42 真意-4
「谷田部課長っ」
「谷田部も課長も、ナシ」
って、呼ばないよ。
この状況で、名前なんて呼んだら、ヤバすぎる!
「か、課長っ……」
じたばたと、
なんとかこの状況を脱しようともがくけれど、いくら細身とは言え、成人男性の力に適うはずもなく。
気持ちばかりがあせりまくり、状況は一向に好転しない。
そればかりか、立ち上がろうと足をばたつかせたのが禍して、身体の密着具合が、変なふうに変化した。
谷田部課長は仰向けになっていて、身体の上で私を抱き枕状態で抱きしめている。
この体勢で立とうと暴れたのもだから、私は、課長の身体を跨ぐ形になってしまった。
その状況を理解したとたん、身体は『ピキリ』と、固まった。
ちょっ、
ちょっと、待って!
これじゃまるで、私が課長を押し倒してるみたいじゃないっ!
女暦二十八年。
自慢じゃないけど、男を押し倒したことはない。
ゆえに、免疫がない。
ただ、そんな私でも理解できることはある。
この体勢で暴れたら、『飛んで火に入る夏の虫』、じゃなくて、『火に油を注ぐ』ようなものだって。
パニクる頭で、そう結論に達した私は、動けない。
一切の動きを止めたまま、身体をこわばらせる。
「梓、名前」
この状況を理解しているのかいないのか。
気にする様子もなく、私を抱き枕にしている御仁は、自分の名前を呼んでと、耳元に囁きを落とす。
「梓」
息がかかるほどの至近距離で、低い囁きが耳朶を叩く。
頭が、くらくらする。
「名前」
「うっ……」
触れるか、触れないか。
その温度さえ感じる距離で囁かれ、思わず、呻いてしまった。
これ、もしかして、本気で酔っぱらっているだけ……とか?
昔の恋人時代から、今の上司と部下時代まで、私はお酒を飲んで正体を無くしたこの人を、見たことはない。
でも、これは、この行動は、変だ。
変すぎる。
ふだんの彼からは考えられない、あまりの異常行動に、そんな嫌な予感が脳裏を掠める。
「梓」
ぎゃーーーーっ!
囁きざま、耳朶にキスを落とされ、思わずのけぞった。
こ、これ、
名前を呼んだら、開放してくれるのだろうか!?
更に状況が悪化しそうな気がしないでもない。
で、でもっ、
背に腹はかえられないっ!
観念した私は、震える声で、その名を呟いた。
「……東悟っ」
「――うん?」
って、聞こえない振りするんじゃない、この上司!
いくら、小さな声だったからって、この距離で聞こえないはずはないのに。
訝しげに小首を傾げられて、私は、少し開き直った。
「東悟っ」
最初よりは、はっきりした口調で音量アップ。
でも。
「――うん?」
ニッコリ、小首を傾げられて、私は完全に開き直った。
「東悟、東悟、東悟、東悟-っ!」
やけっぱちの名前連呼攻撃で、ぜえはあ息が上がってしまった私に向けられる彼の瞳に浮かぶのは、情熱の欠片を宿した、それでいて、たとえようもなく柔らかな光。
私は、この瞳をしっている。
九年前、私だけに向けられていた、やさしい瞳。
『キュン』と、
胸の一番奥深い場所で、何かが鳴き声を上げる。
たぶんそれは、忘れてしまった、
ううん、
忘れようとしていた、恋心――。