44 真意-6
私の反応が意外だったのか、
少し、驚いたように目を見張った後、私を見つめる谷田部課長の顔に浮かんだのは、『あの笑顔』だった。
真っ直ぐ向けられる柔らかい優しい笑顔に、心の奥がざわめくのは、まだ止められない。
それでも、私は作った笑みを崩さずに、再び同じ台詞を静かに繰り返した。
「谷田部課長、手を、放してください」
言葉の意味を咀嚼するような、短い沈黙の後。
ゆっくりと目を閉じ、その笑顔を寂しげなものに変化させながら、課長は私の背に回していた左手を、すうっと外した。
それと同時に、手のひらから与えられていた温もりも、まるで気化するみたいに消えていく。
瞬間、胸を突き刺すのは、たとえようのない喪失感。
それに耐えながら、私は、床に両腕を付き、上体を起こした。
「――すまない。少し悪酔いしたみたいだな……」
疲れたような、力の無い呟きを落とし、
パタリ――と、
脱力したように、私の身体を離れた両腕をフローリングの床に投げ出して、課長は静かに目を閉じる。
そして、二人しかいない部屋の中は、沈黙に包まれた。
「……課長?」
そのまま、何の反応もしなくなった課長の顔を、覗き込む。
固く閉じられた瞳は、開く気配がない。
もしかして、寝てしまったの?
「谷田部課長?」
再び、名前を呼んでみても、やはり反応はない。
どうやら、本当に眠ってしまったみたいだ。
チラリと、壁掛け時計に視線を走らせれば、すでに夜中の三時を回っている。
いい加減に、私も、眠らなきゃ。
そう思ったところで、まだ自分が課長の身体に、しっかり跨ったままだということに初めて気付き、一気に頭に血が上った。
「や、やだ!」
これじゃまるで、
『OL・深夜に寝込んだ上司を襲うの図』にしか見えない。
慌てて、床に付いた両手に力を込めて立ち上がろうとした、その指先が、投げ出された課長の指先に触れ、ドキリと鼓動が跳ねた。
指に触れたことにではなく、そこに宿る違和感に。
先刻は、ひんやりと冷たく感じた課長の指先が、やたらと温かい。否、それは既に『熱い』と言える領域で、明らかに人間の通常体温を遥かに超えている。
「え――?」
ちょ、ちょっと!?
ギョッとして、課長の顔を覗き込むと、良く見ればいつもよりも顔色が赤いような気がする。
酔っ払って、顔が赤くなるタイプじゃないから、これは確実に他に原因がある。
心なしか、息も、浅くて速いような気がする。
そう言えば、抱きしめられたときも、やたらと熱く感じた。
普段からは考えられないような課長の異常行動。
お酒に酔ったせいじゃないとしたら?
「か、課長!?」
泡を食って、右手を課長の額に伸ばして見れば、案の定、チリチリと感じるほど熱くなっている。
念のため、額に額をくっつけて、再度確認をしてみても、間違いなく、熱い。熱すぎる。
やだ、風邪!?
それとも、他の病気!?
「と、とにかく、冷やさなきゃ!」
と、パニクりながら、課長の額にくっけていた自分の額を浮かしかけたその時だった。
ガラリ――と、
背後で、隣の寝室の引き戸が開く音が上がり、
「ふわぁ~っ。先輩おトイレかして……」
眠たそうな、美加ちゃんの声が聞こえて、私は全身をピキリと、こわばらせる。
そして、
恐る恐る振り返れば、
これまた同じく、DKに一歩足を踏み入れた体制のまま、全身をピキリとこわばらせた、美加ちゃんの姿があった。