
楽しくお酒を飲んだって、許されるわよね?
なんて思ったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
否。
大きな、間違いだった――。