40 真意-2
「なんですか、その笑いは?」
少しムッとした表情を作り、ボソリと低い呟きを落とす。
本当に怒っているわけじゃないけど、お酒が入っているせいか、妙に絡みたい気分だ。
「いや、別に」
そう言って、更に深まる課長の笑顔に内心ドキドキしつつも、更にムッとした表情を作ってみせる。
顔が赤いのは、お酒のせいに出来るけど、
そうでもしていないと、このドキドキを悟られそうで、怖い。
「課長」
「うん?」
「前から、言おう言おうと思っていたんですけど」
「うん」
「私を見て、意味もなくニヤケるの、やめてください」
わざと、ぶっきらぼうに語尾を強めて言うと、課長は、『うん?』と、若干考えを巡らせるように、小首を傾げた。
「……ニヤケてるか、俺?」
「すっごく、ニヤケてます」
「ふうん」
ふうん、って、あなた。
まさに、今、あなたが浮かべている、『その笑顔』のことを指して言っているんですけど?
普段はぜったい崩さない、鉄壁の営業スマイル。
本心が見えない作り物の笑顔とは違う、ふわりとした、柔らかい笑顔。
不意に、自分に向けられているその笑顔に気付くたびに、心の奥に、想いの欠片が降り積もっていく。
その重みに耐え切れずに、いつか、心の底が抜けたらどうしてくれるのよ、この上司さま。
「何かあるんなら、ちゃんと言ってくださいね。ものすっごく、そう言うの、気になりますから!」
「了解、了解」
これっぽっちも、了承も理解もしていないよう笑顔で返されて、本気で肩の力が抜け落ちる。
笑い上戸だったっけ、この人?
のろりのろりと、細い記憶の糸を辿ってみても、
倦怠感と疲労感のダブル攻撃に、更にアルコールの援護射撃が加わって、思考回路も切断寸前。
上手く考えが纏まらないところに、猛烈な睡魔が襲ってきた。
さすがの恋心も、睡眠欲と言う本能の前には、眠りに落ちるらしい。
このまま、ここで撃沈しないうちに、自分の陣地に撤退した方が無難かも。
なけなしの理性の働きで、そう結論に達した私は、二センチばかりコップの底に残っていたビールを、ごくごくと飲み干した。
これで、打ち止め。
タイムオーバー。
「じゃあ、もうそろそろ……」
『寝ましょうか』と、重い腰を座布団から引き剥がし、立ち上がろうとした次の瞬間だった。
身体が左側に、谷田部課長が座っている方に、大きく傾いだ。
「ふひゃっ!?」
意味不明の、情けない小さな悲鳴が口から飛び出すけど、何の助けにもならない。
傾いだ世界はグルリと、半回転。
重力に引かれた身体は、焦る気持ちを嘲笑うかのように、前のめりに垂直落下していく。
このまま行けば、めでたく床に顔面殴打は免れない。
メガネを掛けたまま物にぶつかるとかなり痛い。
それですめば良いけど、悪くすればフレーム湾曲・レンズ粉砕。
更に悪くすれば、流血モノ。
の、はずなのに。
腹這いに倒れた身体に襲ってきたのは、フローリングの床にぶつかる硬質の衝撃や痛みではなく、ほど良いクッション緒の効いた、妙に懐かしい感触――。
フワリ、と鼻腔に届くのは、柑橘系のコロンと微かなタバコの匂い。
見開いた目の前いっぱいに広がるのは、白いワイシャツの生地。
背中にぎゅっと回された、力強い腕。
酔いが回って、ふらついたんじゃない。
強い力で、左手を引っ張られて、倒れこんだ。
誰が、引っ張った?
何処に、倒れこんだ?
って、二人しか居ない空間で、答えなんか明白だ。