06 警鐘
谷田部課長の正体が、私の知っている元恋人の榊東悟だと分かった――。これで、一安心! めでたしめでたし~! と、簡単に全てが丸く収まるのなら苦労はしない。
むしろ正体が分かったことで、余計に気になってしまうのが悲しい女のサガと言うもので。些細なことに、神経が張り詰めてしまうのが自分でも分かる。
「高橋さん、この勾配ポイントなんですが――」
予定通り、駅で設計士の先生とゼネコンの担当監督を乗せて第一工場で原寸検査に入っても、背中に感じる谷田部課長の視線が気になって仕方がない。
自意識過剰すぎると分かっていても、気になるモノは気になってしまうのだ。
いったい私は、どうしちゃったんだろう?
もう、まるで制御不能。自分で、自分の気持ちが分からない。
「高橋さん? 聞いてますか?」
「あ、は、はい。すみませんっ!」
いけない。
なにやってるんだ、私は。
今は、真面目に検査に集中しないと。
いったいアンタは何年この仕事をしているんだ。
しっかりしろ、高橋梓!
「ええっと、ここの勾配ポイントはですね――」
設計士の先生の訝しげな声にハッと我に返った私は、自分に活を入れ、図面と原寸図を見比べながら、詳細の説明を始めた。
冷や汗をかく場面はあったものの、原寸検査はなんとか無事終了した。設計士と監督を再び駅に送り届けひと息付けたのは、もう午後の三時を回っていた。
「お疲れさまでした、課長。お腹空かれたでしょう? 急なことでお弁当まで手が回らず、すみませんでした。何処かに寄って、何か食べていきましょうか?」
駅から会社への帰り道。私は車を走らせながら、今朝と同じように無言で車の助手席に座っている谷田部課長に、話を振った。
もちろん、お客様達のお昼は準備していたけど、まさか課長の飛び入りまでは想定外。お客様が居るのに、それを放って買い出しに行けるはずもなく。出前をとることも出来たんだけど、間抜けなことに昼食の準備に入るまで、そのことに気付かなかった。
我ながら、なんて段取りの悪さだろう。
私の分のお弁当をどうぞと課長に勧めたのだけど、受け取っては貰えなかったのだ。
結果。第一工場には、手の付けられなかったお弁当が一つと、空きっ腹の上司と部下が残されることになった。
「――そうだね。この辺はまだ不案内だから、何処か、安くて美味しい店を教えてくれるとありがたいな」
「はい、安くて美味しいお店なら、任せてください」
私はあくまで、上司・『谷田部課長』に対する、態度と言葉遣いを崩さない。それに対して、彼も、部下に対する以上の反応をみせない。
それでいい。
そう思う。
もし、このバランスを少しでも崩してしまったら、私には自分を押さえる自信がない。真っ直ぐ突っ走ってしまいそうで、自分の行動に自信が持てない。
九年前。どうして突然姿を消したのか。今までどうしていたのか。問いただして、泣いてすがりついてしまうかもしれない。
たぶん、私の心の内にくすぶっているこの想いは、もう消えてしまったと思っていた、この男に対する恋心なのだろうと思う。
だけど、危険だ――。
『この男に近付いてはイケナイ』
そう、私の中の『女の勘』が、警鐘を鳴らしている。
でも、それを分かっていながら、揺れてしまう自分がいるのも確かだ。
例えるなら、まるで、ピンと張られたタイトロープ。その上を、やっとのことでバランスを取って歩いている。
そんな危うい自分を、私は感じていた。