07 指先
『恋愛』っていうのは、治りきらない風邪に似ている。
いつまでも心の奥底にくすぶって、何でもないようなことに過剰反応しては、ドキドキと鼓動を早めて主を苦しめる。
それに更に拍車をかけるのは――。
「高橋さん、ちょっといいかな?」
この声だ。
同じ職場で、それもしばらくの間とはいえ『補佐役』なんて、四六時中くっついて行動しなきゃならない立場にいて、声が耳に入るたびドキドキしてたんじゃ、とても身が持たない。
そうは思うけど。
名前なんて呼ばれた日には、変な汗が背中に流れたりなんかして。
もう、重傷だ……。
「は、はい、何ですか課長?」
今日の課長は、なんと図面書きに挑戦なさっている。
大きなビル工事なんかの、ある程度画一化されている単純な加工図は、通常はコンピューターで作図してしまう。でも、小規模の細かい書き込みが必要な工事の図面は、昔ながらの『図面台』を使って手作業で書いていく。
その方が、だんぜん効率が良いから。
今、私は三つほど工事を担当していて、そのうちの一つが少しばかり凝った建物で、その凝った部分の図面を、課長自ら書いてみたいと言いだしたのだ。
『加工図面の類は書いたことがない』、そう言っていたから期待はしていなかったんだけど、蓋を開けてビックリした。
「ここの補強プレートの収まりなんだが、これで良いのかな?」
「えーと……、はい、これでOKです。でも、本当に初めてなんですか、加工図書かれるの。なんだか、もの凄く素人離れしているんですけど……」
『社長自ら系列会社から引き抜いてきた、有望株』
その『噂』しか聞いていない私は、谷田部課長が今までどんな仕事をしていたのか知らない。だけど、なんにしろ図面を書く仕事に携わっていたのだろうと予想が付いた。
図面を書いたことがない人間に、図面台と紙とシャープペンを渡しても、普通は線一本まともには書けない。同じ太さで均一の綺麗な線を引くと言うのは、簡単のようでいて実は以外と難しく、普通は、書き出しが太くなり、後になるほど細くなってしまう。
かく言う私だって、真っ直ぐな綺麗な線が書けるまでには、並々ならぬ努力をしたのだ。
所がどっこい。
谷田部課長の華麗なるシャープペンさばきといったら、もう職人芸で、下手をしたら、この道一筋六年の私よりも巧いんじゃないかと思うほどだった。
「まあ、少し設計を囓ったくらいだけどね」
「えっ!? 設計って、……まさか建築士の資格、持ってたりするんですか?」
「ああ、ちょっと必要に迫られて一級建築士を取った――というか、会社で取らされたんだ。ペーパー建築士だけどね。でも、こういう設計図から加工図をおこすと言うのは、正真正銘初めてだよ。けっこう、面白いものだね」
うひゃー。これは、真面目にビックリだ。
大手ゼネコンの監督なんかでも、持っているのはほとんど『二級建築士』の免許止まり。『一級建築士』っていったら、設計士の先生よ。はっきり言って、鉄骨の加工図書くのに必要な資格じゃない。っていうか、思いっきり宝の持ち腐れじゃない。
なんで、この人、この会社に来たんだろう?
と、気持ちよく紙の上を滑っていくシャープペンの芯と、それを操る長い指先に見ほれていたら、不意に視線が合って思わず呼吸停止。
「と、ここの収まりもこれで良いのかな?」
ん?
と、伺うような瞳に見詰められて、またドキドキと鼓動が跳ね回る。
「え、あ、はいっ! バッチリOKですっ」
ああ誰か。
このイカレタ脳みそを、何とかしてください……。