43 真意-5
「どう……して?」
そう、問わずにはいられなかった。
今更、どうして、そんな瞳を私に向けるのかと。
私とあなたは、ただの上司と部下。
あなたは、私のプライベートには、関知しない。
そう、言ったじゃないの。
答えの変わりに、
「良くできました。んじゃご褒美を」
笑いを含んだ声と共に唇に走ったのは、懐かしい、柔らかい感触。
そっと、唇に触れただけの、優しいキスなのに、その破壊力は絶大で。
次の瞬間、私の、涙腺は一気に崩壊した。
ぽろぽろぽろ、
後から後から、とめどなく溢れ出す涙の雫が、上気した頬の熱を奪って、音も無く滴り落ちていく。
「……っ……」
泣くまいと、ギュッと唇を噛んで懸命に堪えるけれど、どうすることも出来ない。
溢れ出したのは、涙に姿を変えた、消すことの出来ない、恋心だ。
再会したその時から、こういう瞬間が来ることは、分っていた気がする。
見ないフリをしたって、
気付かないフリをしたって、
その声を聞くたびに、
その笑顔を見るたびに、
心の天秤は、いつだって大きく揺らいでいた。
かろうじてとっていた危うい心のバランスは、今、たった一度のキスで、いとも簡単に崩れ去ってしまった。
私は、この人が好きだ。
今も昔と変わらずに、ううん、それ以上に、この人に恋い焦がれている。
いつだって、触れたいと、触れて欲しいと、
心の奥底で、願っていた。
だけど――。
あなたには、婚約者がいるのに。
「どう……して?」
こんなふうに突然、心の中に踏み込んでくるの?
私に、抗う術などないのに。
こんなの、ずるい。
ずるいよ。
「っ……」
溢れ出る涙を止めようがない私は、課長の、東悟の胸に、『パフン』と、自ら顔を伏せた。
頬から離れた彼の右手が、まるで私の涙に戸惑うように、そっと頭に乗せられる。
大きな手のひらから伝わる温もりが、心の中にじんわりと染み込んで行く。
「どうして……だろうな」
抑揚の無い、でも苦渋の成分を色濃く含んだ低い呟きが、白く滲んだ世界に静かに溶けていく。
この人も、迷っているのだろうか?
私と、同じように、自分の気持ちがままならずに、悩んでいるのだろうか?
「ごめん……」
ほとんど囁くような贖罪の言葉が、ポトリと、心の中に小さな波紋を描く。
それは、私を泣かせたことへの、わびの言葉。
同時に、これ以上は踏み込めないという、言外の拒絶のサイン。
私は榊東悟という元恋人の性格を、良く知っている。
再会から数ヶ月、課長補佐として、谷田部東悟と言う上司の、昔と変わらない部分も変わった部分も、間近で見てきた。
その上で、悲しいことに、私には、自分が拒絶されていることが理解できてしまう。
今の私は、この人にとって、部下以上の存在にはなれないと、肌で感じてしまう。
なら、せめて。
最高じゃなくてもいい。
最良の部下でありたい。
そう、思った。
ふうっと、一つ、深呼吸めいた大きなため息をつき。
私は、静かに、課長の胸に伏せていた顔を上げた。
そう。
元・恋人の東悟ではなく、谷田部課長の胸から、顔を上げた。
頬は、まだ、涙の跡で濡れているけれど、もう、涙の元栓は、ぎゅっと締め切った。
そして。
「課長、手、放してくださいね。以前言ったはずですよ? 今度やったら、狸親父に言いつけるって」
こわばる口の端をどうにか引き上げて、自分でも、可愛くないと思わずにはいられない、辛辣な台詞を吐いた。